9
エドアルドから借りた冒険譚を読み終えたのは、それから数日後のことだった。
人間なら数時間もあれば読み終えられる程度の厚さだったが、リリィが自由に使える時間はあまりにも少なく、朝の一時間と、夜にエドアルドを待つ僅かな時間を少しずつ読書へ割り当てていたため、最後の頁を閉じたときには随分長い旅を終えたような気分になっていた。
その夜、いつもの時刻にやってきたエドアルドは、寝台脇の卓上に閉じられた本を見つけると、椅子へ腰を下ろしながら『読み終わったのか』と尋ねた。
「ええ。面白かったわ」
「どこが?」
「主人公が海を渡るところ」
ほとんど考えることなく答えたリリィに、エドアルドは少し意外そうな顔をした。
「海が好きなのか?」
「……分からない。見たことがないもの」
答えたあと、男のその表情を目にした瞬間、まずい……と気づいた。
自分には海を見た記憶など存在しないが、ローズにはあったのかもしれない――。
すました顔の裏で、慌てて参照可能な記録を検索してみても、エドアルドから与えられた彼女についての情報に、個人的な旅行の記憶までは含まれていないため、あるともないとも断言できない。
けれど、今さら言葉を取り消すこともできなかった。
「一度も?」
「……たぶん。小さい頃に見たことがあったとしても、覚えていないわ」
どうにか誤魔化して笑えば、エドアルドは僅かに眉を寄せたものの、それ以上追及することはなく、代わりに卓上の本へ視線を落とした。
物語の中に描かれていた海は、リリィにとって、この館のどこにも存在しない世界だった。
空の青と海の青が遥か彼方で一つになる水平線。
足元を濡らし、寄せては返す波打ち際も、朝日を受けて金色に輝く水面も、塩を含んだ風の匂いも知らない。
だが、文字を追っているうちにどうしようもなく見てみたくなってしまって、そうして初めて、自分が冒険譚を好きだと思った理由も分かったような気がした。
知らないものが書いてあるからだ。
この部屋から一歩も出ることのできない自分が知らない、世界の向こう側があるから。
「……見てみたいな」
独り言のように零した声を、エドアルドは聞き逃さなかった。
「海を?」
「ええ。一度くらい」
「なら、行くか」
あまりにも、あっさりと簡単に返された言葉の意味を、リリィはすぐには理解できなかった。
「……え?」
「今は寒い。暖かくなったら連れていってやる」
まるで、決定事項を報告するような口調だった――暖かくなったら。
その言葉を理解すると同時に、リリィの視界の片隅へ、消していたはずの数字が幻のように浮かんだ。
残された時間は、もう一ヶ月を切っている。
冬が終わり、この地方を吹き抜ける風から冷たさが消える頃。
海へ出掛けても病弱な妻の身体に障らない、とエドアルドが判断する頃には。
……おそらく自分はもう、この部屋のどこにもいない。
「……いや」
気づけば、唇が小さく音を紡いでいた。はっとして口を噤んだ自分を、男が見ていた。
「嫌なのか?」
「ちがう」
「なら、何だ」
行きたい――本当は今すぐにでも見てみたいし、できることならエドアルドと一緒に行きたい。
砂浜というものを歩いてみたい、波に触れてみたい、水平線が本当に本に描かれているように見えるのか確かめたい。
五年間、与えられたものを受け取るだけだった自分の内側から、次々と生まれてくる欲求に戸惑いながら、それでもリリィは、初めてそれを押し殺さなかった。
「……いまが、いい」
「今?」
「暖かくなるまで、待ちたくないの」
「寒いぞ。それに、お前の身体では――」
「それでも行きたいの」
自分でも驚くほど強い声が出た。
エドアルドも驚いたらしく、しばらく何も言わずにリリィを見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐くと『分かった』と頷いた。
恐らくは、ローズもこんな風に我侭を言った事があったのかもしれない。否、あったはずだ。
「体調のいい日にしよう。少し遠いから、準備もいる」
「……ほんとう?」
「ああ」
「約束?」
「ああ、約束だ」
その言葉が嬉しくて、同時にひどく悲しかった――体調のいい日など、もう来ない。
昨日より今日、今日より明日……と確実に壊れてゆく身体。
今より良くなることなど決してないと知っているのは、この部屋でリリィただ一人だった。
不可逆の変化――、それでも。
「……うん。約束ね」
リリィは笑った――たとえ、叶わないかもしれない約束であっても。
未来に自分がいることを、当然のように信じてくれる人がいるということが、その夜はただ、嬉しかった。
それからまたしばらくして、エドアルドが持ってきたのは本ではなく、小さな菓子箱だった。
「今度は何?」
「食べ比べろ」
「……私を何だと思ってるの」
「妻」
あまりにも当然のように返されたものだから、リリィは一瞬だけ言葉を失った。
間違っていない。間違っていないが、しかし――それから、困ったように笑って箱へ視線を落とした。
中には三種類の、小さな焼き菓子が詰め込まれていた。
蜂蜜、木苺、そして檸檬。
どれも一口大の、食べやすいサイズをしている。箱に店の名前が入っていない所を見ると、魔導人形に作らせたのだろう。
「……急にどうしたの?」
「好きなものを探すんだろう?」
「食べ物まで?」
「食べ物も、だ」
「……随分と熱心ね」
「言い出したのはお前だ」
そう言われてしまえば反論できず、リリィは小さく笑って、まず蜂蜜の菓子へ手を伸ばした。
リリィにとって食事とは、本来、生存のために必要な行為ではない。
味覚も、咀嚼も、嚥下も、人間とほとんど変わらない精度で再現されている。
だが、その身体の内側に人間と同じ消化器官が収められているわけではなかった。
口にしたものは内部へ組み込まれた分解術式によって処理され、利用可能な成分だけがごく僅かな魔力へ変換されて魔力炉へ還元されたのち、残った物質も術式によって分解される。
魔力を得るだけなら、魔石などを用い、魔力炉へ直接供給した方が遥かに効率がいい。
つまり『食べる』という機能そのものが、魔導人形として活動するためには必要のないものだった。
何故、自分にそんな機能が備えられているのか。
リリィは知っている――ローズが、人間だったからだ。
食事をして、美味しいものに笑い、嫌いなものには顔を顰め、誰かと同じ卓を囲んで生きていた女だったから。
だから、彼女を再現するために造られたこの身体も、それができる――けれど。
今日だけは――、ローズを再現するためではなく、自分の好きな味を知るために食べる。
そう思うと、同じ機能でしているはずの行為が、少しだけ違うもののように感じられた。
蜂蜜は柔らかな甘さだった。
木苺には甘味の奥へ僅かな酸味があり、最後に口へ運んだ檸檬の菓子は、それよりもずっと鮮烈な酸味と爽やかな香りを持っていて、噛んだ瞬間、リリィは思わず目を細めた。
「……すっぱい」
菓子を口に運ぶ女を見守っていた、エドアルドが面白そうに笑う。
「嫌いか?」
「……ううん」
もう一口齧った、やはり酸っぱい。
けれど、そのあとから追いかけてくる甘さも、鼻へ抜ける爽やかな香りも心地よく、三つの中からもう一つ選べと言われたなら、迷わずこれへ手を伸ばすだろうと思った。
「これが好き」
「檸檬か」
「うん」
微笑んで答える女を見て、エドアルドは少しだけ意外そうな顔をした。
「昔は酸っぱいものが苦手だっただろう」
その一言で、もう一つ取ろうとしていた指が止まった。
昔――もちろん、リリィには存在しない『昔』だ。
エドアルドの記憶の中にだけいるローズなら、この菓子を選ばなかったのだろう。
それならば、いつものように『好みが変わったの』と笑ってしまえばいい。
それで何も壊れない――けど。
「……でも、今はこれが好き」
リリィは、檸檬の菓子を一つ取った、エドアルドは何も言わなかった。
ただ、その指先をしばらく見つめてから、やがて「そうか」とだけ答えた。
「なら、それを食べればいい」
「……うん」
二つ目を口へ運ぶ。酸っぱくて、甘い。美味しい。
やがてこの菓子は彼女の内部で分解され、ごく僅かな魔力となって、弱りつつある魔力炉へ還元されるだろう。
けれど、それで寿命が延びるわけではない。
失われた機能が戻るわけでもない。
つまり今のリリィは、生きるために食べているのではなかった。
ただ、自分が好きだから食べている――そのことが、ひどく嬉しかった。
その夜、エドアルドが帰ったあと、リリィは枕元に置いていた記声晶へ魔力を通した。
紙へ文字を書き残すことが難しくなってから使い始めた、小さな記録用魔導具。
掌ほどの透明な結晶の内部へ淡い光が灯るのを確認してから、リリィは今日までに見つけたものを、一つずつ声にした。
「記録します。わたしの名前はリリィ。白い、小さな花が好き。好きな色は灰青色。冒険のお話が好き。それから……海を見てみたい」
そこで一度、目を閉じ言葉を切る。胸の内に生じた言葉にできぬ感情を、そっと掌で包み込むように。
「今日、好きなお菓子ができました。檸檬のお菓子です。酸っぱかったです。でも、甘くて、おいしかった」
以前なら、自分について記録できるものなど、名前くらいしかなかった。
それが今では、好きな花があり、好きな色があり、好きな物語があり、見てみたい景色があり、好きな味まである。
ほんの少しずつではあるけれど、誰かから与えられた仕様でも、ローズから借りた記憶でもない。
リリィという存在の輪郭が、自分自身にも見えるようになってきた。
「それから――」
何を言おうとしたのか分からなくなったふりをして、リリィは少しだけ黙った。
けれど、記声晶へ嘘をつく必要などない――これはローズの記録ではない。
誰にも聞かせるつもりのない、リリィ自身の記録なのだから。
「わたしは、エドアルドと話している時間が、一番好きです」
声にしてしまえば、少し恥ずかしかった。
それでも訂正はせず、しばらく淡く明滅していた記声晶へ『……以上です』と囁いて魔力を切ると、リリィは枕へ身体を預けた。
自分のことを知るのは、楽しかった――明日は何を好きになるのだろう。次は何を知るのだろう。
海へ行くことができたなら、潮風を好きになるかもしれないし、裸足で踏む砂の感触は嫌いかもしれない。
波の音をいつまでも聞いていたいと思うかもしれないし、思っていたより騒がしいと笑うかもしれない。
知らないことが、まだたくさんある。自分のことなのに。
まだ何も知らない――だから、もっと知りたい。もっとたくさん見つけたい。
そんなことを考えながら、リリィは何気なく自己診断を起動した。
その瞬間、視界の端に現れた数字を見て、思考が止まった。
――推定残存稼働時間『六日 十九時間 三十二分』
「……」
はたり、はたりとリリィは、何度か瞬きをした――表示は、変わらなかった。
もう一度診断を実行しても、誤差は数分程度しかない。
「いつの間に」
そう思ってから、リリィは小さく笑った――いつの間にも何もない。
分かりすぎる程に、分かっていたはずだった。知っていたはずだった。
好きな本を探して、好きな色を見つけて、エドアルドから貰った灰青色のコサージュを何度も眺めて、物語の中の海に憧れて……檸檬のお菓子が好きだと知って。
毎晩、今日見つけた自分について記声晶へ話して。
そんなふうに過ごしている間にも、彼女の中にある時計は、一度だって止まってくれなかった。
増えたのだ、こんなにも。
好きなものが、したいことが、知りたいことが――エドアルドと一緒に過ごしたい時間が。
積み重なった時間の分、減っていく残りの時間、戻らない。
砂時計をひっくり返す手は、無い。
「……一週間、ないんですね」
声にして初めて、その意味が胸の奥へ落ちた。もう、自分が次の季節を見ることはない。
暖かくなったら海へ行こうと、エドアルドは言った……約束まで、してくれた。
けれど、その約束が叶わないことを、今度こそ数字がはっきりと教えている。
それでも不思議と、泣きたいとは思わなかった。
ただ、惜しいと思った。
もう少し、あと少しだけ時間があったなら、もっと自分のことを知ることができたのに。
もっとたくさん、好きなものを見つけられたのに。
そして、もっと長く――あの灰青色の瞳を見ていられたのに。
「……残念です、とても」
誰にも聞こえない声で呟いて、リリィは自己診断表示を閉じた。
あと六日――ならば、数えるのはもうやめようと思った。
残された時間を数字として眺めているより、その時間の中で、エドアルドを見ていたかった。




