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7

 それから、季節が少しずつ進むのと同じ速度で――リリィの身体も、静かに終わりへ向かっていった。

 動きが鈍っていた右脚は完全には戻る事は無かった。

 やがて左手の指から感覚が薄れ、聴覚へ雑音が混じり、右眼の色彩認識にも遅延が生じるようになった。

 だが、エドアルドの前ではローズの病弱さを借りて『少し具合が悪い』と笑えば追及を免れる事が出来た。

 それに、彼が心配して持ってくる人間用の薬も、苦いと文句を言いながら飲んだふりをすれば、『子供か』と笑ってくれるので、それでリリィは満足だった。

 ただ一つ、記憶領域に欠損が生じたのは、笑えない。

 昨日、エドアルドと何を話したのか、その一部がどうしても思い出せなかった。

 壊れることも、いつか停止することも怖くないと思っていたのに。

 だというのに、彼の声や顔、触れられた手の温度、自分をローズと呼ぶ声まで失ってしまう可能性だけは耐え難く、記憶領域に最初の欠損を確認したその夜から、リリィは自分の記憶を別の場所へ残すことにした。

 使ったのは、部屋の抽斗に長いこと仕舞われていた、小さな記声晶だった。

 掌に収まるほどの透明な結晶へ魔力を通しながら声を吹き込めば、その声を発した者固有の魔力波形とともに音声を保存し、必要なときには再生できるという簡素な記録用魔導具。

 まだローズのための身体を研究していた頃、エドアルドが試作してこの部屋へ置いたものらしく、今となっては型落ちも甚だしい品だったが、満足にペンを握ることさえ難しくなり始めたリリィには都合がよかった。

 これは遺言ではない――まして、エドアルドへ聞かせるためのものでもない。

 明日、自分が今日のことを忘れてしまったとき、もう一度思い出すための、自分から自分へ宛てた記録だった。

 リリィは震える指で記声晶へ触れ、僅かな魔力を流し込んだ。ふわりと淡い光が灯る。


「……記録を、開始します」


 一度そう口にしてしまえば、何を残すべきなのかはすぐに分かった。


「エドアルド・ヴァレンティ。髪は黒。瞳は灰青色。珈琲には砂糖を入れません。仕事を始めると食事を忘れます。考え事をすると左の眉に触れる癖があります。怒っているときほど声が低くなって……本当に悲しいときは、何も言いません」


 ひとつひとつ、確かめるように話した。忘れたくないなど、いくらでもあった。

 笑うと左の口角が僅かに先に上がることも。

 疲れている日は髪を掻き上げる回数が増えることも、眠るときには右を向くことも、魔導具の話をしているときだけは五年前より少し若い顔で笑うことも。

 きっといつか失われてしまうのなら、失うより先に全部ここへ置いておきたかった。

 そして、しばらくの沈黙のあと。


「……わたしは」


 声が止まった。これは、記憶なのだろうか。

 エドアルドの情報ではないし、記録する必要などないのかもしれない。

 けれど、もし…もしも。

 いつか自分が、この気持ちさえ忘れてしまったら。


「……わたしは、エドアルドが好きです」


 小さく、けれど今度ははっきりと言った。

 ローズが、彼を愛していたからではない。妻として振る舞えと命令されたからでも、与えられた記憶を模倣した結果でもない。


「わたしが、好きなんです。……マスターのことが」


 エドアルドの前では決して呼べない名前で彼を呼んだ瞬間、ようやくその感情が誰のものなのか分かったような気がして、リリィは少しだけ笑った。


「だから、忘れないでくださいね。……わたし」


 誰かへ頼んだのではない……未来の自分へと頼んだ。

 もし明日、エドアルドの目の色を忘れていたら、これを聞けばいい――声を忘れたら、彼について語っている自分の声を聞けばいい。

 そして彼を好きだったことまで分からなくなってしまったなら、この記録の中にいる自分から、もう一度教えてもらえばいい。

 最後にリリィは記声晶へ自らの魔力紋を刻み、第三者には再生できないよう、記録領域を閉じた。

 エドアルドに聞かれるわけにはいかない。

 これはローズの記憶ではない――『ローズ』として残したものでもない。

 誰にも名乗ることのできない、リリィという一体の魔導人形だけが持っている記憶なのだから。



 それから何日か経った夜、エドアルドはまたハルジオンを持ってきた。


「はい」


 何の説明もなく差し出された小さな白い花に、リリィは目を丸くした。


「……どうしたの?」

「庭にあった」

「それは見れば分かるけど。どうして私に?」

「……」


 答えは、なかった。彼自身もどこか腑に落ちないといった表情をしていた。

 けれど、リリィもそれ以上は求めず、差し出されたハルジオンを受け取ると、今度ばかりはローズならどう笑うだろうと考えるより先に、嬉しさのまま頬を綻ばせた。


「……ありがとう」


 嬉しそうに花束を抱いた女の笑顔を、エドアルドが何も言わずにじっと見ていた。


「何?」

「いや」

「……変な人ね」


 すぐに花へ目を落としてしまったリリィは気づかなかったが、エドアルドはまだ彼女を見ていた。

 あの夜にも一瞬だけ目にした、彼の記憶にはないローズの顔だった。

 驚いて、それから嬉しそうに笑う、まるで欲しかったものを初めて自分のために与えられた子供のような顔。


「……そんなに好きか」

「え?」

「その花」


 リリィは手の中のハルジオンを見た――好きか? 嫌いか?

 ただそれだけの質問なのに、答えるまでにほんの僅かな時間が必要だった。

 ローズなら、きっと好きではない……けれど、わたしは。


「……好き」


 反射的にそれを口にした瞬間、『間違えた』と気づいた。


「最近、好きになったの」


 慌てて付け加えた言葉にも、エドアルドはただ「そうか」と答えただけだった。あの冷たい目を向けることも、以前のローズとの違いを咎めることもしなかった。

 それが、少しだけ嬉しかった。


「……変じゃない?」

「何が」

「私、ローズでしょう?」


 気づけば、そんなことを訊いていた。どうしても聞きたかった。


「ローズなのに、薔薇じゃなくてハルジオンが好きなのは、変かなって」


 エドアルドは怪訝そうに眉を寄せた。眉間にみっしりと皴が刻まれて、それからはぁ、と大きなため息が続いた。


「……馬鹿馬鹿しい」

「……」

「自分の名前と、好きな花に何の関係がある」


 空が青い、太陽は眩しい……そんな、あまりにも当然のことを言うような口調だった。


「ローズが薔薇以外を好きになって、何がおかしい」

「……そう」


 リリィはハルジオンへ目を落とした。


「そうね。……そうよね」


 どうしてだろう。泣きそうになった。

 この身体にはローズを再現するための涙腺機構まで備わっているから、泣こうと思えば泣けるのに、今ここで涙を零せば理由を訊かれてしまう。

 だからリリィは、ただ笑った――笑うしかなかった。

 その夜、エドアルドが帰ったあと、リリィは貰ったハルジオンを枕元へ置き、その隣に記声晶を置いた。

 今日は、忘れたくないことがもう一つ増えた。結晶へ魔力を流す。


「……記録します」


 小さな光が灯った。それを確認してから、ゆっくりと口を開いた。


「今日、マスターからハルジオンをいただきました。二度目です。わたしは、この花が好きです」


 そこで一度言葉を止め、枕元の小さな白い花を見つめる。


「それから……マスターが言いました。名前と、好きな花は関係ない、と」


 ならば――ローズという名前を持つ者が、薔薇以外の花を好きになってもいいのなら。

 リリィという名前を持つ自分が、ローズになれなくても――それでも、ここにいていいのだろうか。


「……」


 結晶は、まだ淡く光っている。今なら、この声も残る。

 けれどリリィはその考えを記録しなかった。残してはいけないと思った。

 わたしは、ローズでなければならない。

 ローズでなければ、エドアルドの隣にはいられない。

 明日も、その次の日も、彼がこの扉を開けてくれる限り、自分は薔薇でいなければならない。

 それが――わたしの、リリィの存在意義なのだから。たとえ、


「……どんなに頑張っても」


 思わず声が零れた。記声晶が小さな呟きを拾っていた事に、思考に沈んでいたリリィは気づかなかった。

 ただ枕元のハルジオンへ指先を触れ、誰にも見せたことのない寂しそうな笑みを浮かべながら、ずっと胸の奥へ押し込めていた言葉を呟いた。


「……わたしは、薔薇にはなれないのに」


 記声晶の光が完全に消えるのに間があった事を、目を閉じていたリリィは知らなかった。





 十八重の封印が最後の一つまで閉じたあとも、エドアルドはしばらく扉の前から動かなかった。

 完全な防音処理が施された室内から声が聞こえてくるはずがない。

 もう戻る理由など何一つないのだから、そのまま自室なり書斎なりへ向かえばいいだけなのに、何故か一歩がふみだせなかった。

 エドアルドは閉ざされた扉を見つめたまま、先ほどハルジオンを差し出したときのローズの顔を思い出していた。


『――好き』


 そう答えた彼女は、嬉しそうだった。

 たかが花の一本を渡したくらいで、何をあんなに喜ぶのか。

 そのときは、むしろ不思議に思ったくらいだったが、驚いたように目を見開いてから、おずおずと手の中へ収めた白い花を見つめ、やがて堪えきれないように頬を綻ばせたあの笑顔は、どういうわけか扉を閉めた今になっても鮮明に脳裏へ残っている。

 知らない顔だった。

 幼い頃からずっと一緒にいたのだから、ローズがどんなふうに笑うのかくらい知っている。

 嬉しいとき、怒ったとき、困ったとき、何かを企んでいるとき、それぞれ僅かに違う表情を見分けられる程度には彼女を見てきたはずだった。

 だというのに、あんな顔をする女だっただろうかと考えると、どうにも記憶の中から同じものを見つけることができなかった。

 それだけではない。

 ハルジオンが好きだということも、知らなかった。

 もっとも、彼女自身が「最近好きになった」と言っていたのだから、知らなくて当然なのかもしれない。

 五年もあれば、人間は変わる――好みだって変わる。

 そう言ったのは彼女自身であり、エドアルドもそれを否定しなかった。

 ならば何もおかしくはない。知らなかったのなら、これから知ればいいだけだ。


「……」


 そう考えた瞬間、エドアルドの眉間に深い皺が寄った。

 これから知る――何を、誰を?

 胸の奥へ生まれた疑問はあまりにも些細でありながら、触れてはいけないものへ指を掛けてしまったかのような不快感を伴っていた。

 それ以上考えるなと警告するように、こめかみの奥で馴染みのある痛みが微かに脈打った。

 ローズを知るに決まっている。我が最愛の妻を。

 物心がついた頃には隣にいて、同じ町で育ち、恋をして、結婚し、誰より長く傍にいた女を、これからも知っていくだけの話だ。

 それなのに――どうして、あの顔を知らない。


「……ローズ」


 確かめるように名前を呼んでも、分厚い扉の向こうから返事はない。

 もう眠ったのだろう……そう思うことにして、エドアルドはようやく扉から離れた。


 自室へ戻ってからも、気分は晴れなかった。

 寝るにはまだ早く、かといって今から書斎へ戻って仕事を再開する気にもなれず、エドアルドは上着を脱いで椅子の背へ掛けると、何をするでもなく机の前へ腰を下ろした。

 そこは仕事用の書斎とは違い、彼が日常的に使う細々とした私物が置かれているだけの簡素な机だった。

 インク壺の傍には銀製のペン立てがあり、その表面には細長い葉と大きく開いた百合の花が浮き彫りにされている。

 別段、意識して選んだつもりはない。

 そう思いながら視線を横へ移せば、読みかけの本へ挟んだ栞にも百合を象った銀細工があり、その傍へ無造作に置いた懐中時計の蓋にも、随分使い込んで輪郭こそ擦れているものの、三輪の百合を組み合わせた古いレリーフが刻まれていた。


「……」


 エドアルドは懐中時計を手に取り、親指でその意匠をなぞった、ひんやりとした感触が伝わる。

 昔から使っているもので、愛用していると言ってもいい。蓋を開けば針は正確に時を刻んでいる。

 何の変哲もない、魔力式ですらない機械仕掛けの時計。

 ただ、その百合の装飾を眺めているうちに、ふと、遠い昔の声が蘇った。


『ねえ、エド』


 まだ結婚するよりずっと前だったと思う。

 どこで交わした会話だったのかまではすぐに思い出せなかったが、向かいに座ったローズが何かに気づいたように辺りを見回し、それから妙に楽しそうな顔をしたことだけは覚えている。


『あなたって、百合の意匠が好きなのね』

『何だ、急に』

『だって、ほら。ペンにも、栞にも、時計にもついてるでしょう? 今まで気にしてなかったけど、こうして見ると結構あるわ?』


 にこにこ――あるいはにやにやと指摘されて、初めて気づいたような気がする。

 自分では花の意匠を集めているつもりなどなかったし、ましてや同じ花ばかり選んでいる自覚もなかったため、エドアルドは少し考えてから、単純に好きなのだろうと結論づけた。


『百合は嫌いじゃない』

『嫌いじゃない、でこんなに集まる?』

『……好きなんだろうな』

『ふうん。意外』

『何がだ』

『あなた、花なんて全部同じだと思ってそうだから』

『……そこまで情緒がないと思われていたのか、俺は』


 大変不本意だとばかりに、むっすりと返したエドアルドの表情がおかしかったのか、ローズは声を立てて笑った。


『じゃあ、百合のどこが好きなの?』


 改めて尋ねられると、説明するほどの熱意も理由も抱いていなかった事に面食らう。

 それでも、昔から何となく惹かれていた姿を思い浮かべながら、エドアルドは少しだけ考えた。


『凛としているところだな。余計なものがなくて、形が綺麗だ。特に白い百合はいい』

『白百合?』

『ああ』

『私は、嫌』


 即答だった。考えるまでもないとばかりの即答。


『……何故だ』

『お葬式の花みたいだから』


 いかにも嫌そうに、眉を寄せたローズに、エドアルドは呆れた――またそれか、と。


『お前は、白い花を見るたびにそれを言うな』

『だって本当にそう思うんだもの。白い薔薇だって好きじゃないわ。綺麗だけど、なんだか寂しいでしょう? 私は赤い方が好き。ちゃんと生きてるって感じがするもの』

『花なんぞ、全部生きているだろう』

『……そういう話をしてるんじゃないの』

『なら、どういう話だ』

『……もういい。あなたに聞いた私が悪かったわ』

『理不尽だな』

『理不尽じゃないの。エドが鈍いのよ』


 そう言いながらも、ローズは楽しそうに笑っていた。

 そして最後には、彼の手元にあった百合の栞を指先で弾きながら『まあ、あなたが好きならいいんじゃない? 私は赤い薔薇を選ぶけどね』と笑ったのだった。


「……」


 記憶が途切れたあとも、エドアルドの親指は懐中時計の百合をなぞっていた。

 白百合は葬式の花みたいだから嫌い――白い薔薇も寂しいから好きではない。

 赤い薔薇の方が、ちゃんと生きているように見えるから好き。

 昔のローズなら、確かにそう言った。

 それなのに今夜の彼女は、赤い薔薇よりも、庭の隅に咲いた小さな白いハルジオンを手にしたときの方が、ずっと嬉しそうに笑っていた。

 人間なのだから、好みくらい変わる――五年もあれば。

 何度目か分からない同じ答えを胸の内で繰り返し、エドアルドは懐中時計を机へ戻した。

 かちり、と硬い音がした。

 その傍には百合の栞があり、ペン立てにも白銀の百合が咲いている。

 どれも昔からそこにあった。見慣れすぎて、今まで意識することさえなかったものばかりだった。


「……白い花、か」


 何気なく呟いた自分の声に、エドアルドはしばらく黙り込んだ。


 百合、白い百合。

 ローズの嫌いだった花。自分の好きだった花。

 それらを見つめていると、何かを忘れているような。あるいは――既に知っているはずの何かへ手を伸ばしかけているような、奇妙な感覚が胸の奥へ生まれた。

 けれど、それが何なのかを探ろうとした途端、こめかみの奥に細い痛みが走った。


「……またか」


 エドアルドは目を閉じ、眉間を指で押さえた。考える必要などない。

 ローズはローズだ。

 昔は嫌いだった白い花を、今は好きになった――ただ、それだけのことなのだから。


 そう言い聞かせるように息を吐いて目を開けたとき、机の上では、百合を刻んだ古い懐中時計だけが変わらず時を刻んでいた。


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