8
いつも通りの朝、リリィの時間。
視界の隅に表示された自己診断結果を確認する。
推定残存稼働時間――五十八日と十七時間、とあった。
百二十六日から始まった数字は、いつの間にか半分以下になっていた。
二か月を切ったのだ、と認識した途端、それまで単なる数値として眺めることのできていた残り時間が急に現実味を帯びたような気がした。
最後の日まで現在と同じように動ける保証などない以上、残された時間を数えたところで意味など無いのだ――そう自分へ言い聞かせ、やがて自己診断画面を閉じた。
最近は記憶結晶の劣化も進んでいる。
だからリリィは、自分が忘れたくないことを記声晶へ残すようになっていた。
エドアルドの灰青色の瞳、黒い髪、珈琲には砂糖を入れないこと。
それから、仕事を始めれば食事を忘れてしまうこと、考え事をすると左の眉へ触れる癖があること、笑うと左の口角が僅かに先に上がること、そして自分はエドアルドが好き……。
己の中に生じた感情まで、いつか記憶から失われてしまったときのために、自分自身の声で残してある。
けれど、その日。
いつものように記声晶へ魔力を流し、淡く灯った光を眺めながら、ふと自分自身について何か残してみようと思ったリリィは、そこで初めて言葉に詰まった。
「……個体名称、リリィ。識別番号、ED――」
そこまで口にして、やめた。
それは自分の仕様であって、自分ではないような気がした。
製造年月日も、身長も、魔力炉の形式も、記憶結晶の規格も正確に答えられるのに。
好きな食べ物はと問われれば食事を必要としないから分からず、好きな季節もこの部屋から出たことがないから分からない。
好きな本について考えてみても、ここにあるものはローズが好んでいたと聞かされた本ばかりで、自分が選んだものは一冊もなかった。
好きな色さえ、分からなかった。
赤なら知っている――ローズの好きだった色だ。
白にも惹かれる。
けれど、それはハルジオンが白いからなのか、白という色そのものが好きなのか、自分でも判断できない。
「……難しいですね」
五年も存在してきたというのに、リリィという一体の魔導人形について確かなことを語ろうとすれば、驚くほど何もなかった。
けれど、何もないわけではない。
「わたしは……小さな白い花が好きです」
記声晶へ向かってそう告げると、ほんの少しだけ嬉しくなった。
名前と、好きな花……今は、それだけ。
けれど、昨日までは名前しかなかったのだから、一つ増えた。
「……いつか、もう少し増えるでしょうか」
その問いに答える者はいなかったが、淡く光る記声晶は、彼女自身も知らない未来の自分へ渡すように、その声を静かに記録していた。
その日の夜、リリィは思いがけない人物から、まったく同じ問いを投げかけられた。
「ローズ。お前の好きな色は何だ?」
午後十一時を少し過ぎた頃。
いつものように部屋を訪れたエドアルドは、王立魔導院から届いた新型魔力炉についてひとしきり話したあと、何の脈絡もなくそんなことを尋ねてきた。
「……どうしたの、急に」
「別に。少し気になっただけだ」
あまりにも素っ気ない答えだったが、その視線が僅かに逸れたのを見れば、本当に「少し」なのかは怪しい。
けれどリリィには、それを追及する余裕などなかった。
好きな色――ほんの数時間前、自分でも答えられなかった問いだった。
ローズについてなら知っている、赤だ。
赤い薔薇を好み、幼い頃から鮮やかな色を選ぶことの多かった彼女なら、迷うことなくそう答えるはずだった。
『赤よ』と言えばいい。たったそれだけなのに、口を開いても言葉が出なかった。
「……ローズ?」
「どうして、そんなことを聞くの?」
問い返すと、エドアルドは僅かに眉を寄せ、しばらく答えを探すように黙ったあと『お前について、俺の知らないことがあるのが少し気になった』と言った。
「……私のこと?」
「ああ。俺がお前について知りたいと思うのが、そんなにおかしいか」
不機嫌そうに返され、リリィは慌てて首を振った。おかしいのではない。
――うれしい、のだ。
けれど、その喜びをどういう顔で表せばいいのか分からなかった。
「それで、何色だ」
もう一度尋ねられたとき、リリィは赤と答える代わりに、とうとう本当のことを口にした。
「……分からない」
「分からない?」
「昔は赤が好きだったと思うの。でも、今もそうなのかって聞かれると……よく分からないわ」
ローズではあり得ない答えだったかもしれない。
そう気づいたときには遅かったが、エドアルドは咎めるでもなく、しばらく考え込んだあと、ごく当然のことのように言った。
「なら、探せばいい」
「……え?」
「今、分からないなら、これから探せばいいだろう」
これから。その言葉だけが、胸の奥へ深く刺さった。
あと五十八日。それが、自分に残されている『これから』のすべてだった――それでも。
「……そうね。探してみる」
笑って答えた言葉は、嘘ではなかった。本当に探してみたいと思った。
しかし、その夜のエドアルドは、そこで話を終わらせなかった。
「では、本は?」
「本?」
「好きな本だ」
「……本当にどうしたの、今日」
「いいから答えろ」
「横暴ね」
「昔からだ」
あっさり認められてしまい、リリィは少し笑ったものの、答えを考えれば、やはり困ることになった――好きな、本。
「……ないかもしれない」
「本ならいつも読んでいるだろう?」
エドアルドが枕元の古い物語集へ視線を向ける。それは、ローズが好んでいた本だった。
だから渡され、なんとなく読んでいた。
「嫌いじゃないわ。でも、嫌いじゃないことと好きなことは、同じじゃないでしょう?」
口にしてから、自分でも少し驚いた。エドアルドも意外そうな顔をしたが、やがて『ああ、確かに』と頷いた。
「なら、何が読みたい」
「え?」
「好きな本を探すなら、色々読まなければ分からないだろう。明日、書庫から何冊か持ってくる」
――なにかが、おかしい。そこまで言われて、リリィは堪えきれなくなった。
「……どうして?」
「何が」
「どうして、急にそんなことをしてくれるの?」
エドアルドは、口を引き結んだまま黙っていた。不機嫌な訳ではないようだった。けれど、やがて観念したように息を吐く。
「……お前が、あの白い花を見たとき」
ゆっくりと紡がれたその言葉を聞いた瞬間、リリィの表情が止まった。
「知らない顔をしたからだ」
「……知らない顔?」
「ああ。俺はお前の顔なら全部知っていると思っていた。だが、あのときのお前は……俺の知らない顔で笑っていた」
「どんな顔?」
「嬉しそうだった」
「私、よく笑うでしょう?」
「違う」
ゆるゆると首を左右に振って口を開いた。迷いのない否定だった。
「あれは違った」
灰青色の瞳が、真っ直ぐに自分を見ている――ずっと欲しかったはずの視線なのに、今は怖かった。
エドアルドがローズではないものを見つけようとしている。
その先にいるのが誰なのか、リリィ自身にさえ分からないのに。
「何が違ったの?」
「……分からん」
「分からないのに?」
「分からないから気になるんだ」
そしてエドアルドは、ほんの少し考えてから続けた。
「俺の知らないお前が、他にもあるのかと思った」
その言葉は嬉しくて、同じくらい残酷だった。
彼の知らない『わたし』なら、いくらでもいる――彼が知っているのはローズなのだから。
けれど同時に、自分だってリリィのことを何も知らないのだと、昼間の記声晶を前にして思い知らされたばかりだった。
「……じゃあ」
気づけば、リリィは顔を上げていた。此方を見つめて居る男を少し見上げるようにして、口を開いた。
「一緒に探してくれる?」
「何を」
「私の好きなもの。……私、自分でもよく分からないみたいだから」
冗談めかして笑ったものの、それはローズではなく、間違いなくリリィ自身の願いだった。
「エドが、一緒に探してくれる?」
「……分かった」
恐る恐る口にした願いの答えは、驚くほど簡単に返ってきた。
「いいぞ」
「……本当に?」
「何で驚く。大したことじゃないだろう」
彼にとっては、そうなのだろう。けれどリリィにとっては、とても大きなことだった。
「……ありがとう」
思わず零れ落ちた笑顔を、エドアルドはまた黙って見つめていた。まるで観察するように、分析するように。
翌日の夜、エドアルドは三冊の本を持ってきた――恋愛小説と、魔法学の入門書と、遠い国々を巡る冒険譚。
「どれがいい」
「読んでみてからじゃないと、分からないわ」
「なら、今一番読みたいものを選べ」
そう言われ、リリィは三冊の表紙を順番に眺めた。
恋愛小説には見覚えがあった。正確には同じ本を読んだことがあるのではなく、これまでエドアルドがこの部屋へ持ち込んできたものに似ていて、ローズが好んでいたという記録とも一致する種類の本だった。
いつも通りに振る舞うのなら、おそらくそれを選ぶのが正しい。
けれど、隣に置かれた冒険譚の表紙には、見たことのない青い海と、その向こうへ沈んでいく夕陽、小さな帆船が描かれていた。
行ったことのない国。見たことのない海。名前しか知らない砂漠や、雪に閉ざされた山脈。
この部屋から一度も出たことのないリリィには、そのどれもが想像することしかできない場所だった。
気づけば、指先がその本へ伸びていた。
「……これ」
「それか」
エドアルドが僅かに目を見開いた。ほんの小さな反応だったが、リリィにはその理由が分かった。
やっぱり――そう思った途端、伸ばした手が止まる。
恋愛小説へ視線を戻せば、そちらを選ぶべきなのだと、五年間繰り返してきた習慣が囁いているような気がした……けれど。
「……駄目?」
「何が」
「こっちを選んだら」
エドアルドは、何故そんな事を言うのだろうとばかりに、怪訝そうに眉を寄せた。
「お前が読みたいんだろう」
「……うん」
「なら、それでいい」
エドアルドの返答は、あまりにもあっけなかった。
リリィはもう一度、恋愛小説を見た――やはり、惹かれない。それから冒険譚を胸元へ抱き寄せる。
「じゃあ……今日は、これがいい」
「ああ」
短い肯定、それだけだった。ローズと違うものを選んでも、エドアルドは取り上げなかった。
間違っているとも言わなかった。
だからその夜、リリィは初めて、自分で選んだ物語を読んだ。
それから数日後、エドアルドが部屋へ持ってきたのは、色見本でも新しい本でもなく、細長い箱だった。
「手を出せ」
「……何?」
「いいから」
「贈り物を渡す人の態度じゃないわね」
「まだ贈り物とは言っていない」
相変わらず愛想のない言い方に苦笑しながらリリィが両手を差し出すと、エドアルドはその上へ箱を置いた。
蓋を開ければ、中には一輪の花を模した小さなコサージュが収められていた。
花弁は薄い絹地で幾重にも作られ、その中心には小粒の魔石がひとつ嵌め込まれているものの、まだ試作品だからだろう、肝心の花弁には色がなく、染色前の白いままだった。
「……綺麗」
「試作品だ」
思わず零れた感想へ、エドアルドは素っ気なく答えた。
「王立魔導院から、日常的に身につけられる女性向けの魔導具を作れと言われてな。装着者の体温を検知して、一定以下まで下がれば保温術式が作動する。魔力消費を抑えるために大した出力はないが、冬場なら多少は役に立つだろう」
「それを、私に?」
「試用だ」
「……本当に?」
「何だ」
「だって私、ここから出ないでしょう?」
「だから試用にはちょうどいい」
もっともらしい理由を並べながら、エドアルドは箱の中へ視線を落とした。
数日前、突然好きな色を尋ねてきた理由を、リリィはようやく理解した。
「もしかして……これの色を決めるために聞いたの?」
「一応な」
「私の好きな色で作ってくれるの?」
「試作品を使わせるんだ。それくらいは選ばせてもいいだろう」
何でもないことのように言われた。けれどリリィは、しばらく何も答えられなかった。
自分のために色を選ぶ――そんな経験は一度もなかった。
この部屋の調度品も、身につけている服も、髪を結う飾りも、すべてローズの趣味や記録をもとに揃えられたもので、そこへリリィ自身の好みが入り込む余地などなかったからだ。
「どうした」
「……何色でもいいの?」
「ああ」
「赤じゃなくても?」
思わず尋ねてしまってから、リリィは僅かに息を呑んだ。
けれどエドアルドは、その問いの裏側にあるものへ気づいた様子もなく、怪訝そうに眉を寄せただけだった。
「何故、赤でなければならない」
「……そうね」
名前と好きな花に関係などないと言った人だ。
ならばきっと、昔好きだった色と、今選ぶ色が違っていたところで、この人にとってはそれだけのことなのだろう。
エドアルドは持ってきた鞄から染色用の小さな魔石をいくつか取り出して机へ並べた。
赤、深緑、菫、琥珀、淡い桃色、乳白色、そのほかにも一言では表せない中間色があり、魔力を通せばそれぞれが染色後の色を薄い光として投影する仕組みになっているらしい。
リリィは一つずつ眺めた。
赤は美しい。白も好きだと思う――けれど、どちらにも不思議と手は伸びなかった。
やがて指先が止まったのは、青へほんの僅かに灰を混ぜたような、静かな色だった。
「……これ」
「灰青か」
その名前を聞いて、リリィは顔を上げた。そして、気づいた。
目の前にいる男の瞳が、よく似た色をしていた。
「……」
「どうした?」
「何でもない」
慌てて魔石へ視線を戻したものの、一度気づいてしまえば、もう知らなかった頃には戻れなかった。
だから、この色に目が留まったのだ。毎晩、扉が開けば真っ先に探してしまう色。
怒れば冷たく細められ、仕事について話すときには僅かに輝き、そして近頃、自分でも理由の分からない顔をしてリリィを見つめるようになった瞳の色。
「それでいいのか」
「……うん」
「他にもあるぞ」
「これがいい」
今度は迷わなかった。男の瞳をまっすぐに見つめ、口を開く。
「わたし、この色が好き」
口にしてから、胸の奥がくすぐったくなった。
エドアルドはそんな彼女をしばらく見つめていたが、やがて『そうか』とだけ答えると、灰青色の魔石を手に取り、コサージュの中心へ嵌め込まれた無色の魔石へ重ねた。
短い術式が唱えられる。
淡い魔力光が指先から流れ込み、白かった花弁の縁から、ゆっくりと色が広がっていった。
青より静かで、銀より柔らかい灰青色。やがて染色を終えた花を、エドアルドは箱から取り出した。
「貸せ」
「え?」
「付けてやる」
リリィが戸惑っているうちに、エドアルドは彼女の襟元へ手を伸ばした。胸元へ指先が触れる。
留め具を扱うためとは分かっているのに、あまりに近い距離へ思わず身体が強張り、リリィは何も言えないまま俯いて、黒い髪の隙間から覗く彼の横顔を見つめた。
「……よし」
やがて手が離れた。胸元には、先ほどまで白かった花が咲いている。
「どう?」
「問題ない」
「そうじゃなくて」
「何がだ」
「……似合う?」
尋ねてから、何を言っているのだろうと思った。こんなことを気にしたのは初めてだった。
エドアルドも一瞬だけ答えに詰まり、それから改めて彼女を見た。
灰青色の花。淡い銀金色の長い髪。
そして、自分の返事を待っている薄緑色の瞳。
「……似合ってる」
「そう」
そっけない、短い言葉――それだけで充分だった。リリィは胸元の花へそっと触れ、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、エド」
「あくまで試作品だ」
「はいはい」
「使用感は報告しろ」
「分かりました、魔導具師様」
からかうように答えながら、リリィはもう一度コサージュへ指先を触れた。
好きな色を見つけた……それだけではない。自分で選んだ色のものを、初めて与えられた。
ローズが好きだったからではなく、ローズに似合うからでもなく、自分が「これがいい」と言ったものを、エドアルドがその色へ染めてくれた。
その事実が、何より嬉しかった。
エドアルドが帰ったあと、リリィはいつものように記声晶を起動した。淡い光を見つめながら口を開く。
「記録します。今日、好きな色が分かりました」
胸元からコサージュを外して掌へ載せると、灰青色の花弁が薄暗い室内でも柔らかく光を返した。
「灰青色です。それから、今日はマスターに魔導具をいただきました。試作品だそうですけれど……私が色を選びました」
そこまで記録して、少し考える間があった。
「自分で選んだものをいただいたのは、初めてです。……とても、嬉しかったです」
そして、もう一度花を眺めた。どうして灰青色を選んだのか。
理由は、もう分かっている――けれど。
「好きな色は、灰青色。理由は――」
言いかけて、リリィは笑った。そっとぎこちない動作で人差し指を口元に宛がう。
「……秘密です」
記録を終えた。いつか自分の記憶から今日という日が消えてしまっても、この花を見れば思い出せるような気がした。
エドアルドが初めて、自分に選ばせてくれた色。
そして、自分が初めて、自分のために選んだ色。
灰青色のコサージュを大切そうに枕元へ置いてから、リリィは静かに目を閉じた。




