114:死者への怒り
朝だった。
だが、空は暗い。
厚い雲がヴァルゼア防衛都市を覆い、湿った冷気が石畳を這っている。
戦いの後の都市には独特の静けさがあった。
完全な平穏ではない。
疲弊した人間たちが、次の戦いまで必死に呼吸している静けさだ。
北区画では修復作業が続いている。
崩れた城壁。
焼け落ちた建物。
壊れた水路。
食料庫も半壊し、配給量はさらに減った。
それでも。
人は動いている。
木材を運ぶ者。
炊き出しを続ける者。
怪我人を治療する者。
泣きながら遺体を探す者。
死者の軍勢との戦いは終わっていない。
死んだ人間が、また襲ってくる。
その恐怖は都市全体に深く根を張っていた。
レインは北壁の上に立っていた。
冷たい風が黒髪を揺らす。
目の下には薄い隈。
眠れていない。
それでも彼は外を見ていた。
遠くの平原。
霧。
黒い影。
死霊軍はまだ消えていない。
「また立ってる……」
小さな声だった。
討伐したはずの死体が。
再び動く。
何度も。
何度も。
まるで命そのものを嘲笑うように。
レインは拳を握った。
怖い。
今でも。
死体は怖い。
腐臭も。
壊れた顔も。
動く死者も。
全部怖い。
でも。
それ以上に。
許せなかった。
「……なんで」
声が漏れる。
「なんで、死んだ後まで……」
その時だった。
後ろから足音。
セレナだった。
銀髪を後ろで束ね、簡素な黒い上着を羽織っている。
傷はまだ完全には治っていない。
それでも立っている。
戦場の女だった。
「また寝てない顔」
「……少しだけ」
「その台詞もう聞き飽きた」
セレナは隣に立つ。
しばらく二人で外を見ていた。
レインは小さく言う。
「嫌なんです」
「うん」
「死んだ人を使うの」
セレナは黙って聞いていた。
レインは続ける。
「死んだら終わりじゃないですか」
「ちゃんと眠って」
「終わるべきなのに」
「なんで……」
言葉が詰まる。
怒りだった。
怖がりな彼には珍しい感情。
セレナは静かに目を細めた。
「怒ってるのね」
「……はい」
「珍しい」
「自分でもそう思います」
レインは苦笑する。
でも。
今回は違った。
怖いだけじゃない。
許せない。
アルベルト。
あの英雄の最後の顔。
穏やかだった。
解放された顔だった。
それを思い出す。
「死者を利用するのって」
「生きてる人間を壊すためですよね」
セレナは頷く。
「そう」
「死霊術は心を折る術式」
「死体そのものより」
「“知ってる相手が襲ってくる”のが問題」
彼女は遠くを見る。
「昔もあった」
「死霊災害」
レインが顔を上げる。
「私、あの時まだ十八だった」
「北方戦線」
「都市一つ消えた」
静かな声だった。
だが、その中に重さがある。
「最初は普通の戦争だった」
「魔物討伐」
「いつもの大規模遠征」
「でも途中で死霊術者が現れた」
セレナの目が少しだけ暗くなる。
「地獄だった」
「昨日死んだ兵士が」
「翌朝には敵になる」
「仲間が泣きながら斬ってた」
「心が壊れる」
レインは何も言えない。
セレナは続ける。
「私の弟子も」
一瞬、言葉が止まった。
「……死んだ後、使われた」
空気が変わる。
レインは息を呑む。
セレナは笑わなかった。
「十四歳の子だった」
「強くなりたくて」
「頑張ってて」
「私の後ろついて回って」
「剣の振り方教えて」
「毎日必死で」
彼女は目を閉じる。
「死んだ」
「守れなかった」
短い言葉だった。
それだけで十分重い。
「その後」
「死霊として出てきた」
レインの喉が震える。
セレナの声は静かだった。
「笑ったわよ」
「最初」
「現実感なくて」
「壊れたみたいに」
「でも」
彼女は拳を握る。
「斬った」
「泣きながら」
「ちゃんと終わらせた」
風が吹く。
冷たい。
レインは言葉を失っていた。
セレナはいつも強い。
前を向く。
立っている。
でも。
その強さの下には。
大量の傷がある。
レインは小さく聞いた。
「……それでも」
「戦うんですか」
「戦う」
即答だった。
「死者を利用する連中は」
「止めないと終わらない」
「放っておくと、人間が人間じゃなくなる」
セレナは壁に背を預ける。
「だから怒っていい」
「レイン」
「怖いだけじゃなくていい」
レインは黙る。
怒り。
自分には似合わないと思っていた。
怖がって。
震えて。
吐いて。
逃げたくなる。
そんな自分が誰かに怒る資格なんてないと思っていた。
でも。
今は違う。
死者を道具にする。
残された人間を壊す。
それだけは。
許せなかった。
レインは小さく言った。
「……止めたいです」
「うん」
「終わらせたい」
「うん」
セレナは少し笑う。
「いい顔になってきた」
「え?」
「前は下ばっかり見てた」
「今は前見てる」
レインは少し困った顔をした。
「そんな変わってません」
「変わった」
セレナは断言する。
「怖いままなのが、あなたらしいけど」
「……褒めてます?」
「半分くらい」
少しだけ空気が軽くなる。
その時だった。
都市全体に鐘。
警報。
兵士たちの怒号。
「南門!!」
「死霊群接近!!」
「数、三千以上!!」
空気が変わる。
セレナの目が鋭くなる。
戦場の顔。
「行くわよ」
「はい」
二人は走る。
階段を駆け下りる。
都市内部では避難誘導が始まっていた。
子供が泣く。
母親が抱き抱える。
兵士たちが武器を持つ。
恐怖。
疲労。
それでも人は立つ。
南門。
そこには。
再び死者の軍団。
黒い群れ。
腐敗した兵士。
崩れた魔導士。
そして。
その先頭にいたのは。
一人の少女だった。
十四歳ほど。
片腕が崩れている。
古い訓練剣。
空虚な目。
セレナの足が止まる。
レインが気づく。
「……セレナさん?」
彼女は答えない。
ただ。
その少女を見ていた。
レインの鑑定が発動する。
【高位死霊兵】
・人格崩壊済み
・戦闘本能固定
・生前記憶断片保持
その瞬間。
少女の口が動いた。
「……せん、せい」
セレナの瞳が揺れる。
兵士たちが息を呑む。
レインは理解した。
この子が。
弟子。
セレナはゆっくり大剣を抜く。
炎が灯る。
でも。
彼女の目は怒っていた。
今まで見たことがないほど。
静かで。
深い怒り。
「レイン」
「はい」
「今回は」
セレナは前を見る。
「私がやる」
死者への怒りを燃やしながら。
最強の女は。
静かに前へ歩き出した。




