第1章-3 出立
「伊吹殿。戻ったか」
背後から声をかけられて、伊吹は紀平に目礼したあと、体ごと向き直って声の主に礼をした。
「先程戻りました。継監尹殿」
継監尹、すなわち継監台の長だ。
名は東雲安綱。歳は四十ほど。立派な顎髭が目を引く男だ。文官にしては体格が良いが、彼は継家の男ではない。
継監尹は、除目のたびに新しい文官が宛がわれる。狐継と、特定の貴族が癒着することを恐れての人事だと言われている。
貴族の中には、狐継を毛嫌いする者も多い。その正しい歴史を知るような位の高い官人でさえ、狐継を半妖、あるいは半獣の汚らわしい存在だと忌避する者も珍しくないのだ。
その中で現在の継監尹は、公平平等で、敬意を示すべき相手だと伊吹も認めていた。
「戻ってきたところ、早速で悪いが、次のお役目を任されてくれるかな」
継監尹は己の文机に向かって座り、山となっている紙の束を掻き分けて、目当てのものを探し出すと伊吹に手渡した。視線を落とす伊吹を見ながら、継監尹は言葉を続ける。
「北の方で、冬の前に備蓄していた食糧が、木の葉に変わってしまっているらしくてね。ひとつの村だけなら、勘違いだろうと済ませられるのだが、複数の村から同じような訴えが相次いでいるらしい。それで、巡察使がこちらに報告してきたわけだ」
巡察使とは、各地方に配備されている国司の中で、狐継の歴史を知り、野狐による事件の可能性があれば継監台に報告を上げる任を帯びている者たちのことだ。
初代狐継の母の生家のことを継家に対して本家というが、巡察使は主に本家の貴族たちがこれを担っている。
出世をしない継家の男たちと異なり、本家の貴族たちはもちろん位が高い。狐継の歴史を正しく知っており、その性質上閉鎖的になるしかない継家を存続させるため、嫁あるいは婿を送り込む一族ではあるが、全員が全員、狐継に好意的なわけではない。
現に、銀灰家当主である伊吹の妻となる女性について、小百合の催促にも関わらず本家からは音沙汰がなかった。
跡継ぎの生まれにくい継家、特に狐継が伊吹と吹雪の二名しかいない銀灰家にとって、嫁取りは死活問題である。
しかし、夫に先立たれ病に伏せる母を思うと、伊吹は自らの婚姻についてどうしても積極的になることができず、そんな事情も相まってこの問題は暫く先送りとなりそうだった。
銀灰家に限らず、本家の協力がなければ継家の血は途絶えてしまう。そのような本家と継家の力関係も相まって、巡察使としての職責を果たさず適当な報告をあげてくる者も少なくないが、今回の担当者はよく調べた上で、継監台に報告を寄越したらしい。
「国司の調べによると、訴えを寄越した村は、冬になる前に共通して、ひとつの村とやり取りをしていたそうだ」
冬の間は山も雪に覆われ、食糧となる獣も冬眠してしまう。よって秋になると食糧の備蓄に追われるわけだが、ひとつの村で必要な食糧をすべて賄えるわけではない。
土地柄、肉が手に入りにくい村もあれば、山菜や茸の類が手に入りにくい村もある。そういった村は近隣同士で物々交換を行い、厳しい冬に備えるのだ。
「その村は特定できているのでしょうか」
「ああ。木和田村、というらしい」
ここまで告げると、継監尹は口調を改めた。
「では、伊吹殿。木和田村を調査し、野狐が関与していた場合は速やかにそれを退けるように」
「御意」
継監尹に向かって首を垂れる。きびきびとした態度で身を翻すと、案ずるような視線を送ってくる紀平に目礼を返して外に出た。
太陽はまだ高い位置にある。この分なら、今日中に少し距離を稼げそうだ。
都を出る前に仕入れておきたい食糧や軟膏などを考えながら歩いていた伊吹の前方から、数人の官人たちが歩いてくるのが見えた。
その先頭を歩く者の顔を見て、伊吹は道を譲るように一歩身を引いて、礼をとる。
この検非違使庁内で最も地位の高い者。つまり、検非違使別当の山吹道家だった。
「ここはなんだか獣臭いですな」
伊吹の前を通り過ぎるとき、取り巻きの一人が嘲るように口を開いた。
「左様。獣を飼う小屋から一匹逃げてきたのでは」
「それは大変だ」
どっと沸き上がる笑い声。検非違使別当も片頬を上げてそれを咎めない。いや、狐継嫌いの検非違使別当に取り入るために、取り巻きたちはわざとやっているのだ。
元服してすぐの頃にもこの仕打ちをされて、伊吹は怒りを感じるよりも先に戸惑ったものだった。
狐継は崇高な使命を帯びた、誇り高い貴族だと祖母に教わって育ち、そのことを疑いもしていなかったのだから。戸惑い、悩み、現状を変えようと藻掻いてもみたが、すべて無駄だと悟ったとき、伊吹は割り切ることを覚えた。
時に命を危険に晒しながら、国のために戦ってきた先祖たちの働きは尊いものだ。受け継がれてきた狐継の誇りは、自分たちが覚えてさえいればいい。他の者にどう扱われようと、自分たちの為すべきことは変わらない。
だから伊吹は、無言で彼らが通り過ぎるのを待つ。
狐継として、銀灰家当主として、正しい行いをすること。そのために、今回のお役目も恙なく終わらせることこそ、伊吹が今為すべきことなのだから。
彼らが十分に遠ざかったのを見計らって、伊吹は再び歩き始めた。




