5
翌朝。
定められた時刻になると、胸の奥で最低出力を保っていた魔力炉がゆっくりと回転を始める。
休眠中はほとんど閉ざされていた思考領域へ魔力が巡り、聴覚、触覚、視覚の順に感覚が接続されていった末に、寝台の上で眠っていた女の緑色の瞳が静かに開いた。
リリィが一日のうち、自分自身のために使うことのできる、僅かな朝の一時間だった。
「……おはようございます」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
返事はない――当然だった。
この部屋へ入ることを許されているのはエドアルドだけである。
その彼が訪れるのは夜なのだから、朝のリリィが誰かと言葉を交わすことはなく、こうして目を覚ましたときに挨拶をするようになったのも、誰かに教えられたわけではなかった。
ただ、何となく。目を覚ましたら、おはようと言うものらしいから。
本で読んだ。それだけだった。
身体を起こそうとして、ふと、視界の隅に今日の日付が表示された。
月日、時刻、魔力炉残存出力。
前回休眠からの経過時間。
普段ならば確認した端から処理してしまう情報の羅列の中で、その日付だけが妙に意識へ残り、リリィは上体を起こしたまま、しばらく動かなかった。
「……今日、でしたか」
知っている。忘れるはずもない。
五年前の今日――ローズ・ヴァレンティが死んだ。
そして同じ日、リリィは初めて目を開けた。
一人の女が永い眠りについた日に、その女と同じ顔を持つ人形が目を覚ましたという事実。
それを、皮肉と呼ぶべきなのか、それとも単なる偶然として処理すべきなのか、リリィには今も分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
エドアルドは最初から、『リリィ』を造ろうとしていたわけではなかった。
もっと正確に言うならば――彼が五年もの歳月を費やして造り続けていたこの身体に、リリィという存在が生まれることなど、彼自身、一度として望んではいなかった。
ローズは、生まれつき魔力の循環に重い障害を抱えていた。
人間の身体には、心臓が血を送り出すのと同じように、生命活動を維持するための微量な魔力を全身へ巡らせる経路が存在する。
しかし、彼女のそれは生来ひどく脆弱で、生成された魔力を身体の末端まで十分に届けることができずにいた。
それ故に、幼い頃から季節の変わり目には熱を出し、冬には長く寝込み、指先はいつも人より冷たかった。
幼い頃には薬で抑えられていた症状も、成長するにつれて少しずつ悪化した。
だから、エドアルドは造った。
初めは、ただ彼女の身体を助けるための小さな魔導具だったという。
不足する魔力を補い、弱った循環を外側から支える補助器具。
それでも足りなくなれば、より小さく、より高効率な人工魔力炉を造った。
身体へ直接接続するための魔力伝達糸を開発し、それを人間の神経へ馴染ませるための疑似神経網を組み上げた。
もてる全ての能力を使って造り続けた。それは彼の技術を研ぎ澄まさせ、はるかな高みへと至らせる事となる。
だが、それでも、ローズの病は待ってくれはしなかった。
一つを補えば別の場所が弱り、そこを補えばまた次が壊れていく。
心臓を助けても足りない。ならば、と、魔力循環を補っても足りない。
内臓を支えても、神経を支えても、それでも少しずつ失われていく命を前にして、エドアルドが最後に辿り着いた答えは、あまりにも単純で、あまりにも常軌を逸したものだった。
壊れていく身体を治せないのならば、――壊れない身体を、造ればいい。
そうして五年をかけて完成したものが、今ここにある。
呼吸を必要としない肺。
食事を必要としない内臓。
人間の神経を模して全身へ張り巡らされた魔力伝達糸と、痛みも温度も指先の柔らかな感触さえ拾い上げる疑似神経網。
そして胸の奥には、病に冒されることも、鼓動を止めることもないはずだった人工魔力炉。
顔も、声も、髪も、瞳も、ローズ・ヴァレンティという一人の人間を可能な限り忠実に再現して造られたそれは、初めから人形として生きるための身体ではなかった。
ローズが、生きるための身体だった。
「……」
リリィは無意識に、自分の胸元へ手を置いた。掌の下に鼓動はない。
代わりに、五年間一度も止まることなく働き続け、今では設計された性能の半分にも満たない出力しか保てなくなった魔力炉が、微かな振動を返している。
本来なら……ここにはローズがいるはずだった。
彼女の記憶を、精神を、魂と呼ぶべき何かを。
肉体という檻から救い出し、この器へ移す。
エドアルドが最後に目指したのは、それだった――けれど、間に合わなかった。
五年前の今日。
ローズの肉体は、完成した器へ辿り着くより先に生命活動を停止した。
それでもエドアルドは諦めなかった。
残された記憶を繋ぎ、精神を再現し、魂さえこの身体へ呼び戻そうとした。
世界最高峰と呼ばれた魔導具師が持つ知識も、技術も、魔力も、そのすべてを注ぎ込んで。
それでも――ローズは、目を覚まさなかった。
代わりに、この身体が目を覚ました。
リリィの記憶に残っている最古の光景は、薄暗い工房の天井だった。
視覚機能が初めて光を認識し、次いで聴覚が接続され、触覚が自分というものの輪郭を形作っていく中で、最初に視界へ入った人間は、酷く痩せた一人の男だった。
頬は痩け、目の下には濃い隈があり、伸びた髪も髭も整えられておらず、灰青色の瞳だけが恐ろしいほど大きく見開かれていた。
その男が、自分を見ていた。
泣いていた――そして。笑った。
『……ローズ』
それが。リリィが初めて聞いた、自分へ向けられた名前だった。
『違う』
そう判断した。内部情報には既に、別の個体名称が登録されていたから。
『……マスター。私は――』
正しい名前を、事実を、最後まで言うことはできなかった。
『ローズ』
もう一度。今度は、縋るように呼ばれた。
目の前の男が何を求めているのか、起動したばかりのリリィにも理解できた。
この身体が目を覚ましたのだから……成功したのだと。
愛した女が戻ってきたのだと。そう、信じたかったのだろう。
だから。
『お前は、ローズだ』
命令が下された。強固な制約術式が、起動したばかりの思考領域へ深く刻まれた。
『ローズ・ヴァレンティとして振る舞え』
それが、リリィがマスターから受け取った、最初の命令だった。
「……」
胸元へ置いていた手を、ゆっくりと下ろす。それから五年。
今日で、ちょうど五年になる。
人間ならば、こういう日を誕生日と呼ぶのだろうか。
生まれた日――初めて世界を見た日。
初めて誰かの声を聞いた日。
けれどリリィには、その呼び方がどうにも自分には似合わないように思えた。
自分は生まれたのではない、起動しただけ。
しかも、自分が目を覚ました日は、エドアルドにとって世界で最も大切な人が目を閉じた日なのだから。
祝ってもらいたいなどと、思ってはいけない。
「……五年」
呟いてみる。長いのか、短いのか。人間ではないリリィには分からなかった。
ただ。ローズが眠ってから、五年。
リリィが目覚めてから、五年――同じ年月だった。
当たり前のことなのに、その事実だけが今日は妙に胸の奥へ残った。
リリィはそれ以上考えるのをやめ、寝台から足を下ろした。
朝の自己診断を始める。
昨夜から右手薬指の状態に変化はなく、魔力炉の出力低下も予測範囲内、記憶結晶にも新たな欠損は検出されなかったため、次いで両脚の駆動系へ意識を向けながら、いつものように窓辺へ向かった。
朝の光が、薄いカーテンを透かしている。
夜しか知らないエドアルドとは違い、リリィは毎朝この窓から庭を眺めることができた。
今日は、その庭に人影があった。
庭の中央、薔薇園のあたりで大きな身体を屈めているのは、庭園管理を任されている庭師型魔導人形だった。
人間の男なら五十代ほどに見える外見をしており、日に焼けたような肌と短く刈った灰褐色の髪、庭仕事をする者にしては随分と広い肩幅と太い腕を持つその姿は、優美な館の庭師というより護衛か傭兵に近い。
実際、元々そういう設計だった。
庭園管理のほか、館の警備――とりわけ、屋外へ出た館の女主人を護衛することを想定してエドアルドが造った個体であり、魔獣程度ならば単独で排除できる出力を持たされている。
館の女主人。
その言葉に、リリィはほんの少しだけ視線を落とした。彼が守るはずだった女は、五年前の今日に、死んでいる。
それでも庭師は変わらず庭を守り、その女が愛した花を育て続けている。
赤。深紅。淡紅。
庭の一角を埋め尽くすように、色とりどりの薔薇が朝露を纏って咲いていた。
ローズが愛した花。今日という日には、あまりにも相応しい花だった。
「綺麗……」
確かに綺麗だった。
けれど、リリィの視線は、ほどなくして薔薇から外れた。
「……あ」
薔薇園の隅。石造りの低い縁と、生い茂った葉のあいだ。
そこに、小さな白が見えた――名前も知らない花。
薔薇のような華やかさはなく、一輪だけを見れば見落としてしまいそうなほど小さいのに、幾つもの白い花が寄り添うように咲き、朝の風が通り抜けるたび、細い茎を揃って揺らしている。
庭師が植えたものではないのかもしれない。
整然と並べられた薔薇とは違い、庭の端に勝手に根づいて、誰にも見つけられないまま咲いているように見えた。
なのに――目が、離せなかった。
「……綺麗」
先ほどと、同じ言葉。けれど、今度は少しだけ意味が違った。
何故だろう。薔薇の方が大きく、美しく、手入れも行き届いている。
ローズが愛したのも薔薇だった。
今日という日なら、なおさら薔薇を見ているべきなのかもしれない。
それなのに。あの白い花が、好きだと思った。
「……」
リリィは窓へ近づく。もう少しだけよく見たかった。
たった、それだけの。
一歩、もう一歩。
そして三歩目を踏み出した瞬間。
「――っ」
右脚から、力が抜けた。
身体が大きく傾き、咄嗟に窓枠へ手を伸ばしたが、正常に動かない薬指では十分に掴むことができなかった。
肩を硝子へぶつけながら辛うじて左手で身体を支える。
同時に、視界を赤い文字列が埋め尽くした。
――警告。
『右下肢駆動系に重大な障害――修復を推奨』
『魔力炉出力低下――修復を推奨』
「記憶結晶劣化――修復を推奨』
――警告。
――警告。
――警告。
「……っ、止まって」
命令すると、視界を塞いでいた警告表示が縮小され、端へ追いやられる。
静かになった視界の向こうで、白い花は何事もなかったように風へ揺れていた。
リリィは窓枠を掴んだまま、ゆっくりと息を吐くような動作をした。
呼吸など必要ない……それでも、そうした。
右脚へと、慎重に力を込める。
一度目、反応が遅い。
二度目、ゆっくりとだが動いた。歩けないわけではない。
けれど、明らかに昨日より悪化している。
修復が必要――自己診断機構が、淡々と結論を提示した。
そんなことは、分かっている。
自分を造ったエドアルドなら、この程度の故障など容易く見つけられるだろう。
まだ交換可能な部品が残っているのなら、数時間もあれば修復できるのかもしれない。
――マスターに、言えば、そこまで考えた瞬間。
「……駄目」
声が、零れ落ちた。エドアルドに、自分の身体を診せる。
魔力炉を、疑似神経網を調べられる。内部術式を開かれてしまう。
そして、五年間ほとんど保守されることなく稼働し続け、既に複数箇所が限界へ達していることを知られる。
それだけではない。
エドアルドほどの魔導具師なら、自分を調べれば分かってしまう――この身体が、人間ではないことなど。
それだけは……、それだけはできない。できる訳がない。
マスターがローズを必要としている限り――わたしは、ローズでなければならない。
「……大丈夫です」
いつもの言葉を口にする。大丈夫。右脚は動く、まだ歩ける。
夜まで休眠すれば、少なくとも今夜一時間程度の稼働には耐えられるはずだ。
ならば問題はない。
「まだ、大丈夫」
誰に言い聞かせるでもなく、もう一度呟いた。窓の外では、庭師が薔薇へ鋏を入れている。
その向こうで、薔薇の陰で、名も知らない白い花が揺れていた。
リリィはしばらくそれを見つめていたが、やがて名残惜しそうに窓から離れ、今度は右脚へ負荷をかけないよう、ゆっくりと寝台へ戻る。
残された朝の稼働時間は、まだ二十七分あった。
けれど今日は、もう使わないことにした。
夜、エドアルドが来るから――そのときに、ちゃんと立って迎えられるように。
胸の魔力炉の出力を落とす。
視界が暗くなっていく。人間でいう眠りのように、ゆっくり、ゆっくりと沈んでいく。
暗闇に閉ざされる最後の瞬間まで――小さな白い花だけが、リリィの目に残っていた。




