第2章-7 裏山
朝餉を片付けに行った千里が戻ってきたところで、三人は裏山へと出発した。
さちの言ったとおり、大人は皆、裏山に出ているらしい。今日の村はがらんとしていた。昨日は村人たちが耕していた畑にも、人影が見当たらない。小さな赤ん坊を背負った母親や、腰の曲がった老女だけが村に残っているようだった。
どんよりと重たい灰色の雲がすべての音を吸い込んだかのように静かな村を、三人は北に向かって歩く。
視線の先には、まだ裸の木々が目立つ山。木和田村の端はもうその山の一部らしく、道はなだらかな傾斜になっている。
「なあなあ。狐継って妖狐の血を引いてるんだろ? 俺も修行したら、何かに化けたりとかできるようになる?」
その不気味ともいえる静寂に構わず明るく訊いてくる千里に、伊吹はこほんと咳ばらいした。
「その前にひとついいか」
「なに?」
「お前の出自については疑いようがないと判断したので話すが、狐継に関することは本来みだりに口にしてはいけない。民草には秘匿されるべき存在だからだ。そのことを守れるか」
「おう! なんかかっけえな!」
「……守れるか?」
半眼で重ねて問えば、千里は自信満々に胸を張った。
「任せろって」
「………」
果たして本当に信用してよいものかという疑念が脳裏をよぎるが、十を数えるくらいの子供などこんなものだろうと無理矢理己を納得させる。それに、伊吹が教えずとも母親がこの子供に語って聞かせることになるのだろう。それならば、今教えても大差ない。
「わかった。先程の問いに応えよう。狐が人を化かす伝承はよくあるが、本来の己とは別の姿をとることができるのは上位の野狐だけだ。大概は人に幻覚を見せているだけだな」
「幻覚?」
「そうだ。己の姿は変えないまま、そういう姿をしているはずだと相手に思い込ませる」
「へえ。じゃあ目の前にいる人を操っているってこと?」
「いや。それとはまた別だ。野狐に操られた人間は、その力量にもよるが意識ごと体を乗っ取られていることが多い。幻覚を見せられているだけなら、そうはならない」
「ふーん。じゃあさ、野菜泥棒がやってきたとして、そいつらを操って俺の代わりに畑を耕させてさ、そういうことしても、かあちゃんたちに気付かれないようにできるってこと?」
眉を顰めて千里を見下ろす。
「悪知恵が働く奴だな。だが残念ながら、妖狐ができることを人間がすべてできるわけじゃない。幻覚の類は黒檀家、人の心を操る技は白磁家のものだ。お前の血筋では無理だろうな」
「なーんだ。じゃあ、俺って何ができるの?」
天狐を祖先とする天鵞絨家。その血を引く狐継が、まっすぐな瞳を向けてくる。
「天鵞絨家の狐継は、現在、過去、未来を視ることができると言われている。私も目の当たりにしたことはないので詳しくは知らないが」
「……明日の天気は晴れだよとか、そういうのがいつでもわかるようになるってこと?」
「さあ、どうだろうな。だがひとつ言えるのは、狐継の能力は万能ではないということだ」
もしすべての未来を視通せていたとしたら、天鵞絨の隠れ里は滅んだりなどしなかっただろう。妖狐の力は、本来非力な人間には扱いが難しい。
「ふうん。じゃあ、伊吹と焔は?」
「おい、呼び捨てにするなと言っただろう」
「いいじゃんか。で、何ができるの? 教えてよ」
全く悪びれない千里に、伊吹はため息を吐く。ずっと無言で我関せずの焔を含め、この同行者たちはどうも年長者であるはずの伊吹を蔑ろにしている気がする。が、ここでそれを言っても仕方がなかった。
「銀灰家の狐継は、代々風を操る。力のある妖狐なら、天候すら意のままだと言われているが、狐継でそれが可能な者は今まで存在したかどうか。私もその域には達していないが、己の声の届く範囲の風なら自在に操ることができる」
「すっげえ! なあ、やってみせてよ」
無垢な眼差しを向けられて一瞬怯んだが、伊吹は首を横に振る。
「狐継の力は必要な時に使うものだ。無闇にひけらかすものではない」
伊吹の返答を聞いて、千里は唇を尖らした。
「ちぇ。けち」
「けちとはなんだ、けちとは」
「なあ、焔は?」
千里は今度はくるっと後ろを向いて、やや後ろを気だるげに歩く焔に問いかける。会話の主導権はすっかり彼に握られてしまっていた。
「炎だな」
「炎?」
焔はおもむろに右手を差し出すと、そこに火の球を出現させた。
「おわ!」
驚いた千里が一度飛びのくが、恐る恐る焔に近づいて、その掌を覗き込む。
「熱くねえの?」
「ああ」
「へえ。……ってあっちい!」
顔を近づけすぎた千里が、焦げかけた前髪を抑えて飛び跳ねる。
「嘘じゃん!」
驚いて涙目になった千里が焔に訴えるが、彼はにやりと笑って火の球を千里に近づける。
「やめろって!」
「おい。無闇にひけらかすなと言っただろう」
千里が伊吹にしがみつき、焔に対する盾にしたいのか、ぐいぐいと狩衣の袖を引っ張ってくる。それをいなしながら苦言を呈せば、焔はくっくっと笑って拳を握り込み、火の球を消滅させた。
「消えた……。なあ、まじで熱くないの?」
伊吹の後ろから顔を出して焔の手元を見ていた千里は、不思議そうに問いかける。
「自分の炎で焼け死んじゃあ敵わないからな。鬱金家の狐継は熱に強くできている」
「へえ。便利だなあ」
時に野狐と命のやり取りを行う狐継にとって、人間のひ弱な体でいかに戦うかは死活問題なのだが、子供らしい素直な感想で形無しだった。
いつの間にか視界に映るのは背の高い木々の寒々しい枝ばかりとなり、足元は不安定になってきた。
「こっちだよ」
木の根が塞ぐ道とも呼べない斜面を、千里はすいすいと登っていく。
「随分手慣れているな」
その後を追いながら伊吹が呟けば、千里は得意げな顔をした。
「まあね。俺らの遊び場みたいなもんだから」
「子供だけでも山に入るのか」
「うん。村にいたら畑を手伝えって言われるから。遊びたいときはこっちに来るんだ」
「そういうものか」
銀灰家の隠れ里も山に囲まれているが、幼い頃にそれらの山で遊んだ記憶はない。隠れ里を囲む山は周囲から里を隠すための天然の防壁のようなものだった。ここの山はそれとは違い、生活に密着した場なのだろう。
「この間もここでかくれんぼしたんだよ。いつもは八人で遊ぶんだけど、一人は弟が産まれたばかりで今日は面倒見ないといけないからって村に残ってて。鬼役は一人だけで、山全体を使って六人で隠れるから、全員が見つかるまで一日かかったね」
「随分と大がかりだな」
「だろ? 俺は最後まで隠れてたんだけど、鬼役の奴がもうへとへとで。日が落ちる直前になって、『ようやく七人見つけたぞ』って。……あれ?」
足を止めた千里が呆然と振り返った。
「あの日、七人で遊んでたのに、なんで七人見つかるんだ?」
千里が足を止めれば、続く伊吹たちも立ち止まるしかない。肩を竦めて返事をする。
「私に訊くなと言いたいところだが。よその子供が混ざっていたわけではないんだな」
「うん。知らない人が入ってくると山神様が怒るから、他の村の子は山に入れちゃいけないんだ」
現に今、よそ者である自分たちが山に入っているわけだが、それについてはこの際置いておく。
「それならば、鬼役が数え間違えたか、あるいは……野狐が混ざっていたか」
伊吹が告げたその時、千里のものより幾分か甲高い声が会話に割り込んだ。




