第1章-1 善き狐の力を継ぐ者
「祖母上。伊吹です」
襖の向こうから、「入りなさい」とその年齢を感じさせつつも凛とした返事が届く。
「失礼します」
瑠璃紺の狩衣に烏帽子を被った青年の名は、銀灰伊吹。歳は二十を数えたところ。その相貌は男にしては色白く、眦はやや吊り上がっているものの、整った顔立ちをしている。
伊吹は丁寧な所作で襖を開け閉めすると、よく磨かれた板張りの床に腰を下ろして一礼した。
「近くを通りましたので、都へ戻る前にご挨拶に伺いました」
文机に向かっていた女は、手元から顔を上げて己の孫を見遣った。
「ご苦労様でした。この度はどのようなお役目だったのですか」
彼女の名は、銀灰小百合。齢六十を超えているが、白藍の衣を纏ったその背筋は真っすぐに伸び、口元は彼女の厳格な性格を示すようにきつく引き結ばれている。
「はい。とある村から近くの山で狐火を見たとの訴えがあったので確認しに参ったのですが、実際は隣村の男たちが夜の山に分け入っていたようで、その篝火が正体でした。わざわざ夜の山に何をしに入ったのかは疑問でしたが、我らの領分ではないと判断し、村を後にした次第です」
「そうでしたか。恙なく終わったようで何よりです」
小百合はさほどの感慨もなさそうにそう言うと、手元にあった文を見降ろした。
「ところで。今、紀平からの文を読んでいました。今更言うことでもありませんが、鬱金家には呆れるばかりですね」
紀平というのは、伊吹より十年上の一族の男の名だ。彼は、都で宮仕えをしている。
二年前まで、小百合は銀灰家の当主代行という名目で、里にいながら都の情報を隅々まで把握していた。現在は隠居の身であるものの、その当時の名残で、一族で唯一都にて生活している紀平に、未だに宮中の動向を報告させているようだ。
「鬱金家がどうかしたのですか」
鬱金家とは、伊吹ら銀灰家とは切っても切れぬ関係の家だ。小百合も、そして伊吹も、かの家に良い印象を持っていない。いや、そんな言葉では生ぬるい。
はっきり言って、憎んでいる。
「当主の息子ですが、何やらお役目に出るたびに、やたらと戻るまで時間がかかるのだとか。次のお役目を受けるのを嫌って、わざと都へ戻るのを遅らせているのではと噂が立っているようです。親が親なら、子も子ということですね」
十五年前、銀灰家当主だった伊吹の父が死んだ。その時のことは、幼かった伊吹もぼんやりと覚えている。
父の死を伝えに来た鬱金家当主は、父の最期について詳しく語ろうとしなかった。泣き崩れる母、怒りに眦を吊り上げて問い詰める祖母を置いて、最小限の報告のみ済ませると、まるで義務は果たしたとでもいうようにその男は去って行った。
まだ幼かった伊吹の他に当主となる資格をもつ者は一族におらず、母は程なくして気の病に臥せてしまった。伊吹の後見という形で当主代行の任に就いた祖母は、その立場を利用して情報を集め、彼女の息子の死は鬱金家当主の責任であると結論付けた。あの男のせいで息子は死んだのだと、その後ろめたさからその最期について詳しく語ろうとしないのだと、表立って糾弾したが、鬱金家当主は相変わらず無言のままだった。
それ以降、祖母は鬱金家を息子の仇として憎み、蔑み、伊吹はその話を幾度も聞いて育ったのだ。
「伊吹さん。あなたは、鬱金家などには決して劣らぬよう、銀灰家当主の名に恥じぬ行いをしなければなりませんよ」
「はい。肝に銘じております。祖母上」
二年前、正式に銀灰家の当主に就任した伊吹は、祖母の言葉にしっかりと頷いた。
銀灰家の当主となる資格、それはただ血筋によるものではない。鬱金家についても、また然り。
祖母の前を辞した伊吹は、屋敷を出て里の最奥へと向かう。里といっても、今は銀灰家の血族六名と、代々この一族に仕える下人たちのみが暮らす、山に囲まれた小さな隠れ里だ。
すぐに辿り着いた祠の前で、伊吹は静かに手を合わせる。
そこに祀られているのは、彼の先祖だ。ただし、ただの先祖ではない。
妖狐。
もっと詳しく言うならば、善狐。
人に紛れて悪さをする野狐と異なり、平和と秩序を愛し、山奥でひっそりと暮らし、気まぐれに人を助ける善き妖狐の総称だ。
その昔、この国の帝を、一匹の野狐がたぶらかした。その女狐は帝を唆し、贅沢の限りを尽くして国庫を傾け、帝に進言する忠臣たちを片端から失脚させた。
帝の弟はそれを憂いていたが、幻を見せ、人心をも操る野狐に対抗する手段をもたず、何もできない状況に歯噛みしていた。
そこに、五体の善孤が協力を申し出る。野狐が人間の国を好き勝手にしている現状は、善孤として見逃せない。手を貸そう、と。
善狐と人間は力をあわせて戦った。それに敗れた女狐は死に際、呪いの言葉を吐く。
妾を倒しても、また次の同胞たちがこの国を襲うだろう。
兄を廃した男は新たな帝となった。野狐の脅威を重く受け止めた男は、善孤たちにこれからも男を助けるよう求めたが、山奥で静かに暮らすことを是とする善孤たちに、これに応じる気はなかった。だが、野狐の言葉がそう遠くない未来に現実となる可能性を否定できないのも確か。善孤たちが提案したのは、彼らの血と力を少数の人間に分け与えることだった。
新帝と共に戦った、五人の臣下たち。彼らの一族の娘からそれぞれ一人ずつが選ばれ、やがて彼女らは善孤の血を引く赤子を産み落とした。
赤子たちは、見た目は人間そのものだったが、生まれたときから妖力を宿していた。長じた彼らは、恵まれた身体能力と、その妖力を駆使した人外の技を扱い、帝を助ける者となった。
善き狐の力を継ぐ者。
彼らは、畏敬を込めて『狐継』と呼ばれた。
新たな帝は、前帝が野狐に誑かされたと公表することをよしとしなかったため、野狐の存在は民草には伏せられたまま、中枢に近い一部の者が真実を知るのみとなった。昔から、狐に化かされたといった伝承は中央に限らず地方各地に存在しているものの、実際に野狐が現れれば、誰にも気づかれぬままに狐継が馳せ参じてそれを討つ。そうしておよそ百三十年にわたり、この国の平穏は保たれてきた。
その歴史の中で、脈々と受け継がれてきた善狐の血。
鬱金家、銀灰家、黒檀家、白磁家、天鵞絨家。
継家と呼ばれる五つの血族のうち、十五年前にその血筋が途絶えてしまった天鵞家を除く四家は、今も国のために野狐を討つことをその家命としている。
しかし、その特殊な血のせいか継家には総じて赤子が産まれにくく、ようやく産まれた赤子についても皆が妖力を持ち合わせているわけではない。
産まれ落ちたその日から妖力と共に生きることを定められし者、つまり善狐の力を継いだ者のみが狐継と呼ばれ、狐継に生まれついた者のみが、各家の当主たる資格を得るのだ。
かつて帝を助けた善狐がうち一体、銀灰家の祖先である銀狐を祀った祠を拝む伊吹は、まごうことなき狐継であり、銀灰家の七代目当主である。
瑠璃紺に染められた狩衣の袖を、山から降りてきた冷たい風が揺らしている。まだ昇りきっていない太陽の光も心許ない。立春を迎えたが、まだ寒さの残る季節だ。
ひと際強い風が吹いて、伊吹の被った烏帽子を煽るかに見えたが、彼がす、と視線を上げると、ぴたと風が止まった。
否。
すぐ近くに根を張った木々は、まだ寒々しい枝を大きく揺らしている。伊吹の周囲だけ、空気が凪いでいた。
それは、伊吹が銀灰家の狐継であるがゆえ。
狐継といえども人間なので、本物の妖狐のようにすべての技をひとりの人間が扱えるわけではない。どういうわけか、各家に分け与えられた能力は、それぞれ一種ずつ。銀灰家の狐継が継いだのは、風を操る力だった。
視線ひとつで己を取り巻く風を御した伊吹は、何事もなかったかのように踵を返す。
里の中心部に戻れば、よたよたと駆け寄ってくる小さな姿があった。
「いうき!」
「吹雪か。また大きくなったな」
しがみついてきた男児を抱き上げれば、ふくふくとした頬できゃらきゃらと笑う。
紀平の一人息子、銀灰吹雪。銀灰家で、伊吹以外の唯一の狐継だ。
父である紀平は宮仕えしているが、狐継の赤子は隠れ里で育てるのが習わしであるため、母子は離れて生活している。
「あ、七代目様」
吹雪を追いかけて、下男の小太郎が駆け寄ってきた。伊吹より少し年下の彼は、この里で働く下人の両親の元に生まれた。最近は走り回るようになった吹雪の遊び相手をしてくれているらしい。その後ろから、吹雪の乳母であるふきも顔を見せる。
「お戻りだったのですね」
「ああ。すぐ都に戻るけれどな。変わりないか」
「ええ。皆元気ですよ。……お母上には、会って行かれないので?」
伊吹の母、しずは気の病に伏してから、祖母と伊吹の暮らす本邸ではなく、紀平の両親が暮らす別邸に移されていた。後日生まれた吹雪が狐継と判明してからも、紀平ら一家の好意で、しずは別邸の一室で静かな生活を送っている。
「いや、今日は遠慮しておく。……母上の様子はどうだ」
「ここのところは少し寒さも和らぎましたので、お部屋から庭を眺めてらっしゃる日も多いですよ」
母が別邸に移されてから、伊吹はほとんど彼女と顔を合わせていない。祖母がいい顔をしなかったのもあるが、伊吹自身も、話しかけても反応を示さない母の姿を見ているのを辛く感じて、次第に足が遠のいてしまった。それは元服を済ませて五年も経った今も変わらない。
「そうか。まだ底冷えのする日も多い。風邪を召されぬよう気を付けてやってくれ」
「かしこまりました」
「ではな、吹雪」
前に会った時より少し重さを増した幼児を乳母に預けて、伊吹は銀灰の隠れ里を後にした。




