107:従魔王
世界各地の空が、赤く染まっていた。
北方では氷雪地帯が魔物に埋まり、西方では交易路が寸断された。南方の海洋国家では海竜が港を襲い、中央大陸では都市単位の避難が始まっている。
人々はようやく理解し始めていた。
これは局地的災害ではない。
世界そのものが、侵略されている。
崩壊都市ヴァルゼア。
冒険者ギルド本部は、今や難民収容所に近かった。
食料庫では炊き出しが続き、医務室は負傷者で埋まり、広場には怯えた子供たちが座り込んでいる。
レインは倉庫の隅で、小麦袋を運んでいた。
額には汗。
腕は震えている。
空間裂け目を閉じた代償で、身体は限界に近かった。
「無理しない」
背後から声。
セレナだった。
銀髪を後ろでまとめ、腕まくりした姿で木箱を抱えている。
S級冒険者というより、働く女将のようだった。
「……大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃない」
レインは苦笑する。
セレナは木箱を置くと、小さな布袋を投げた。
「食べなさい」
中には焼き菓子。
蜂蜜の香り。
「甘い物……」
「嫌い?」
「いえ」
レインは小さく笑った。
「好きです」
「そう」
セレナも少しだけ笑う。
「私も好き」
周囲の冒険者たちが驚いた顔をしていた。
「セレナさん甘党だったのか……」
「初めて見た……」
本人は聞こえていないふりをしていた。
二人は倉庫の外へ出る。
雨が降っていた。
冷たい雨。
避難民たちは屋根の下で身を寄せ合っている。
レインはその光景を見る。
怖かった。
自分一人では、到底守りきれない。
世界は広すぎる。
敵は多すぎる。
「……また考え込んでる」
セレナが横に立つ。
「顔で分かる」
「すみません」
「謝らなくていい」
彼女は壁に背を預ける。
「怖い?」
レインは少し黙る。
そして頷いた。
「はい」
「死ぬのが?」
「……守れないのが」
セレナは静かに目を閉じた。
その言葉。
昔、同じことを言った弟子がいた。
守りたくて。
強くなりたくて。
それでも死んだ。
「レイン」
「はい」
「あなたは、ちゃんと怖がれる」
雨音。
静かな声。
「それは大事」
「怖くなくなった人間から壊れる」
レインはセレナを見る。
彼女の横顔は綺麗だった。
でも。
少しだけ寂しそうだった。
「……セレナさんは」
レインが言う。
「怖くないんですか」
セレナは笑う。
「怖いわよ」
「毎回」
「毎日」
「誰かが死ぬ夢も見る」
レインは言葉を失う。
「でも戦う」
彼女は前を見る。
「生き残ったから」
「見捨てたくないから」
その時だった。
警鐘。
都市全域に響き渡る。
ギルド職員が叫ぶ。
「魔物反応!!」
「南門方向!!」
「超大型!!」
空気が変わる。
冒険者たちが立ち上がる。
セレナも剣を取る。
「行くわよ」
「はい!」
二人は駆け出した。
南門。
そこには絶望がいた。
巨大。
山のような影。
全身を黒い甲殻で覆われた異形。
さらに周囲には数万規模の魔物群。
飛竜。
魔狼。
巨鬼。
全部いる。
兵士が震える。
「あ、あれが……」
「従魔王……」
その名を聞いた瞬間、空気が凍った。
古代災害級。
国家崩壊認定魔物。
存在するだけで都市が滅ぶ。
レインの鑑定が発動する。
【従魔王グラディウス】
・災害級
・従属支配
・精神侵食
・魔物統率
・超再生
・魔力炉心
レインの顔色が変わる。
「……ダメだ」
「普通に戦ったら勝てない」
セレナが頷く。
「でしょうね」
なのに彼女は笑った。
「でも逃げない」
大剣を担ぐ。
炎が噴き出す。
「後ろにいる人たち、全部死ぬから」
その瞬間。
従魔王が咆哮した。
空気が震える。
魔物群が一斉突撃。
「来るぞ!!」
戦闘開始。
地獄だった。
魔物の津波。
冒険者たちが吹き飛ぶ。
壁が崩れる。
炎。
血。
悲鳴。
レインは必死に魔法を展開する。
「氷壁!!」
巨大氷壁。
だが粉砕。
「風圧拘束!!」
数百体を止める。
それでも多い。
終わらない。
「レイン!!」
セレナが叫ぶ。
上空。
飛竜群。
「光槍!!」
無数の光が空を貫く。
飛竜が墜落。
その隙にセレナが突撃。
炎の斬撃。
一振りで数十体を焼き飛ばす。
圧倒的。
だが。
従魔王が動いた。
巨大な腕。
空間そのものが歪む。
セレナが吹き飛ばされる。
「セレナさん!!」
地面に激突。
瓦礫が舞う。
レインの頭が真っ白になる。
嫌だった。
また。
守れないのは。
絶対に嫌だった。
レインは走る。
恐怖で吐きそうになりながら。
震えながら。
それでも。
止まらない。
「闇拘束!!」
黒い鎖。
従魔王の脚を止める。
瞬間。
圧倒的魔力が流れ込んできた。
レインの身体が震える。
「ぐっ……!」
吸収。
魔力吸収。
無限魔力が暴走しかける。
脳が焼ける。
意識が飛びそうになる。
でも。
逃げない。
「レイン!!」
セレナの声。
彼女は血を流しながら立ち上がっていた。
「離れなさい!!」
「嫌です!!」
初めてだった。
レインが叫んだのは。
「もう……!」
震えながら。
泣きそうになりながら。
「一人で戦わせたくない!!」
セレナの目が見開かれる。
その瞬間。
従魔王の魔力炉心が見えた。
胸部中央。
核。
レインは理解する。
あそこだ。
「あれを壊します!!」
「出来るの!?」
「分かりません!!」
セレナが笑った。
血を流しながら。
綺麗に。
「そういうところ、本当に馬鹿ね」
彼女は剣を構える。
「でも好きよ」
レインの思考が止まる。
「……え」
「後で聞き返しなさい」
次の瞬間。
セレナが飛んだ。
炎。
爆炎。
真正面から従魔王へ突撃。
怪物が腕を振るう。
セレナが避ける。
切る。
焼く。
止まらない。
「今!!」
レインは全魔力を集中する。
怖い。
失敗したら死ぬ。
でも。
セレナが信じてる。
なら。
応える。
「空間圧縮――!!」
世界が歪む。
従魔王の胸部空間が捻じ曲がる。
核露出。
「セレナさん!!」
「任せなさい!!」
炎の大剣。
全力。
一閃。
轟音。
核が砕け散った。
沈黙。
従魔王の巨体が崩れる。
魔物群が停止する。
都市に静寂が戻った。
雨だけが降っていた。
レインは膝をつく。
限界。
視界が滲む。
その身体を、セレナが抱き止めた。
「お疲れ様」
熱い体温。
安心する匂い。
レインは弱く笑う。
「……怖かったです」
「知ってる」
「でも」
レインはセレナを見る。
「逃げませんでした」
セレナは優しく笑った。
「うん」
「あなた、ちゃんと強くなってる」




