112:蘇った英雄
雨は止まなかった。
ヴァルゼア防衛都市の北門。
崩れた石壁。
燃える荷車。
死者の軍団。
黒い泥のような闇が地面を這い、腐臭が空気に混じる。
兵士たちの呼吸は荒い。
恐怖はもう隠せない。
戦場の中央で、死霊王ベルグ=ノアがゆっくりと両腕を広げた。
「見せてやろう」
低い声だった。
「人類が最も絶望する光景を」
闇が膨れ上がる。
空間そのものが軋む。
レインの鑑定が強制的に発動した。
【超大型死霊召喚術式】
・高位魂固定
・肉体再構築
・英雄級個体蘇生
・精神侵食濃度:極大
レインの顔色が変わる。
「……まずい」
セレナが剣を構えたまま聞く。
「何が来る」
「たぶん……英雄級です」
その瞬間。
地面が割れた。
黒い腕。
巨大な甲冑。
崩れた白銀のマント。
そして。
長剣。
兵士たちが息を呑む。
「……嘘だろ」
「あれは」
「まさか」
一人の老兵が膝をついた。
「白銀騎士アルベルト……」
その名が広がる。
ざわめき。
絶望。
かつて王国最強と呼ばれた英雄。
二十年前。
大災害級魔物を単独で討伐した男。
民衆に愛され。
最後は北方戦線で戦死した。
はずだった。
だが。
今。
その英雄が。
死人として立っている。
巨大な白銀鎧は黒く汚れ、眼窩には紫色の炎。
剣から溢れる魔力だけで空気が震えていた。
ベルグ=ノアが笑う。
「人類は英雄が好きだ」
「だから壊れやすい」
アルベルトがゆっくり剣を持ち上げた。
その瞬間。
轟音。
斬撃だけで城壁が吹き飛んだ。
兵士たちが悲鳴を上げる。
「うわああああ!!」
「防壁が!!」
「逃げろ!!」
戦線が崩れ始める。
セレナの目が鋭くなる。
「強いわね」
「……はい」
レインは震えていた。
怖い。
圧倒的だった。
セレナですら警戒している。
ベルグ=ノアが口を歪める。
「英雄とは便利だ」
「死んでも利用できる」
その言葉。
セレナの空気が変わった。
怒り。
静かな怒り。
彼女は前へ出る。
「レイン」
「はい」
「後ろで支援」
「セレナさん!」
「時間を稼ぐ」
「でも!」
「大丈夫」
そう言って笑う。
強い女の笑みだった。
でも。
レインには分かった。
無理をしている。
セレナは強い。
最強級だ。
それでも。
目の前の存在は異常だった。
アルベルトが踏み込む。
地面が砕ける。
速い。
セレナが火炎強化。
炎が身体を包む。
超大型大剣が振り抜かれる。
轟炎。
爆発。
だが。
アルベルトは止まらない。
白銀剣が振り下ろされる。
衝撃。
セレナが数十メートル吹き飛んだ。
石畳が砕ける。
兵士たちが凍りつく。
「セレナ様!?」
彼女は立ち上がった。
口元から血。
それでも笑う。
「……本当に強い」
レインの呼吸が乱れる。
怖い。
怖すぎる。
頭が痛い。
吐きそう。
それでも鑑定を続ける。
【白銀騎士アルベルト】
・死霊固定率:92%
・魂侵食進行
・肉体性能:生前超過
・核部位:心臓部呪核
見えた。
弱点。
でも。
近づけない。
セレナですら押されている。
アルベルトが再び突撃。
剣。
炎。
爆発。
空気が裂ける。
セレナは避け切れず、肩を斬られた。
鮮血。
兵士たちの顔色が変わる。
「嘘だ……」
「セレナ様が……」
絶望が広がる。
レインは歯を食いしばった。
足が震える。
逃げたい。
今すぐ。
でも。
セレナがいる。
彼女が前で戦っている。
いつも。
ずっと。
彼を守ってきた。
宿屋。
洗濯。
傷の手当。
一緒に食べた飯。
疲れた朝。
雨の日の会話。
静かな時間。
それを思い出す。
レインは剣を握り締めた。
「……僕が」
声が震える。
「僕がやります」
セレナが振り返る。
「無茶」
「分かってます」
「死ぬ」
「それでも」
レインは前へ出た。
怖い。
怖い。
怖い。
でも。
最後だけは逃げない。
アルベルトが視線を向ける。
圧力。
身体が硬直する。
レインは吐いた。
胃液が石畳に広がる。
兵士たちが目を見開く。
それでも。
彼は立った。
「……っ」
足が震える。
呼吸が乱れる。
視界が揺れる。
それでも前へ。
セレナが小さく息を飲んだ。
彼女は知っている。
レインは強くない。
怖がりだ。
震える。
吐く。
自信なんてない。
でも。
逃げない。
それだけは本物だった。
アルベルトが剣を振るう。
死ぬ。
誰もがそう思った。
その瞬間。
空間が歪む。
水。
風。
土。
光。
闇。
複数属性魔力が同時展開。
レインの周囲に巨大術式が形成される。
無限魔力。
制御不能級出力。
兵士たちが目を見開く。
「なんだ……あれ」
「魔力量がおかしい」
レインの目は震えていた。
怖いまま。
それでも。
術式だけは止まらない。
「光属性」
「浄化」
「空間固定」
「魔力拘束」
巨大な光鎖がアルベルトを拘束する。
白銀騎士が初めて止まった。
ベルグ=ノアが目を細める。
「……ほう」
レインは叫ぶ。
「セレナさん!!」
「今です!!」
セレナが走った。
炎が爆発する。
彼女の身体強化が限界まで上がる。
銀髪が雨の中で揺れた。
美しかった。
戦場でしか生きられない女。
傷だらけで。
幸せを諦めて。
それでも戦い続ける女。
セレナは大剣を構える。
「燃えなさい」
炎が収束。
超高熱。
赤を超え、白へ。
「炎断」
一閃。
白銀騎士アルベルトの胸部が断ち切られた。
呪核露出。
レインが光属性を叩き込む。
「浄化ぁぁぁ!!」
轟光。
爆発。
死霊術式が崩壊した。
アルベルトの身体が止まる。
静寂。
雨だけが降っていた。
白銀騎士はゆっくり崩れ落ちる。
その顔から。
闇が消えた。
一瞬だけ。
穏やかな顔だった。
「……ありがとう」
誰かがそう聞いた気がした。
そして。
英雄は完全に消えた。
兵士たちは言葉を失っていた。
セレナは息を吐く。
疲労。
出血。
限界。
それでも。
彼女はレインを見る。
彼は膝をついていた。
震えている。
泣きそうな顔。
それでも。
逃げなかった。
セレナはゆっくり近づく。
「立てる?」
「……たぶん」
「嘘ね」
「……はい」
セレナは少し笑った。
そして。
自然に。
レインの頭を撫でた。
「よく頑張った」
その言葉。
レインは何も返せなかった。
ただ。
涙だけが止まらなかった。




