第2章-2 茸
視線を上げると、すぐ近くにそびえ立つ山が目に入る。
村自体はそれほど広くない。ぽつぽつと並ぶ茅葺屋根の住居の向こう側で、村人たちが冬の間に休ませていたのだろう畑を耕している。
彼らは伊吹に気づくと軽く会釈を寄越したが、そのまま黙々と作業を進めていく。畑に立つ人々の中には子供も混ざっていて、客人が珍しいのか、大人たちとは違ってその手を止めてこちらを興味津々に見つめていた。
その光景を横目に見ながら、伊吹は真っ直ぐ村の中を歩き、一番大きな家の前で足を止めた。案内人はきちんと取次をしてくれていたようで、声をかければすぐに招き入れられる。
村長は、年季の入った烏帽子からふさふさとした白髪が覗く小柄な老人だった。
伊吹を上座に座らせ、曲がった背を更に縮こまらせて、こちらをおずおずと見上げてくる。
「こんな辺鄙な村に、お役人さんが二人もいらっしゃるなんて。儂ら何かしたですかね」
「ああ、いや。それについては行き違いがあってな。気にしなくてよい」
まさか、あの問題児はここで油を売っていただけですなんて言う訳にもいかず、適当に濁した伊吹は、こほんと咳払いする。
「本題に入らせてもらう。この周囲の村で、備蓄食糧が不足しているという訴えが相次いでいるが、この村は問題ないか。何か変わったことがあれば、些細なことでも言うように」
伊吹が言うと、少し安心したそぶりを見せていた村長は、はてと首を傾げた。
「食糧はそうですな、昨年は茸が沢山採れたで、特に不自由しやせんでしたよ。干して他の村の肉やら魚やらと交換してもろたもんで、例年より余裕があったくらいですな」
「ほう。茸が」
「へい。裏山で偶然ようさん生えちゅうところが見つかったもんで、これは山神様からのご褒美じゃて村のみなで感謝しとったです」
裏山というのが、先程目にした山のことだろう。山や川など、大きな自然と隣り合って暮らす人々の間には信仰が生まれるものだ。だが、本題はそこではない。
「その茸を見せてもらうことはできるか」
ここで暮らす人々の信仰を否定するつもりはない。信仰とは関係なく、人を謀るのはいつだって神を騙る人間や、あるいは野狐なのだ。
もしここで村長が焦るようなそぶりを見せれば、この村が意識的に他の村を騙していたことになる。この村長自身は全く無害そうに見えるが、村に存在する野狐の気配のことを考えると、何かを隠していてもおかしくない。
「はあ。お見せするのは構いやせんが」
注意深く観察していた伊吹の視線の意味に気づかず、村長は不思議そうな面持ちで立ち上がると、伊吹を促して外に出た。
それに続いた伊吹の視界の端に、驚いたようにぱっと物陰に隠れる小さな影が映る。
先程の子供たちだろう。来客が珍しくて覗きに来たのだろうか。その割にはやたら強い視線でこちらを睨んでいる者がいるが、伊吹は村長を追うことを優先させる。
「ここですだ」
案内されたのは、どこにでもある高床式の倉庫であった。
「足元お気をつけなすって」
梯子を上り、やや低めに造られた入り口を潜る。明り取りの窓などはないので、戸は開けたままにした。
中には、麻袋に詰められた麦や乾燥させた肉などが並べられている。もう春に差し掛かる季節のため、倉庫の中身はそれほど充実していないが、冬を越すための食糧は十分にあったのだろう。
「茸はこれですだよ」
伊吹は瞬きした。
村長が指差す木箱の中身を覗き込んだが、そこにあるのはただの枯れた木の葉の山だった。
「……これが?」
「へい。毎年よく採れる茸なので、あまり変わり映えしやせんが。でもこいつのおかげで今年は助かったもんで、感謝しねえといけねえなって話ですや」
伊吹は黙して再度木箱の中を見つめる。
「どうなさったんで?」
「いや……」
村長は不思議そうにしている。どうやら彼には、本当にこの木の葉が茸に見えているらしい。
さて、どうしたものか。
おそらく、村長をはじめ村人たちには、野狐による幻覚が見せられている。狐継として研鑽を積んでいる伊吹には効かない程度の弱いものだが、彼らがこれを茸だと思って食べてしまっているであろうことが問題だった。
野狐の存在が民草に知らされていないのはこういうときに不便だ。
彼らには何が起きているかを悟らせないまま、秘密裏に処理せねばならない。よってここでこれは木の葉だと指摘するのは論外なのだが、だからといってこれを村人たちがこれ以上口にするのを黙って見過ごすわけにはいかない。
伊吹が木の葉の山を見つめながら目まぐるしく思考を巡らせていたところで、ぱたんと戸が閉まる音と同時に暗闇が訪れた。
「……ッ」
「ああ、こりゃいかん」
村長が手探りで戸口に向かい、閉じられていた戸を開ける。外の光が差し込むと同時に、子供たちのけたけたという笑い声が聞こえてきた。
「こら、おめえたち! お役人様に向かって何しよる!」
「ごめんなさーい」
村長が怒鳴ると、反省の欠片も感じられない謝罪の声が返ってくる。村長は青ざめた顔で伊吹を振り返った。
「申し訳ありやせん。どうにも悪戯ざかりの奴らでして」
「……ああ、いや。構わない」
伊吹はそれだけ言うと、縮こまる村長の横を通り過ぎて外に出た。春の柔らかい日差しといえどもその眩しさに目を細めながら、詰めていた息を吐く。
伊吹の様子を伺っていた村長が、咎められることはないと察したのかほっとした様子で口を開いた。
「ほんと、すみませんなあ。一人、あの年のわりには力も強いし頭もよう切れるやつがおりまして。そいつを中心にこうやって大人をからかいよるんです」
視線の先に、駆けていく水干姿の子供たちが見える。全部で八人いるが、一人体格が良いのが、村長のいう子供だろう。その背中を見つめて、伊吹は頷く。
「村長も苦労しているというわけだ」
「へい。まあ、でも、あの子らに助けられることもあるんでさ。無断で入ってきよるよそ者なんかに一番に気付くのもあの子らですし、ああ、そうだ。あの茸も、あの子らが見つけよったんですよ」
「ほう」
「お口にあうかわかりやせんが、今晩はうちに来てくだされ。あの茸もぎょうさん使わせてもらいますで」
村長による善意の申し出に、伊吹は視線を逸らした。
「……すまないが、茸は苦手でな」
「へえ! それはすんません。でしたら、茸を使わずに作るよう言い含めますで」
「ああ、助かる」
とりあえず、一晩の難は回避できそうだった。




