第2章-5 狐継の本能
さちの出ていった後も、伊吹はしばらく寝付けずにいた。
夜も深く、あたりはしんと静まり返っている。既に灯りは消していたが、全くの暗闇ではない。
見知らぬ土地で眠ることが苦にならなくなって久しいが、今夜はなぜかそうはいかず、先程のさちの悲痛な訴えが耳にこびりついて離れない。
何度目かわからない寝返りを打てば、背後から声が掛けられた。
「眠れねえのか」
「貴様には関係ない」
反射的に悪態をついてから、少し反省した。今のは別に焔は悪くない。だが、素直に謝るのも癪で、結局違う言葉を紡ぐ。
「先程の話、どう思った」
「さあな。あの餓鬼が狐継ってのは確かだろうが」
伊吹は天鵞絨家の狐継に会ったことがない。よってその血のもつ気配を知らず、千里が狐継である可能性に思い至らなかった。
しかし、あの子供が狐継だと言うならば、妖力を感じても害があるようにどうしても思えなかったことに納得がいく。焔もそう考えたのだろう。
わずかに差し込む月明りを頼りに、視線の先にある土壁の凹凸をなんとはなしに見つめながら、ぼそぼそと背後の男と会話を続ける。
「あの母親の話は全て真実だと?」
「あの女が並べ立てていた言葉に興味はねえよ。息子のためと言いながら、結局は自分が罪悪感から逃れてえだけだろ」
「辛辣だな。家族も故郷も失くしたとしたら、追いつめられるのもわからなくはない」
伊吹の父が死んだのも、天鵞絨家を襲った野狐を追いかけていた最中だと聞いている。そして、母はそれがきっかけで心を壊した。
「家族も故郷も所詮は他人だろう」
父を見殺しにした男の息子の言葉なのに、その言い草があまりにもこの男らしくて思わず笑ってしまう。
「冷たい奴だな」
「俺は母親を殺しているからな」
伊吹は背後を振り向きかけて、寸でのところで思いとどまった。その話を、この男の口から直接訊くのは初めてだった。焔の声はあくまで平坦で、いまいち感情が読み取れない。
「……お前が赤ん坊の頃の話だろう」
「まあな。だが、俺の炎で母親が死んだのは事実だ。罪悪感すらない。母親を恋しいと思ったこともない」
継監台にいる鬱金家の書記官とも、この男が親し気に話しているのを見たことがない。里でも、腫れ物のように扱われていたのだろう。そんな環境で育ったことを考えると、この男が随分と捻くれた性格をしているのも納得がいく。
だが伊吹は、思ったことと違う言葉を口にした。
「あの子供は、母親と離されるのをどう思うんだろうな」
狐継として生きていくなら、この村で暮らし続けることはできない。伊吹があの年頃の時には、既に母とは顔を合わせない日々を送っていたが、普通の子供ならまだまだ親に甘えたいものだろう。
「さあな。だが、餓鬼は餓鬼でも狐継だ。己の本能に従うだろう」
狐継の本能。
たまに聞く言葉だが、伊吹はこれを実感したことがない。狐継としてこうあるべきだと、祖母に教わった言葉に従って生きてきた。それは己を律する道しるべであって、本能と呼べるような衝動的なものではない。
だが、確かに背後の男には似合いの言葉だ。
「貴様は本能のままに生きていそうだな」
「ちがいねえ」
くつくつと笑う声に、こんなにまともに会話をしたのは初めてじゃないかと思い至る。言葉も態度も乱暴な奴だが、そこに悪意があるわけではないのだ。
そんなことを考えたせいか、昔から思っていたことが唇から零れた。
「……俺は、産まれたばかりの赤ん坊が人を殺せるとは思えない。お前のそれは、ただの不幸な事故だ」
背後から鼻で笑う気配がしたが、不思議と勘に障らなかった。




