馬米治六号
ビンジリンからの電話を切って僕は、大きく深呼吸した。
起きてみれば昼過ぎの一番暑い時間帯。耳に当てていた受話器も汗まみれ。
とりあえずシャワーを浴びて汗を流す。さっぱりしたらすごく腹が減ってたのに気づき、行きつけの料理屋に出掛けた。
胡瓜の冷菜と水餃子を注文し、まずは胡麻油が絡んだ胡瓜をパリパリ噛みながら、さっきの電話の内容をぼんやりと反芻した。
謎の多い、奇妙な殺人事件である。
あの優秀なビンジリンてすら、どこから手を着けていいのか戸惑っているようだった。
あの被害女性は何者で、誰に、なぜ殺されたのか。手口からして、行きずりの強盗犯とは考えにくい。
犯人にビアンカと間違えられて殺されたのかもしれない。あるいは、彼女の成りすましと今回の殺人に、何らかの関連があるのかもしれない。
続いて運ばれてきた水餃子を、茹で汁ごと匙で掬い、かぶりつく。
つるりとした皮は噛むともちもちの歯ごたえで、中から溢れる豚肉の脂の旨味とセロリの香味が、口の中に流れ込む。
被害者と犯人の正体。殺人の理由。そして、本物のビアンカ・ウェンの行方。……謎が山盛りだ。
その上、人形だらけの部屋にベビーシューズ、人間を罠にかけるような殺害方法ときては。
しかしいずれにしても今の僕は、捜査には関われない。
それもこれも全部、現場に現れたあの変な男、吉良綺羅太郎のせいである。
奴は、明らかになにか事件に関わる重要な情報を握ってる。もう少しで、それが引き出せた。なのにその取り調べが裏目に出て、僕はこうして理不尽な処分を受けてる。
キラキラ太郎、すかした金持ちの色男め!
あいつのせいでこっちが今こんな屈辱を受けてることなど、当の本人は知るよしもないだろう。
「すいません、水餃子追加で」
……それにしても、いつものことながらここの水餃子は旨すぎる。食べるのに夢中でつい色々どうでもよくなりそうだが、恨むべきはあいつだ。
あの野郎、今度会ったら文句のひとつも言ってやる。こっちは遊びじゃないんだぞ!
とはいえ、財閥の御曹司と市警の警官じゃあ住む世界が違いすぎて、この先二度と会うこともない気がするが。
などととりとめもなく考えつつ、ふと店の入り口に目をやった瞬間、ちょうど入ってきた羽織袴姿の老人と目が合った。
「おお……浦野様、やはりこちらに」
品の良い白髭の老人が、僕に声をかける。え、ちょっと待てよ。
なんでこの人が、ここに来るんだ。
「昨日はうちの綺羅太郎が、大変失礼いたしました。
本日は他ならぬ浦野様に、折り入ってお願いがございまして」
吉良 馬米治!
昨日、綺羅太郎を迎えに来た、彼の大伯父さん。音又財閥の総帥じゃないか。
どうしてこの人が、僕なんかになんの用で、わざわざこんなところに。
「あの、いったい……」
「浦野様、突然のお願いで恐縮ではございますが、これより陋宅までご足労いただけませんか」
馬米治翁は、今日は杖をついてはいなかった。
水餃子の最後のひとつを匙で掬ったまま呆然と固まっている僕に、意外なほどの早足でツカツカと歩み寄る。
そしてなんと、有無を言わさず僕の両肩に手を掛けて、椅子から持ち上げたのである。
「うわっ!」
嘘だろ。
僕だって小柄な方じゃないし、この痩せたじいさんより頭ひとつは大きいはず。
なのに馬米治翁はその僕を、まるでシャツを干すときみたいに、ひょいと中空に持ち上げてしまったのだ……あまりに突然のことで、逃げる間もなかった。
「あっ、あのっ!」
「外に車を待たせてあります」
「ちょ、吉良さん! とり、あえず、離せ……離して、くださいよ!」
足をじたばたさせて叫んだその時、店の戸口から、鈴を振るような声が飛んだ。
「およし六号!」
「!」
「ご機嫌よう、浦野様。またお会いできて嬉しゅうございます」
モダンな断髪、白皙の美貌、大きなリボンのついたワンピース。
油じみた下町の料理屋に突然現れたお嬢さんは、あまりにも場違いで、周囲から浮きまくっている。
「……凛子さん」
それは吉良綺羅太郎の妹君の、凛子さんだった。
「ごめんあそばして、浦野様。
六号はわたくしの護衛用に、力を強めに調整してあるんですのよ」
怪力の老人が素手で僕を吊り上げ、更にそこに小さなお姫様みたいな美少女が現れたものだから、店中の客が食事を中断して僕らに注目している。
「あら」
周囲の視線に気づいた凛子さんは、優雅に微笑み、ふんわりとお辞儀をした。
馬米治翁は僕を床に下ろす。店内の客たちは凛子さんの浮世離れした可愛らしさに、ほぉっと呆けたため息を吐く。そして、やっと地面に足のついた僕は、よろけて机にぶつかった。
「なんなんです、これは……」
「お迎えに上がりましたの。
浦野様に、兄を助けていただきたくて」
お嬢さんはあくまでも淑女然として、白いレースの手袋を嵌めた小さな手を、僕に差し出してにっこりした。
*
「先程はとんだご無礼をいたしましたな、浦野様。お許しくだされい」
料理屋の表に待たせていた運転手付き最新式の蒸気自動車に乗り込んだ僕に、馬米治翁、もとい六号? は、重々しく頭を下げてきた。
「はあ……」
この不気味な老人、……吉良馬米治ではないのか。六号ってのは、彼の名前なのか。常識外れの怪力、いったい何者なんだろう。
警戒しながら痛む肩を擦る僕に、向かいに座った凛子さんがいたずらっぽく微笑む。
「浦野様、この者は、吉良馬米治と世間に名乗っておりますけど、本物の馬米治ではありません」
凛子さんの言葉に白髭の老人は、ホッホッと笑って頷いた。
「人間ですらありません。
これは馬米治六号。兄の作成した、機械人形でございますの」
「……は?」
思わず、口が開いてしまった。
ありえない。
等身大の機械人形なら、これまで僕だって見たことがある。百奇公園の見世物小屋なんかにいる奴だ。
遠目には人間そっくりだけど、近くで見て触れてみれば、さすがに人形だとわかる。
まるで生きてるように、煙草を吸ったり楽器を弾いたりして見せるけど、実際には決まった動きをして、決まった言葉を喋るだけの、高価な玩具みたいなもの。……物好きな金持ちが、調度品として家に置いてたりもする。
そうだ、あの殺人現場の屋敷にだって置かれていたと、ビンジリンに聞いたばかりだった。
でも目の前の老人は、見た目にも動きにも、不自然なところはまったくない。顔の皺から威厳ある仕草や喋り方まで、どう見たって本物の人間である。
そもそも僕と会話をしてるし、明らかに自分の意思で動き回ってるし、人形どころかただの人以上の存在感すらある。
大財閥の総帥と言われたら、なるほどと納得せざるを得ない、重厚なオーラを漂わせてるじゃないか。
「六号、浦野様に証拠をお見せなさい……うふふ」
なにを言い出すんだ、このお嬢さんは……と呆れていたら、凛子さんが僕の顔を見て、可笑しそうに笑い出した。
ああなんだ冗談か、と安堵しかけとき、謎の老人がいきなり、自分の両耳を塞ぐように顔の横に両手を掛けた。
カチリ、となにかの外れるような音がした。
と思ったら、老人は自分の頭を、そのまま真上に持ち上げる。
ずるり。
「う゛お゛ぁ゛っ!」
首が、外れた。
*
老人の頭部がすぽんと、首の付け根から、外れて取れた。
本人の手で持ち上げられた老人の頭部は、体から離れながらもまるで生きているようにしか見えず、眩しげに目を瞬き、えへん、と咳払いをした。
よく見ればその首、完全に分離しているわけでもない。
真っ直ぐな切断面から細いチューブやワイヤーのようなものが一尺ばかり伸びて、着ている着物の衿元と、顎から続くしわびた首筋との間を、繋いでいるのだった。
「こっ、……なんだこれっ! こんな……!」
「お見苦しいものをご覧に入れましたわね。
ご理解頂けましたかしら、浦野様」
「……信じられません……いや、まさか、……」
「これは吉良家の重大な秘密です。浦野様を信頼して、お話することですよ。
実は本物の大伯父は、もう何年も病に伏せっておりまして、人前に出ることもままなりませんのよ。
それで兄がこのとおり、大伯父の姿に似せた機械人形を何体か作りましたの。
吉良馬米治は無事息災で、音又財閥の事業経営になんの不安もないことを、内外にアピールするために」
凛子さんが声をひそめたために、蒸気自動車の中で僕たちは、顔をぐっと寄せ合う格好になった。
凛子さんの大きな目を縁取る睫毛の長さ。しかもなんだか、いい匂いが……いかんいかん、こんな子ども相手になにを考えてるんだ僕は!
「ちょっとしたセレモニーへの出席などには十分です。これまで誰にも見破られたことはありませんわ。
ああ六号、もうよろしくてよ」
凛子さんの説明を呆然と聞く僕の目の前で、機械人形六号は、カチリと音を立てて首を元に戻した。
戻してしまえば、そこにいるのはどう見ても、羽織袴姿の生きた老人。目を細めて鷹揚に白い顎髭を扱く仕草など、とても作り物の人形とは思えない。
衝撃だ。まだ心臓がバクバクしている。
これが、人工的に作られた機械人形だと? それも、あのふざけたキラキラ太郎の手で?
あいつ、いったい、何者なんだ。
「兄は天才です」
こちらの心を読んだかのように、凛子さんが言った。
「その兄を助けることができるのは、浦野様、貴方だけなのです」