第2章-4 千里を視通す者
「私の名前は、天鵞絨さちと申します。この名前に聞き覚えはございませんでしょうか」
はっと伊吹は瞠目した。黙っていた焔も同様だった。
「天鵞絨だと……?」
「はい、左様にございます。貴方様方も、継家の方とお見受けいたしました」
五つある継家のうちがひとつ、天鵞絨家。
その家の狐継は、代々、現在過去未来を視る技を扱えたという。
だが、しかし。
「かの家は、その、既に途絶えてしまったはずだが」
「ああ、やはりそうなのですね」
一瞬で貴族の女の顔になったさちが目を伏せる。
「私が十二のとき、隠れ里に野狐がやってきました。里を包む炎を、今でも覚えています。
妖力を持たない私でしたが、大人たちに逃がされて、必死に山を下りました。それで辿り着いたのがこの村です。
この村の人々は、身の着のまま逃げてきた私を温かく迎え入れてくれました。それでも初めの頃は、里を捨てるつもりなどさらさらなかったのです。
ほとぼりが冷めた頃を見計らい、村の皆に黙ってこっそり里に戻りましたが、そこには何もありませんでした。私が育った家も、畑も、何もかも。
その光景を見たらあの時の恐怖が思い出されて、震える足で村に逃げ帰りました。それから十五年、里の一族のことを知ろうにも、他に手立てがありません。故郷とこの血のことは誰にも話さずに生きてまいりました」
天鵞絨家の隠れ里は十五年前、突如現れた野狐に襲われた。数名いた現役の狐継は出払っており、知らせを受けて救援が駆けつけた頃にはもう、里は人諸共焼け尽くされ、見るも無残な姿だったという。
怒り狂った狐継たちは執拗に野狐を追いかけたが、その戦闘の最中で一人二人と命を落とし、ついに天鵞絨家の血は途絶えてしまったとされていた。
これは狐継に関わる者なら皆知っている事実だが、庶民に紛れざるを得なかった少女が知る由もない。
「けれど、この子を授かりました。産まれた瞬間わかりました。この子は、狐継だと。だから、千里と名付けました。いつか、正しく狐継として生きていけるように」
狐継の赤子は、その血の継いだ力にまつわる名を与えられる。銀灰家は風、鬱金家は炎というように。
天鵞絨千里。千里を視通す者。
れっきとした、狐継の名前だった。
「え、かあちゃん何言ってるの……?」
だが、当の本人は呆気に取られて阿呆面を晒していた。
「黙っていてごめんなさい。あなたは、妖狐の血を引いているの。狐継なのよ」
「え? なに? 狐憑き?」
「違う」
思わず口を挟んでしまった伊吹に、目を丸くした千里の視線が向けられる。
「狐憑きは野狐に操られた者のことをいう。我らは狐継。善孤の力を継ぎ、人に仇なす野狐を狩る者だ」
「ふーん」
わかったのかわかっていないのかというような息子の返事に、さちが伊吹に対して丁寧に礼をとる。
「この日を夢見ておりました。この村には死んだ夫の母もおりますし、何より身寄りのない私を受け入れてくれた恩がありますので、私はここを離れることはできません。ですがどうか、この子は狐継として育ててくださいませ」
「いや、私の一存では……」
話が急に進みすぎている。狐継とは国の命運に関わる存在であり、銀灰家当主である伊吹といえども簡単に判断ができる事柄ではない。困惑する伊吹が次の言葉を発するよりも先に、痺れを切らした千里が声を上げた。
「ちょっと待ってよ。勝手に決めんなって」
顔一杯に不満を表現する息子を、さちが真剣な顔で見下ろす。
「千里、これがあなたの生き方なのです」
「そんなん、急に言われてもわかんねーって」
「わからなくても構いません。あなたには狐継として生きる義務があるのです」
息子を諭す母の顔は、何かに追い詰められているようにも見えて、伊吹は割り込むべきか逡巡する。
「義務とか知らねえって。てかその変な話し方やめろよ」
「これが本来あるべき姿なのです。ああ、どれだけ、この日を夢見ていたことか……」
「だから知らねえって!」
ついに癇癪を起した千里が、戸口から飛び出していった。
「千里! ……すみません、お見苦しいところを」
「いや」
息子に手を伸ばしたが、さちは結局腰を上げなかった。項垂れる彼女に、伊吹は掛ける言葉を見つけられない。
「……狐継であることを、あの子にはいつか伝えようと思いながら、他の村の子供たちと仲良く遊ぶ姿を見るにつけ、なかなかその決心ができずにいました。
そうしたらあの子が悪戯を繰り返して村に迷惑をかけるようになってしまって。私を受け入れてくれた村の皆には、申し訳ない気持ちでいっぱいで。
何より、あの子が野狐になってしまうのではないかと、怖くて仕方がなかったんです」
「人は野狐にはならないだろう」
辛うじて返したその言葉にも、さちは首を振る。
「でも、あの子は狐継として育てられていないから。……私のいた頃の里には、子供の狐継がいなかったので、どう接すればよいのかわからなかったのです。すみません、こんな話」
さちは目尻に浮かんだ涙を拭うと、伊吹と、隣で黙っている焔に一礼した。
「息子が道を踏み外す前に。どうぞ、よろしくお願いいたします」




