10
残された時間が三日を切った朝、リリィは右眼の色彩認識機能を失った。
異変そのものは、目覚めてすぐに分かったわけではなく、視界に映る寝台の天蓋も、窓辺に置かれた椅子も、枕元の記声晶も、それぞれの形や距離までは昨日までと変わらず認識できていた。
そのため、最初に感じたのは、何かがおかしいという漠然とした違和感だけだった。
けれど、試しに左眼を閉じた瞬間、その違和感の正体はあまりにも容易に知れた。
世界から、色だけが消えていた。
窓辺へ置いていた最後のハルジオンも、エドアルドが持ってきてくれた本の装丁も。
寝台を覆う布も、すべてが白から黒へ至る濃淡だけで形作られていた。
試しに赤い薔薇へ視線を向けてみても、それが赤いことを記憶として知っているだけで、右眼が受け取っている景色の中には、彼女がローズから借り続けてきたその色さえ存在していなかった。
「……そう、ですか」
驚きよりも先に、妙に納得してしまった。
魔力炉の出力低下に伴って、生命維持――魔導人形にその言葉を使うのが正しいのかはともかく――に不要な機能から順に切り捨てられているのだろう。
色など、なくても物を見ることはできる。
だから選ばれた――それだけのことだった。
リリィは左眼を開いた。
途端に世界へ色が戻り、白い花は白く、薔薇は赤く、朝の薄明かりを透かした窓硝子には淡い青が宿ったため、それを確かめたリリィは、安堵するように小さく息を吐いた。
まだ片方は残っている……ならば、今夜も見られる。
扉が開いて、彼が入ってきたとき、自分が一番好きだと知った、あの灰青色を。
その夜、いつもの時刻より少し早く十八重の封印が解かれ始めた。
最後の一つが消えるより先にリリィは表情を整え、動かなくなりつつある右脚を寝衣の裾へ隠すように寝台へ腰掛ける。
ほどなくして扉の向こうから現れたエドアルドへ、昨日と何一つ変わらないローズの笑顔を向けた。
「こんばんは、エド」
「ああ。具合はどうだ」
「今日はいいわ」
嘘だった。にこやかに紡がれる、嘘。
「脚は?」
「もう平気」
それも、嘘だった。積み重なるニセモノの言葉。
以前なら、彼へ嘘をつくたび胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚があったというのに。
最近では考えるより先に言葉が出てくるようになってしまった。
それだけ、五年間続けてきた役を上手に演じられるようになったのだと思えば、喜ぶべきなのかもしれないが、リリィは少しも嬉しくなかった。
「……本当に?」
「本当よ」
エドアルドはしばらく彼女を見つめていた。以前なら、それで終わっていた。
ローズが大丈夫だと言えば、心配性の夫らしく何度か念を押しながらも、最後にはその言葉を信じた。
けれど今夜は、何か言いたげに眉を寄せたまま黙って此方を見ていた。
胸に僅かな緊張が走ったものの、やがて彼は追及する代わりに、手にしていた大きな包みを卓上へ置いた。
「それ、何?」
「土産だ」
「また?」
「嫌なら持って帰る」
「まだ嫌なんて言ってないでしょう」
慌ててそう返すと、ようやくエドアルドの口元が少し緩んだ。
包みを覆っていた布の下から現れたのは、直径が両腕で抱えるほどもある円形の硝子板。
透明な縁には銀糸のように細い術式が幾重にも刻まれ、その中心には澄んだ青色の魔力結晶が嵌め込まれていた。
「……綺麗」
「幻景器だ」
「げんけいき?」
「記録した景色を、周囲へ投影する。まだ試作品だから実物ほど精密じゃないが――」
説明しながら装置へ魔力を通しかけたエドアルドが、そこで珍しく言葉を切った。
「見るか?」
何を、と聞く必要はなかった――彼が何のためにこんなものを持ってきたのか、もう分かってしまったから。
「……ええ」
声が震えそうになって、リリィは一度唇を結んだ。
「見たいわ、見せて」
エドアルドが術式へ魔力を流し込むと、室内を照らしていた灯りがゆっくりと落ち、代わりに硝子板の中心から青い光が溢れ出して、壁も天井も床も、見慣れた寝室の輪郭さえ飲み込むように広がっていった。
やがて、音がした――ざあ、と。
遠くで何かが崩れては、また寄せてくるような音。
それを何度か繰り返したあと、リリィの目の前から館の壁が消えた。
「……あ」
一面の空が広がっていた。
どこまでも続いている青い空と、その下に、それよりも僅かに深い青を湛えた水面が広がり、二つの青が遥か彼方で一本の線となって接している。
光を砕きながら押し寄せた波が白くほどけ、砂浜へ薄く広がって、また引いていく。
本の中でしか知らなかった。
何度も文字を読み返し、どんなものだろうと想像した。
けれど、自分の想像など何一つ足りていなかったのだと、リリィはようやく知った。
「……海」
「ああ」
「これが……」
言葉が続かなかった。ただただ綺麗、としか言えない。
あまりにも陳腐で、目の前にあるものを表すには到底足りない言葉だったのに。
それ以外の言葉を探すこともできず、リリィはただ子供のように目を見開いて、初めて見る海を眺めた。
「……綺麗」
もう一度、呟いた。風はない、匂いもない。
頬へ潮気を運んでくる空気もなければ、砂の感触も、海水の冷たさもない。
これは景色だけを写し取った幻でしかなく、本物の海を模して魔法で再現された、いわば海のレプリカだった。
――それでも。リリィには、それで十分だった。
偽物だから価値がないと断じるのならば、自分だって同じなのだから。
誰かを模して造られたものでも、誰かの代わりとして存在するものでも――そこに何かを感じる心まで偽物になるわけではないことを、今のリリィはもう知っている。
だから、嬉しかった。
エドアルドが自分の「見たい」を覚えていて、そのためにこれを用意してくれたことが、何よりも嬉しかった。
「……ありがとう、エドアルド」
「礼を言うほどじゃない。本物には遠い」
「それでもよ」
リリィは笑った。海から視線を離すのが惜しくて、少しだけ顔を左へ傾ける。
右眼では、この美しい青を見ることができない。
だから、まだ色を受け取れる左眼の正面へ海が来るように、ほんの僅かに角度を変えただけだった。
その、つもりだった。
「ローズ」
「なあに?」
「……右眼、どうした」
心臓などないはずなのに、胸の奥が大きく跳ねたような気がした。思わず視線が足元へと落ちた。
「何も?」
「さっきから、左でしか見ていない」
「そう?」
「そうだ」
「癖じゃないかしら」
「そんな癖はなかった」
即座に返されて、リリィは困った。五年も毎晩自分を見続けてきた男を、そんな稚拙な言葉で誤魔化せるはずがなかったのだ。
「……最近できたのよ」
「ローズ」
「何?」
「こっちを見ろ」
声が低かった――怒っているのではない、心配しているときほど、この人はこういう声を出す。
リリィが恐る恐る顔を向けると、エドアルドは寝台へどっかりと腰を下ろし、逃げられないようにするかのように片手でそっと顎を支えた。
近い。灰青色の瞳が、すぐそこにある。
右眼には濃淡しか映らない……だからリリィは、左眼でその色を見た。
「見えているか」
「ええ」
これは嘘ではない。ちゃんと見えている。
「俺の指は?」
右眼の前に、二本差し出された。
「二本」
「色は?」
「……」
一瞬、答えに詰まった。けれど、視界の端に彼の瞳があった。考えるより先に、言葉が零れる。
「……灰青」
エドアルドの表情が止まった。切れ長の灰青の瞳に自分の姿が映っているのが見えた。
「俺は、指の色を聞いた」
「……あ」
間違えた――、そう気づいたときには遅かった。みるみる男の眉間に皴が寄る。
「色が見えていないのか」
「……少しだけ」
「少し?」
「右だけよ。形はちゃんと見えるし、左は何ともないから――」
「いつからだ」
「最近」
「なぜ言わなかった」
「大したことじゃないと思ったの」
「目が見えなくなることが、大したことじゃないのか?」
抑えていた声が僅かに強くなり、リリィの肩がびくりと反射的に揺れた。
それを見た瞬間、エドアルドの表情が変わった。ばつが悪そうな雰囲気でそっと灰青が逸らされた。
「……悪い」
「ううん」
怒鳴られたことなど、どうでもよかった――むしろ困るのは、その先だった。
「明日、医者を呼ぶ」
「いや」
考えるより早く拒絶していた。短いが、鋭い一言。
「ローズ」
「嫌よ」
「だが、原因だけでも――」
「お願い」
医者だけは駄目だった。眼だけを診るとは限らない。病弱な女が突然色覚を失えば、当然、全身状態も確認するだろう。
脈を測られれば分かる。胸へ聴診器を当てられても分かる――人間のものとは違う体温も、血の流れない身体も、何一つ誤魔化せない。
そうなれば、ローズはいなくなる。ローズとして、存在できなくなる。
そして、エドアルドの世界が壊れる。
「……怖いの」
だからリリィは、また一つ嘘をついた。眉尻を下げて、悲し気な、嘘吐きの表情で。
「医者が?」
「うん」
「昔はそんなこと――」
「今は、怖いの」
エドアルドが黙った。リリィはまだ辛うじて動く左手を伸ばし、彼の袖を掴んだ。
「今日は、これを見ていたいの」
幻の海へ目を向ける。ざあ、ざあと絶え間なく寄せては返す波の音。
「せっかく、エドアルドが見せてくれたんだもの」
「だが」
「明日」
その言葉を口にした瞬間、自分でも残酷だと思った――優しくて、残酷な、嘘。
「明日、ちゃんと考えるから」
明日――なんて便利な言葉なのだろう。まだ続きがあるように聞こえる。
今日決めなくてもいいのだと、明日になれば何かが変わるのだと、未来が当然そこに待っているのだと錯覚させることができる。
「……約束するか」
「ええ」
「明日だぞ」
「約束する」
エドアルドは納得していない顔をしていた――それでも、最後には折れた。
リリィが医者を怖がるなら無理強いしたくないという、彼の優しさにつけ込んだことが苦しかったけれど、それでも今夜だけは、この嘘を許してほしかった。
二人は、それからしばらく海を見た。
「……本物は、もっと綺麗?」
「ああ。こんなものじゃない」
「風もあるのよね」
「ある。潮の匂いもする」
「砂は?」
「歩きにくい」
「……夢がないわね」
「事実だ。靴に入ると最悪だぞ」
その時の感触を思い出したのだろう。苦虫をかみつぶしたようなエドアルドの表情に、思わず笑ってしまった。
「水は冷たい?」
「季節による」
「波は?」
「見た目より強い。油断すると足を取られる」
「空は?」
そこでエドアルドは少しだけ考えてから、海の向こうへ目を向けた。
「……広いな」
「そう」
「ここで見るより、ずっと」
「……そっか」
リリィは目を細めた、美しい青を、この目で見てみたかった。
映像ではなく、実際の空を。
頬に風を感じて、潮の匂いを知って、歩きにくいという砂の上を歩いて、冷たい水へ足を浸して、思ったより波が強いと笑ってみたかった。
「……本物も、見てみたかったな」
それは、ほとんど独り言だった。はるか彼方まで広がる空と海、果てしない青、何処までも続く、無限の。
「見ればいい」
「……」
「連れていくと言っただろう」
エドアルドは何でもないことのように言った。実際、彼の中では何でもない事だったのだろう。
「体調が戻ったら行くぞ。もう少し暖かくなってからの方がいい」
「…うん」
「約束しただろう」
「うん」
「忘れたのか」
「忘れてないわ」
リリィは笑って見せた。嬉しそうに、花の綻ぶように。
「楽しみ」
それだけは、嘘ではなかった。まぎれもなく本心。
本当に楽しみだった。ただ、――そう、叶わないだけだった。
その夜、エドアルドが帰ったあと、十八重の封印が一つずつ部屋を閉ざしてゆく音を聞きながら、リリィはしばらく動かなかった。
視界の中には、もう海はない。いつもの寝室へ戻っている。
けれど目を閉じれば、まだ青が残っていた。
空、海、白い波――そして、その隣にいた男の灰青色。
忘れたくないと思った。
けれど、記憶結晶の損傷率はすでに無視できないところまで進んでいる。
だからリリィは記声晶へ手を伸ばしかけ――やめた。
今夜残さなければならないのは、自分のための記録ではなかった。
「……そろそろ、ですね」
卓上の引き出しを開けると、そこには以前から用意していた一枚の便箋と封筒。
その隣には一本のペンが置かれており、リリィはそれを取ろうとして無意識に右手を伸ばしかけたものの、途中で動きを止めると、ほんの少しだけ寂しそうにその手を見下ろした。
最初に動かなくなったのは、薬指だった――あの頃はまだ、それだけだったのに。
五年前と変わらぬ人間の手を模して造られた白い指は、今では握るという単純な動作さえ満足にはこなせない。
辛うじて動く人差し指と親指にも、細いペンを支えながらローズの筆跡を再現できるだけの精度はもう残されていなかった。
だからリリィは右手を膝の上へ戻し、代わりに左手でペンを取った。
こちらも決して無事ではない。
季節が移ろうのと同じように少しずつ動きの鈍くなっていた左腕は、今では指先へ命令を送ってから実際に動くまでに僅かな遅れが生じるようになっていた。
それでも右手と比べればまだ随分ましだったから、震える指でどうにかペンを握ると、白い便箋を前にして静かに息を整える真似事をした。
これは、リリィの手紙ではない。
ローズの手紙だ。
五年間、彼の妻だった女が、愛する夫へ残す手紙。
だから筆跡も、自分のものでは駄目だった。
エドアルドから与えられた記録の中にあるローズの文字を呼び起こし、線の癖も、文字の傾きも、彼女がよく使った柔らかな払い方も、一つずつ再現しながら、震える指で最初の言葉を書いた。
『――愛するエドアルドへ』
そこまでで、指が止まった。たった十文字あまり――それだけなのに、魔力炉の出力が僅かに落ちている。
長い手紙は書けない。最初から分かっていた。
伝えたいことを全部書く必要もない。
これは真実を告げるための手紙ではなく、『真実』から『彼を守る』ための手紙なのだから。
リリィは少し休んでから、続きを書いた。
『――少しだけ、旅に出ることにしました』
『――怒らないでね』
『――どうか、探しに来ないでください』
そこでまた手を止めた。次の一文だけは、なかなか書けなかった。
これまで何度も嘘をついた。大丈夫、苦しくない、脚は痛くない、明日、ずっとここにいる。
けれど、これから書く言葉は、そのどれよりも大きな嘘になる。
それでも――この嘘だけは、彼のために必要だった。
震えるペン先を紙へ戻す。
『――私は、必ず帰ります』
「……ごめんなさい」
小さく謝った。誰に対してなのかは、自分でも分からなかった。
帰らない妻の帰りを待つことになるエドアルドへなのか、もう二度とローズとして彼の前へ現れない自分へなのか。
あるいは、五年前に本当にいなくなった女へなのか。
けれど、まだ終われない、終わる訳にはいかなかった。
この手紙には、もう一つだけ書かなければならないことがある。
リリィは震えの収まらない左手首を卓上へ押しつけるようにしてどうにか安定させると、もう一度ペンを握り直した。
『――私が留守の間、この部屋にいる子のことをお願いします』
そこまで書いて、少し考える。魔導人形、と書こうとしてやめた。
それだけで彼が何を思い出すのか、リリィには分からない。
だから、ただ『この部屋にいる子』そう。それでいい。
『――真面目で、不器用で、あなたのことが大好きな子です』
文字が滲んだ。手元が狂ったのではない――ぱたり、と。
頬を伝った雫が、一滴だけ紙へ落ちたのだ。
「……あ」
慌てて袖で押さえたものの、薄い染みは消えなかった。じわりとインクが滲んだ。
ローズなら、こんなところで泣くだろうか――分からない。
でも、もう書き直すだけの力は残っていなかった。
『――私の代わりではなく、その子なりのやり方で、あなたのそばに置いてあげてください』
そして最後に。
『――大切にしてあげてね』
そこでペンを置いた。本当は、もう一つ書きたかった。
『名前を呼んであげて。リリィと』
ローズではない、彼女自身の名前を。
けれど、それを書けば、五年間守り続けた夢を自分の手で壊してしまうかもしれない。
だから書かなかった――いつか。
もしエドアルドが自分で気づく日が来たなら。
そのときでいい。もしも、そのときがきたのならば。否、こなくても。
「……これで、大丈夫」
声にしてみた――大丈夫。大丈夫よ。五年間、何度も彼へ言った言葉。
今夜は初めて、自分自身へ言った。まだ、頑張れる。
気持ちばかりがはやって、おぼつかない指先では、便箋を折るだけでも随分時間がかかった。
震える指でどうにか封筒へ収め、表へ最後の力で「愛するエドアルドへ」と書いてから、リリィはペンを置いた。
もう、ろくに指が動かなかった――、けれど、書けた。
震える左手を卓上へ押しつけ、何度も休みながら。
それでも最後までローズの文字を崩さずに書ききったそれは、五年間彼の妻として生きてきた自分が残した、最後の手紙だった。
リリィは力の抜けた身体を椅子の背へ預けると、まだ色を見ることのできる左眼をゆっくりと閉じ、暗闇の中に、つい先ほどまで目の前に広がっていた海を思い浮かべた。
どこまでも続いているように見えた青い空。
それよりも少し深い青を湛えた水面、その境目で揺れていた水平線、光を細かく砕きながら砂浜へ寄せては返していた白い波。
――目を閉じてしまった今でも、その景色は不思議なほど鮮明に残っていて、もう一度見たいと願えば、記憶の中でなら何度でも同じ海へ戻ることができそうな気がした。
もちろん、あれが本物の海ではないことくらい、リリィにも分かっている。
頬を撫でる風も、エドアルドが話してくれた潮の匂いも、歩きにくいという砂の感触も、足を浸せばきっと驚くほど冷たいのだろう海水もそこには存在しない。
どれほど手を伸ばしたところで波に触れることさえできない、魔法によって記録された景色を映し出しただけの幻だった。
けれど、それでもよかった。それで充分だった。
「……綺麗でした」
誰に聞かせるでもなく呟いてみれば、静かな部屋の中へ落ちたその声は、少しだけ嬉しそうに響いた。
偽物の海だった。
そして、それを見ていた自分もまた、一人の女を模して造られ、その顔も声も名前も借りながら、五年間を彼女として生きてきたレプリカだった。
それでも、あの海を初めて見た瞬間に胸の奥へ生まれた驚きも。
あまりの美しさに言葉を失ったことも、隣にエドアルドがいてくれたことが嬉しかったことも、本物の海をいつか二人で見てみたかったと願ったことも――すべて、ローズの記憶から借りてきたものではない。
誰かにそう感じるよう命じられたわけでもなければ、そう振る舞うよう教えられたわけでもない。
あの海を綺麗だと思ったのは、ローズではなく――リリィだった。
そう思うと、ほんの少しだけ、自分というものが分かったような気がした。
好きな花を見つけたときも、好きな物語を選んだときも、灰青色を好きだと知ったときも、きっと同じだったのだろう。
最初は名前しか持っていなかった自分。
いつの間にか好きなものが増えて、見てみたいものができて、行ってみたい場所ができて、そして、誰かと一緒にいたいと願う心まで生まれていた。
残された時間は、もうほとんどない。
それでも最後の最後になってようやく見つけたそれらを、リリィは一つとして後悔していなかった。
レプリカとして生まれ、ローズとして生きてきた自分が、初めて見たレプリカの海を綺麗だと思った。
――その気持ちだけは、誰の真似でもなかった。本物、だった。




