第2章-8 陽炎
「呼んだ?」
伊吹と焔が飛びずさる。
突如頭上に現れた少女は、葉のない枝に腰かけてその脚をぷらぷらとさせていた。
歳の頃は、千里よりやや幼く見える。着ているものは村の子供たちと似たような衣だが、長い黒髪に覆われた小さな顔は非常に愛らしい。
「かくれんぼ楽しかったね」
にっこりと千里に微笑みかける唇は、その幼い相貌に不釣り合いなほど赤く色づいていた。
「今日も一緒に遊ぼう? 何して遊ぶ?」
けらけらと甲高い笑い声が、山の中を木霊する。一見、ただの幼い子供がはしゃいでいるだけのように見える。だが、狐継は騙されない。
「貴様、野狐だな。何が狙いだ」
伊吹が低く問えば、千里を見つめていた野狐の視線がこちらを向いた。
「野狐だなんて無粋な呼び方しないで。春蕾っていう可愛い名前があるの」
春蕾と名乗った野狐から視線を外さず、伊吹はさり気なく千里のいる方に足を寄せる。大きな目を見開いて野狐を凝視している千里は、その場から一歩も動かない。
「名など聞いていない。木の葉を茸に見せているのはお前か」
春蕾が、こてんと首を傾げる。
「そうよ。遊んでくれたお礼に、ね」
可愛らしい幼女の見た目をしているが、野狐が人間に擬態したときの姿は当てにならない。奴らは幼女や美女、伊達男など人間の油断を誘う見た目で近づき、残虐な方法で相手を陥れる。
幼い見た目に反して、この野狐は人間に化けることができる、上位の存在ということだ。
伊吹は素早く思考を巡らせる。野狐に早速遭遇できたのは僥倖だったが、狐継といえど何の鍛錬もしていない千里を戦闘に巻き込むのは気が引ける。
それに、この山には村の大人たちも登っているはずだった。なんとかして千里をこの場から離脱させ、大人たちと一緒に避難させたいのだが、肝心の千里がこちらを見ようとしない。
「まどろっこしいな」
それまで無言だった焔が呟くと同時に、野狐の腰かける枝を囲むように炎が出現した。
「きゃっ。なによ!」
「わあっ!」
春蕾と同時に千里も驚きの声を上げ、尻もちを付いた。勝手に行動を起こした焔に舌打ちしたい気持ちを抑えながら、もう一歩、千里に近づく。
その間も、炎に囲まれた春蕾は、頬を膨らませてぷんぷんと怒っていた。
「なんでこんなことするの! 一緒に遊んでいただけじゃない! あたし、何も悪いことしてない!」
「ただの木の葉を、茸だと思わせて持ち帰らせただろう」
本当は野狐と会話を試みるなど無駄の極みだが、このまま戦闘が始まるのを避けたい一心で、伊吹は言葉を投げかける。
「それの何が悪いのよ! 皆喜んでたじゃない!」
春蕾は目論見どおり、伊吹の言葉に噛みついた。
「お前が幻覚を見せて村人を騙したことで、彼らは知らずのうちに木の葉を口にすることになった。それだけじゃない。幻覚の解けた木の葉を蓄えてしまった他の村は、餓えて苦しむことになる」
え、俺、木の葉食ってたの?と千里の素っ頓狂な声が聞こえた。恐怖で竦んでいるわけではなさそうで安心するが、その言葉に構ってやる余裕はない。
「そんなの知らない!」
「既に訴えが中央にまで届いている。その原因がこの村にあることも、とうに突き止められていた。お前の行動は、この村を陥れたんだ」
春蕾は耳を塞いで、枝の上で器用に蹲った。
「うるさいうるさいうるさい!」
このあたりが限界か。伊吹から千里のいる場所まであと少し。
「なあ、もういいだろう」
痺れを切らした焔が炎の勢いを強めた。近くの木の枝が燃え上がり、やがて木全体へ、隣の木へと火がまわっていく。
「おい、加減しろ」
熱風が伊吹らを煽る。このままでは山火事になってしまう。しかし焔は、その目を爛々と輝かせて野狐だけを見据えていた。
「おい!」
「もう嫌い! みんな死んじゃえばいいのに!」
春蕾が叫ぶと同時に、彼女の周囲に無数の青い狐火が出現した。焔がにやりと笑って髪紐ごと烏帽子を打ち捨てる。呼応するように彼の操る炎が大きく揺らめく。
その隙に最後の一歩で千里に身を寄せると、伊吹はその小さな体を肩に担いで飛びのいた。赤と青の炎が絡み合うように地面を舐め、空へと立ち昇る。
「加減しろと言っているだろう!」
千里を担いだまま、その背中に怒鳴りつける。炎に囲まれた焔は刀を抜きもせず、熱気にうねる髪をなびかせながら、獰猛に笑ってこちらに手を伸ばす。
「来いよ。伊吹」
その顔はどこか楽しそうですらあって、このまま戦闘に興じようとする彼が伊吹には理解できなかった。
「っ! ふざけるな! 村人を巻き込む気か!」
伊吹は正論を言ったはずだった。
だが、焔は一瞬瞠目すると、すっと興味を失ったかのように視線を逸らした。
野狐へと向き直ったその背中の向こうで、赤と青の炎はとどまることを知らず、木々を呑み込んでいく。距離を取ったといえども、その熱で顔が焼けるようだった。
「あの馬鹿!」
苛立ちに任せて毒づく。このまま千里だけ行かせても、すぐに炎に追い付かれる。伊吹もこの場を離脱し、村人を避難させるより他ない。瞬時に判断すると、伊吹は千里を担いだまま地面を蹴った。
「おわっ。え、逃げるのかよ!」
肩の上で千里が喚く。伊吹はその言葉を無視して別の問いを投げた。
「お前、山菜取りの道はわかるか」
「へ? お、おう!」
「皆を避難させる。誘導しろ」
伊吹の体は飛ぶように軽く足場の悪い斜面を駆けていく。周囲に風を纏い、その動きの後押しをさせているのだ。
みるみるうちに、野狐と対峙する焔の姿が遠ざかっていく。一瞬だけ顧みたその背中に、尾のように揺らめく陽炎のようなものが見えた気がしたが、肩の上で千里が歓声を上げたので視線を戻した。
「すっげえ! 飛んでるみたい!」
「舌を噛むなよ」
先程とは打って変わって、今度ははしゃぎ始めた千里に忠告する。子供らしい変わり身というべきか、狐継らしい豪胆さと言うべきか。
「どのあたりだ」
「まだまっすぐ!」
背後から熱風が追ってくる。ちらりと視線をやれば、依然として重く覆いかぶさる灰色の雲に届かんばかりの勢いで、炎は空高く猛り狂っていた。
凄まじい威力だった。
鬱金燦の炎も見たことがあるが、この比ではなかった。野狐の炎を呑み込む勢いで、無尽蔵に燃え広がっていく。人の為す技とも思えなかった。
これが、鬱金焔。
その炎で己の母を死に追いやり、同族にも疎まれるほどの妖力を生まれ持った男。
初めてその力を目の当たりにし、伊吹が苛立ちの代わりに抱いたのは、畏怖の感情だった。
伊吹だって人ならざる技を使いこなす、狐継だ。その鍛錬は欠かさず、自らの力に自信をもっていた。昔は散々叩きのめされた鬱金燦にだって、今なら対等に渡り合えるくらい強くなったつもりだった。
だが、彼には敵わない。
直感で、そう思い知らされた。
もはや屈辱とも思えなかった。
ただ、もやもやしたものだけが感情の奥底に燻っていて、それには一旦気が付かなかったことにして伊吹は山を駆ける。




