6
正午を少し過ぎた頃、珍しくエドアルドは館の外へ出た。
雲一つない空から降り注ぐ陽光は、長いあいだ薄暗い館の中で過ごすことに慣れきった目には思いのほか眩しい。
扉を出た途端に眉を顰めて片手を翳したあたり、最後にこうして昼間の庭へ出たのがいつだったのか、本人にも思い出せないほど長いこと屋内へ籠もっていたらしい。
庭へ出た理由は、大したものではなかった。
昨夜、ローズと薔薇の話をしたから。庭ではちょうど薔薇が見頃を迎えている。
ならば一輪くらい、今夜持っていってやろうと思った。ただ、それだけだった。
館から伸びる石畳を辿って薔薇園へ向かうと、午前中から作業を続けていた庭師型魔導人形が主人の接近を察知し、花壇の前へ屈めていた大きな身体をゆっくりと起こした。
庭師と呼ぶには、随分と物々しい体格をした男だった。
人間であれば五十代ほどに見える外見に、日に焼けたような褐色の肌と短く刈り込まれた灰褐色の髪。
そして庭仕事をするだけなら明らかに過剰なほど広い肩と厚い胸板を持ち、袖を捲った腕には人間の筋肉を模して造られた隆起がくっきりと浮かんでいるため、剪定鋏よりも大剣か戦斧でも握らせた方がよほど様になりそうな姿をしている。
それも、当然といえば当然だった。
彼は、単に草木を育てるためだけに造られた魔導人形ではない。
庭園を好んで散策していた身体の弱い女主人に付き添い、転倒や急な発作があればその身体を抱き上げて館まで運び、万が一にも敷地へ魔獣や賊が侵入すれば、主人を背に庇って排除することまで想定された護衛兼用の個体であった。
その頑丈な体躯も、人間離れした膂力も、かつてはすべて一人の貴婦人を守るために与えられたものだった。
「旦那様」
「ああ。そのままでいい」
深く頭を下げようとした庭師を片手で制し、エドアルドは咲き乱れる薔薇へ視線を向けた。
庭師の背後には、赤や深紅、淡い桃色の薔薇が午後の日差しを受けて咲き誇っていたが、その中でもエドアルドの目が自然と追ったのは、やはり鮮やかな赤だった。
ローズが好きだった色だ。幼い頃から、彼女は薔薇なら赤が一番綺麗だと言っていた。
だから、今夜持っていくなら赤でいい。
「今夜、一本持っていく」
「奥様へ?」
「ああ」
庭師は、それ以上何も訊かなかった。
魔導人形にとって主人の言葉は命令であり、それが自らの記録と整合しているかどうかを問い質す必要などない。
ましてこの庭師は、かつて守るよう命じられていた女主人が五年前から一度も庭へ姿を現さないことについてさえ、主人から説明を求めるようには造られていない。
「承知いたしました。では、状態の良いものを選んでおきましょう」
そう言って薔薇へ向き直った大きな背中を、エドアルドは何とはなしに眺め――その肩越し、色鮮やかな薔薇の群れから僅かに外れた場所に、ぽつぽつと散る白いものがあることに気づいた。
「……あれは何だ」
庭師が振り返り、主人の視線を追う。薔薇園の端、赤や桃色の大輪に隠れるようにして、小さな白い花がいくつも群れていた。
「雑草か?」
「いいえ。毎年この時期になると、あの辺りへ自然に咲く花でございます」
「名前は?」
庭師が花の名を答えた。聞いたことくらいはあったのかもしれないが、館に篭り魔導具とばかりにらめっこしてきた男には、花に関する知識など皆無だった。
これまで興味を抱いたこともないエドアルドには、その名前から何かを連想することはできなかった。
ただ、昨夜の声だけは妙にはっきりと思い出せた。
『――白い花』
ローズは確かにそう口にして、それから何でもないと誤魔化し、白い薔薇のことだと言い直した。
そして自分は、彼女が昔から赤い薔薇をこよなく愛し、反対に白い花は『葬式のようだ』と、あまり好きではなかったことを指摘した。
エドアルドは咲き誇る赤い薔薇へ一度目を向け、それから、庭の隅で風に揺れている名も知らなかった白い花へ視線を移した。
「旦那様?」
「……それもくれ」
庭師の手が、戸惑ったように僅かに止まった。
「こちらの白い花を、でございますか?」
「ああ」
「薔薇ではなく?」
「……薔薇も、だ。何本か適当に摘んでおけ」
何をそんなに確認する必要がある、とでも言いたげに眉を寄せたエドアルドに対し、庭師はそれ以上問いを重ねることなく「承知いたしました」と一礼する。
その大きな身体にはひどく不似合いなほど細い剪定鋏を手に、白い花の方へ歩いていった。
そう別に、深い意味などない。
昨夜、ローズが珍しく気にしていたから――ただ、それだけだ。
それでも庭師の背中を眺めているうちに、五歳の頃から薔薇なら赤が一番だと言い続けていた女が、今さら名も知らない白い花に興味を持つものだろうか?
そんな他愛もない疑問が、ほんの僅かに意識の端へ浮かんだ。
――人間なんだから、好みくらい変わるでしょう?
昨夜、少し拗ねたように言い返してきた声を思い出す。
「……まあ、そうか」
五年もあれば、人間の好みくらい変わるだろう。そう結論づけてしまえば、それ以上考える必要などなかった。
やがて戻ってきた庭師の手には、最も美しく開いた深紅と白い薔薇が一輪ずつ。
その傍らへ添えるようにして摘まれた小さな白い花が数本あり、華やかな大輪に比べれば、白い花はあまりにも小さく、頼りなく、同じ花束へ収めるには不釣り合いなほど慎ましかった。
「……それでいい」
エドアルドは、それを受け取った。
美しく咲き誇った大輪の薔薇は、ローズのために選んだものだった。
ならば、その傍らに添えられた白い花は誰のためなのか。
そんな問いが生まれるより先に、エドアルドは花束を片手に館へ戻っていった。
午後十一時になる少し前、リリィは寝台の縁に腰掛けながら、ほとんど動かなくなってしまった右脚を両手で抱えるようにして持ち上げる。
エドアルドから見たときに僅かな違和感ともならぬように、左脚と揃える角度を慎重に確かめながら床へ下ろした。
昨夜から何度か自己修復を試みてはいるものの、魔力伝達を担う疑似神経網そのものが広範囲に劣化している以上、残された魔力をいくら患部へ集中させたところで根本的な修復など望めるはずもなかった
それでも今朝完全に出力を失ったときと比べれば、辛うじて膝から下へ信号を送れる程度には回復していたため、立ち上がらず、歩こうとさえしなければ、今夜一時間ほどエドアルドと話す程度ならば異常を悟られずに済むだろうと判断していた。
問題は、彼が部屋へ入ってきたときだった。
いつもなら寝台の上で本を読んでいることもあれば、窓辺の椅子へ腰掛けて庭を眺めていることもあり、時には気まぐれを装って扉の近くまで迎えに行くことさえあった。
だが、今日は立つことができない以上、普段通りを装うための選択肢はひどく限られている。
だから、今日は一日具合が悪く、寝台で休んでいたことにしよう。
幸い、ローズは身体が弱い――その設定は、こういうときには都合がいい。
「……設定」
自分の口から零れた二文字が、妙に耳へ残った。
「……違う」
ローズの身体が弱かったことは、彼女を演じるために後から付け加えられた設定などではない。 紛れもなく彼女が生きていた人生の一部であり、幼い頃から季節の変わり目には熱を出し、冬になると寝込むことも多く、成長するにつれて魔力循環の障害は悪化していったのだと、エドアルドから何度も聞いている。
そして、その病から彼女を救うために造られたものこそが、この身体だった。
「……」
リリィは自分の右脚へ視線を落とした。見た目だけならば、人間の脚と何一つ変わらない。
白い肌の下には骨格があり、筋肉の代わりとなる駆動組織があり、血管の代わりに魔力伝達糸が全身へ張り巡らされ、触れれば温度も痛みも感じることができる。
恐ろしく、精巧に造られているけれど、それらはどれ一つとして人間のものではなかった。
だから風邪をひくこともなければ熱を出すこともなく、ローズを苦しめ続けた病に冒されることもないはずだった。
そのために造られた身体なのだから。
病に壊されていくローズの肉体を捨てても、彼女が生き続けられるように――それなのに今、その壊れないはずだった身体もまた壊れ始めている。
そして、それをエドアルドから隠すために、リリィはかつて本物のローズを苦しめた病弱さまで借りようとしている。
「……ごめんなさい」
誰へ向けたものなのか、自分でも分からなかった。
けれど一度そう考えてしまうと、自分はこれまでどれほど多くのものを死んだ女から借りてきたのだろうと、数えるつもりもないのに次々と思い浮かんだ。
顔も、声も、名前も、笑い方も。夫を呼ぶときの「エド」という愛称も。
好きな花も、昔の思い出も、彼女が生きた時間も、そして今夜はとうとう、その病まで借りようとしている。
何もかも、リリィ自身にはないものだった――借りなければ、彼の隣にはいられない。
リリィはゆっくりと顔を上げ、正面に置かれた大きな姿見へ目を向けた。
鏡の中には、今日もローズがいる。
淡い銀金色の長い髪に、薄緑色の瞳、細い鼻梁と柔らかな弧を描く唇まで、記録画や肖像画、そして何よりエドアルド自身の記憶を頼りに再現された亡き妻の姿。
五年という歳月を費やしただけあって、鏡を見ている本人ですら、自分ではなく別の女を見ているような錯覚を覚えるほど精巧だった。
けれど、その姿を眺めているうちに、リリィはふと、一つだけローズから借りていないものがあることに気づいた。
――リリィ。
その名前だけは、ローズのものではない。
「……リリィ」
声に出してみる、ちゃんと言えた。
五年間、エドアルドの前では一度も名乗ることを許されなかった名前なのに、自分の内部へ記録されている個体情報には、起動したその日から変わらず、たった一行――個体名称、Lily――と記されている。
誰が名付けたのかなど、考えるまでもない。
この身体を設計し、魔力炉を造り、疑似神経網を編み、最後の術式に至るまでほとんど一人で完成させたのはエドアルドなのだから、この名前を与えたのも彼以外にはあり得ない。
ならば――どうして。
ローズが生きるための器として造った身体に、どうして最初からローズではない名前を与えたのだろう。
「……」
リリィは鏡の中の自分を見つめた。
『ローズ――、リリィ。』
どちらも花の名。けれど、同じ花ではない。
薔薇と、百合。
似せて造ったはずの身体へ、わざわざ異なる花の名前を残した理由を考えてみても、答えは見つからなかった。
もしかすると、まだローズが生きていた頃、この身体がただの器でしかなかった頃には、エドアルドなりに別の意味を込めていたのかもしれない。
けれど、それを知っているのは彼だけだ。そしてリリィには、尋ねることができない。
『――ねえ、どうして私をリリィと名付けたの?』
そんな質問を――ローズがするはずがないから。
だから、分からないままで構わない。これから先も、ずっと。
――一生、分からなくても。
そこまで考えたところで、リリィは僅かに目を伏せた……一生。
何気なく思い浮かべたその言葉が、今の自分にはひどく不釣り合いで、それなのに妙に離れ難い響きを持って胸の奥へ残った。
人形にも、一生という言葉を使っていいのだろうか。
人間のように母親から生まれたわけではない。成長もしない、歳を取ることもない。
けれど、自分にも始まりはあった。
五年前の今日――ローズが眠った日に、自分は目を覚ました。
そしていつか、終わりが来る。
今朝から動かなくなった右脚も、日に日に低下していく魔力炉の出力も、その終わりが決して遠くないことを、誰より正確にリリィ自身が知っている。
生まれて、生きて――死ぬ。
自分の場合は、起動して、動いて――停止、する。
呼び方が違うだけで、始まりがあり、その間に過ごした時間があり、最後には終わりがあるのなら。
「……それも、きっと」
一生と呼んでも、いいのかもしれない。そう思った。
そのときだった。静まり返っていた部屋の向こうから、微かな音が届いた。
リリィは顔を上げる――まだ遠い。けれど聞き間違えるはずがない。
毎夜、ただその音を待つためだけに目を覚ましているのだから。
廊下を歩く、エドアルドの足音だった。一段、二段、三段。
いつもの歩幅で近づいてくる足音に、今日は紙が擦れるような、それよりももう少し柔らかな音が混じっていることに気づき、リリィは不思議そうに首を傾げた。
やがて扉の前で足音が止まり、十八重の封印が一つずつ解除されていく。
リリィはその音を聞きながら、いつものように自分の表情を整えた。
わたしはローズ。エドアルドの妻――彼を愛していて、彼に愛されている。
何もおかしくない、何も、何一つ。
「ローズ」
「こんばんは、エド」
いつものように笑って迎えたリリィは、部屋へ入ってきたエドアルドの手にあるものを見て、ほんの一瞬だけ、その笑みを忘れた。
「……花?」
「ああ。庭に咲いていた」
深紅の薔薇と、白い薔薇。
そして、その華やかな二輪に挟まれるようにひっそりと。
朝、窓の向こうから眺めていた小さな白い花があった。
名前も知らず、誰かが植えたわけでもなく、手入れされた薔薇園の隅に毎年勝手に咲いている花を、こんなに近くで見るのは初めてだった。
「昨日、白い薔薇がどうとか言っていただろう。どちらがいい」
エドアルドが赤と白、二輪の薔薇を示す。答えは分かっている。
ローズなら赤だ。
五歳の頃から薔薇なら赤が一番だと言い続けていた彼女なら、迷う理由などない。
それなのにリリィの目は、二輪の間に埋もれそうになっている小さな白へと、吸い寄せられたまま離れず、思わず伸びかけた手を、触れる寸前でようやく止めた――わたしは、誰?
「ローズ?」
「……赤い薔薇がいいわ」
伸ばしかけた手を引き、リリィは笑った。
「やっぱり、赤が一番綺麗ね」
正解だった。エドアルドは何も言わずに赤い薔薇を差し出し、リリィも礼を言ってそれを胸元へ抱いた。
鮮やかな赤も、柔らかな花弁も、濃い香りも、本当に美しいと思う。
だから、綺麗だという言葉に嘘はなかった。
ただ、それでも視界の端に残っている小さな白を、見ないようにすることだけが難しかった。
「……それは?」
結局、訊いてしまった。そのつつましやかな白い花を目にして、制御することが出来なかった。
「小さい方」
「ああ。ハルジオンだそうだ」
「ハルジオン……」
初めて知った名前を、忘れないようにするように口の中で繰り返す。
「雑草みたいなものらしい」
「雑草……」
「嫌か?」
「どうして?」
「お前、そういうものは嫌いだっただろう。昔、庭に生えた雑草を全部抜けと言っていた」
また一つ、リリィの知らないローズが現れる。当然だった。
どれほど彼女の話を聞き、記録を読み、仕草や口調を学んだところで、死んだ一人の人間が生きたすべてを後から知ることなどできない。
「……そうだったわね」
便利な言葉だった。知らないローズを突きつけられるたび『忘れていた』と笑えばいい。
「なら捨てるか」
「……え」
思わず漏れた声に、エドアルドの手が止まった。
「何だ?」
「……別に。わざわざ捨てなくてもいいでしょう?」
「だが、雑草だぞ」
「花は花じゃない」
口にしてから、自分でも少し驚いた。これはローズの言葉なのだろうか……それとも。
「……お前、そんなことを言う女だったか?」
訝しむような声。胸の奥が、ちくりと痛んだような気がした。
「五年も一緒にいたら、人間なんて少しくらい変わるわ」
「……五年?」
一瞬だけエドアルドの表情が消えたことで、リリィは自分の失言に気づいた。
「結婚してから、って意味。もう随分経つでしょう?」
「……ああ。そうだな」
危なかった。今日は失敗が多い。
これ以上余計なことを言わないよう自分を戒めながら、それでもハルジオンを捨てられてしまうことだけは嫌で、リリィは少し迷った末『捨てるくらいなら、一緒に飾っておけば?』と、それならローズでも不自然ではないだろう言葉を選んだ。
エドアルドは深く考える様子もなく承諾し、部屋の花瓶へ二輪の薔薇とハルジオンを挿した。
大きく華やかな薔薇の陰へ隠れてしまえば、小さな花はますます頼りなく見えた。
「変な組み合わせだな。釣り合っていない」
「……そうね」
大輪の薔薇と白い雑草など、比べるべくもない。
釣り合っていない――、その言葉だけが、ほんの少し寂しかった。
「本当に、そうね」
その夜、エドアルドはいつもより長く部屋にいた。
動かない右脚についても、少し疲れているのだと笑って誤魔化すつもりだったのに。
長年ローズの身体を案じ続けてきた男の目を欺くことは難しく、ほとんど動かしていないことをすぐに見抜かれてしまった。
触れて確かめようと伸ばされた手を咄嗟に拒絶し『今日は何もしないで、ここにいてくれるだけでいい』と頼むと、エドアルドは納得こそしていない顔で、それでも手を引いてくれた。
代わりに何か話してほしいと頼めば、エドアルドは仕事の話を始めた。
新しい魔力炉の循環効率や術式構造など、リリィには半分も理解できない話ばかりだった。
けれど、普段より少しだけ楽しそうな彼の声を聞いているだけでよかった。
「理論上は九十一パーセントまで上げられる」
「それって、すごいの?」
「……話を聞いていたのか?」
「聞いていたわよ。あなたが楽しそうだったことは分かったもの」
エドアルドは一瞬黙り、それから呆れたように小さく笑った。その顔を見られただけで、リリィには十分だった。
午前二時を過ぎてようやく彼が帰り、十八重の封印がすべて閉じて足音まで完全に遠ざかったのを確認する。
そうして、リリィは動かない右脚を引きずりながら、数メートル先の花瓶まで時間をかけて辿り着いた。
何度も壁へ手をつき、一度は膝をつき、それでもようやく花瓶の前まで来ると、真っ先に手を伸ばしたのは赤い薔薇でも白い薔薇でもなかった。
「……ハルジオン」
覚えたばかりの名前を呼んで、そっと花弁へ触れる。思っていたより柔らかい。
「……綺麗」
誰も見ていないから、ローズのように笑う必要もなかった。
赤い薔薇も綺麗だと思う、白い薔薇も綺麗だと思う。
けれど、自分はこの小さな花が好きなのだと、理由など分からないまま、それだけは不思議なくらい素直に認めることができた。
その瞬間だけは、リリィという名前でそこにいることを、誰かに許されたような気がした。




