11
午後十時五十八分。
設定されていた時刻より僅かに早く意識領域が起動すると、リリィはまだ薄暗い室内でゆっくりと左眼を開いて見渡した。
以前なら夜の灯りの下でも見分けることのできた寝台や机、窓辺の椅子の輪郭が、今では色彩をほとんど失った曖昧な影としてしか認識できなくなっていることを確かめる。
それから、習い性となった仕草で正面に置かれた姿見へ顔を向けた。
――鏡の中には、今日もローズがいた。
背中を覆うほど長く伸びた淡い銀金色の髪。
今では左眼で辛うじて色を拾えるだけになった薄緑の瞳も、細い肩を包む白い寝衣も。
エドアルドが記憶の中から拾い集め、五年という歳月を費やして一つずつ再現した女の姿は何一つ変わっていないように見える。
だが、その内側では既に身体の大半が正常な機能を失い、今夜の終わりまでこの姿を保てるかどうかさえ分からなかった。
それでも、彼が扉を開けるときだけは、いつものローズでいなければならない。
リリィは鏡の中の女へ微笑みかけた。
「遅かったじゃない、エド」
声が、掠れた。僅かに乱れた発声機構を調整し、もう一度、今度はもう少しだけ唇の端へ笑みを乗せる。
「遅かったじゃない、エド」
今度は、大丈夫だった。ちゃんとローズになれている。
五年間、数え切れないほど繰り返してきた声であり、表情であり、彼を迎えるためのローズだった。
やがて、分厚い扉の向こうから聞き慣れた足音が近づいてくると、リリィはそれを一歩ずつ数えることもせず、ただ黙って耳を澄ませた。
五年間、毎晩聞いてきた足音だった。
少し疲れている日は歩幅が狭くなり、仕事に夢中になって時間を忘れた日は決まって慌ただしくなり、機嫌のいい日は本人に自覚がないまま僅かに軽くなる。
五年間聞き続けてきたエドアルドの足音は今夜も何一つ変わらず――だからこそ、これを聞くのが最後なのだと思った途端、胸の奥にあるはずのないものを強く握り潰されたような感覚がした。
「……嫌だな」
口から零れた言葉に、自分自身がいちばん驚いた――停止することそのものは、怖くないと思っていた。
自分がいなくなることでエドアルドをローズという夢から少しでも外へ連れ出せるのならば。
それで構わないと思っていたし、そのための手紙も既に書き終えたのだから、もう思い残すことなどないはずだった。
けれど、好きな花を知った、好きな本を見つけた、好きな色を選んだ。
檸檬の菓子の味を知り、海を見て、それを綺麗だと思った。
知らなかった自分を一つ見つけるたびに、知りたいものは減るどころか増えていく。
そうして、いつの間にか明日が欲しくなり、その次の日も、そのまた次の日も欲しくなって、来年も庭の隅に咲く白い花を見たい、本物の海へ行ってみたい、まだ途中までしか読んでいない冒険譚の続きを知りたい、エドアルドの知らない顔をもっと見つけたい――。
そんな願いばかりが、終わりを目前にした今になって、ひどく鮮明になっていた。
「……もっと、知りたかったな」
自分のことも、彼のことも……この部屋の外にある世界のことも。
そして、できることなら。
「……もっと、いきたいな」
初めて口にした願いは、驚くほど小さかった。
その声が誰にも届かないうちに、扉を閉ざしていた十八重の封印が一つずつ解除され始める音が響いた。
リリィは慌てて頬を伝っていた雫を拭うと、五年間で最も上手になったローズの笑顔を浮かべた。
最後の夜が始まる――ゆっくりと、いつも通りに扉が開いた。
「ローズ」
そこにいたのは、いつものエドアルドだった。そして彼の手には、見慣れない小さな箱があった。
「遅かったじゃない、エド」
「ああ。悪い」
先ほど鏡へ向かって練習したのと寸分違わぬ声で迎える事が叶い、内心ほっとする。
エドアルドは何も疑うことなく部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めながら、手にしていた箱を無造作に差し出した。
「何、それ」
「土産だ」
「……また?」
「いいから開けろ」
近頃の彼は、時折こうして何かを持ってくるようになった。
本だったり、菓子だったり、仕事の合間に見つけたという珍しい魔導具だったり……。
そのどれもが以前のエドアルドならば、この部屋へ持ち込もうともしなかったものばかりで、そして何より、それらが『かつてローズが好きだったもの』ではなかった。
今ここにいる女が何を好きなのかを探すためのものになっていることを、リリィは知っていた。
だからこそ、震えの残る左手で箱を開いた瞬間、しばらく言葉が出なかった。
中に収められていたのは、小さな髪飾りだった。
細い銀を幾重にも曲げて作られた枝の先に、白い花弁を象った小さな細工がいくつか寄り添い、中心には朝露のような透明な魔石が嵌め込まれている。
それは薔薇でもなければ、エドアルドの好む凛とした白百合でもなく、庭の隅にひっそりと咲いていた、あの白いハルジオンを模したものだった。
「……これ」
「本物は、もうじき季節が終わるだろう」
そう言ったエドアルドは、何でもないことのように視線を逸らしたものの、その声には僅かに居心地の悪そうな響きが混じっていた。
「だから、これなら季節は関係ない」
――ずっとある。口にされなかったその言葉を、リリィは勝手に聞いたような気がした。
本物の花は枯れる。季節が過ぎれば姿を消し、また次の春を待たなければならない。
けれど銀で作られたこの花なら、来年も、その次の年も残っている。
自分だけが、その来年を見ることができない。
「……つけてやる」
黙り込んでしまったリリィから箱を取り上げ、エドアルドは銀細工を手にし、ぼんやりとしている彼女に近寄った。
長い髪を傷つけないよう慎重な指先で一房を掬い、その耳の上へ白い花を留める。
かつてローズにもしてやったのだろうか、手慣れた仕草で髪へ触れる指がひどく、優しい――それが、たまらなく悲しかった。
「……似合うかしら?」
それでも笑って尋ねると、エドアルドは出来映えを確かめるように少し顔を離し、彼女をしばらく眺めてから頷いた。
「ああ」
「薔薇じゃないのに?」
以前なら、口にすることさえ怖かった言葉だった。けれどエドアルドはもう、怪訝そうに眉を寄せることすらしなかった。
むしろ、白い花を挿した長い髪へもう一度目をやってから、ごく自然に言った。
「お前には、そっちの方が似合う」
「……」
彼が口にしたのは、たったそれだけだった。ローズは赤い薔薇が好きだった。リリィは白いハルジオンが好きだった。
そして今、エドアルドが自分で選び、自分の手で彼女の髪へ挿したのは、薔薇ではなく、白い小さな花だった。
五年間、彼から与えられるものは何もかもローズのためのものだったはずなのに。
これは、違う――この花だけは。
「……どうした」
「嬉しいの」
「泣くほどか?」
「……ええ」
堪えようとしても一滴だけ零れてしまった涙を拭うこともせず、リリィは髪へ触れないよう気をつけながら白い花へそっと指先を添えた。
「泣くほど、嬉しい」
エドアルドは困ったように笑った。どうして自分が泣いているのか、きっと彼は最後までわからない――それで、よかった。
「ありがとう、エドアルド。……大切にするわね」
「ああ」
残された時間が数時間しかないことを知らない男は、ごく普通に答えた。
だけど……だからこそ、大切にしようと思った。
あと何年も使うことはできなくても、明日の朝までしか身につけられなくても。
この花が自分のものになってから停止するまでのすべての時間を、大切にすればいい。
その夜、二人はいつもより長く話した。
王立魔導院から届いた仕事のこと、先日選んだ冒険譚のこと、庭師が冬へ向けて薔薇の手入れを始めたこと。
いつか本物の海を見に行けば幻影とは違って潮風で髪が酷いことになるらしいという……そんな他愛のない話ばかりで、リリィも殊更最後だからと特別な言葉を探すことはしなかった。
ただ目の前にいる男の声を聞き、笑えば一緒に笑い、ときどき髪にある白い花へ触れては、まだそこにあることを確かめた。
最後の夜なのに、驚くほど普通の夜だった。
だからこそ、午前二時を過ぎた頃、エドアルドが『そろそろ帰る』と立ち上がったとき、リリィは一瞬、何も答えられなかった。
「ローズ?」
「……うん」
これで終わる――、終わってしまう。そう思った途端、言いたいことはいくらでも浮かんだ。
ありがとう、あなたが好き、もっと一緒にいたかった……まだ終わりたくない。
お願いだから、気づいて――わたしは、壊れています。
あなたなら直せるでしょう?わたしを造ったあなたなら、きっと。
『――助けて、マスター』
その一言を口にさえすれば、すべてが変わるかもしれなかった。
けれど、それを言えばエドアルドはまた、失った妻の影を追い、ただ妻を失わないためだけに、死んだように生きる男へ戻ってしまうかもしれない。
だからリリィは、五年間ずっとしてきたように、自分よりも彼の明日を選んだ。
「明日の朝、ちゃんと食べてね」
「……またそれか」
「昼も。夜も」
「分かった」
「仕事もして。しすぎるのは駄目よ。それから、たまには外へ出て、人とも話して」
「注文が多いな」
「大事なことだもの」
呆れたように息を吐きながらも、エドアルドは一つずつ承知したと答えてくれたので、リリィはそれで十分だと思おうとした。
食べて、仕事をして、外へ出て、誰かと話して――どうか、自分がいなくなったあとも。
「それから――」
生きて。喉元まで出かかった言葉だけは、どうしても声にならなかった。
「……それから?」
「……幸せに、なってね」
代わりに零れた言葉の脈略のなさにか、エドアルドの表情が僅かに変わった。
「何だ……急に」
「何となく言いたくなっただけよ。……忘れて」
「変な奴だな」
「……そうね」
リリィは笑った。いつも通りに、単なる冗談にしてしまう為に。
「おやすみなさい、エド」
「ああ。おやすみ、ローズ」
彼は扉へ向かい、けれど扉を開く寸前になって何かを思い出したように足を止めると、不意と振り返った。
「ローズ」
「なぁに?」
「明日、また来る」
その言葉を聞いても、リリィは泣かなかった。五年間かけて覚えた、彼が安心する微笑みを浮かべることができた。
「……ええ。待ってるわ」
最後の、嘘だった。扉が閉まり、ほどなくして十八重の封印が一つずつ元へ戻り始める。
それでもリリィは笑ったまま、遠ざかっていく足音へ耳を澄ませていた。
廊下の角を曲がる、階段へ向かう……少しずつ、小さくなっていく、そして、静寂。
「……行っちゃった」
その瞬間、五年間守り続けてきた笑顔が崩れた――声を上げるだけの力さえ惜しむように、リリィはただ静かに泣いた。
もう二度と、あの扉から彼が入ってくるところを見る事はできない。
明日の夜、彼は来るだろう――けれど、自分は待っていない、待つことはできないのだ。
どれほど泣いていたのかは分からなかった。
やがて涙さえ出なくなった頃、リリィはゆっくりと顔を上げ、机の上に置いてあった鋏へ目を向けた。
――まだ、やらなければならないことがある。
「……だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
何度となくエドアルドを宥めるために使った言葉を、自分だけのために口にしてから、リリィは満足に力の入らない脚で立ち上がった。
壁へ手を添え、家具の縁を頼りに少しずつ身体を運び、ようやく机まで辿り着くと、辛うじて動く左手で鋏を取り、再び姿見の前へ腰を下ろす。
鏡の中には、まだローズがいた。
五年間、一度として大きく形を変えることなく保たれてきた長い銀金色の髪。
エドアルドが覚えていた妻の姿を忠実に再現するためのものだった。
リリィはその髪を一房だけ掬い上げた……柔らかい。
エドアルドが何度となく、撫でてくれたローズの髪だった。
指の間から零れ落ちる感触まで、きっと彼が覚えていたローズと同じになるよう造られている。
嫌いではなかった、一時たりとも。
この顔も、この声も、この髪も――五年間、自分に居場所をくれた姿だった。
これがなければエドアルドの傍にはいられなかったし、そもそも生まれてすらいなかったかもしれない。
彼に笑いかけてもらうことも、名前を呼んでもらうことも、抱きしめてもらうこともなかったのだから、今さら憎むことなどできるはずもなかった。
大切な大切な預かりものだった。だから、捨てるのではない――返すのだ。
「……さようなら」
それが五年前に亡くなったローズへ向けたものなのか。
それとも五年間ローズとして生きた自分自身へ向けたものなのか、リリィにも分からなかった。
けれど、それでよかった。
左手だけでは長い髪を綺麗に束ねることさえ難しく、鋏を持つ指にもほとんど力が残っていなかったため、最初の一房を切り落とすだけでも何度か刃を動かさなければならなかった。
しゃき、しゃき、と――かすかな音とともに髪が切れた。長い銀金色の一房が、肩を滑り、床へ落ちる。
それを見届けてから、リリィは次の髪を取った――もう一度、繰り返す。
震える指で何度も鋏を動かすたび、エドアルドが愛した長い髪が少しずつ失われていき、床には淡い銀金色が静かに積もっていった。
綺麗に切ることなどできなかった。
右手はもう使えず、左手も満足には動かないのだから当然の事だった。
左右の長さは僅かに違い、毛先も不揃いで、エドアルドが五年もの歳月を費やして完璧に再現したローズの髪とは似ても似つかないものになっていった。
それでも――最後の長い一房が床へ落ちたとき、鏡の中にいた女を目にしたリリィは、しばらく瞬きさえ忘れた。
肩に届くかどうかというところで不揃いに切られた銀金色の髪が、見慣れた輪郭をこれまでとはまるで違って見せている。
顔は同じだった。瞳も、唇も、鼻梁も変わらない。
それなのに、ローズではない。
少なくともエドアルドの記憶の中にいるローズとは、もう違う女だった。
「……」
ローズではないなら誰なのだろう――ふと、そんな疑問が浮かんだ。
そして、髪を切ったことで机の上へ置いていた小さな銀細工が目に入った。
先ほどエドアルドがくれたばかりの、白い花。髪を切る前に傷つけないよう外しておいたそれを、リリィは左手で大切に取り上げた。
「これは、お返ししません。これだけは」
ローズが好きだったものではないし、ローズが身につけていたものでもない。
エドアルドが、庭の白い花を見て喜んだ今の自分を覚えていて、その自分のために選んでくれたものだった。
『――お前には、そっちの方が似合う』
「……ふふ」
思い出すと、こんなときだというのに、笑ってしまった。
リリィは短くなった髪へ白い花を留めようとしたが、左手だけではなかなか上手くいかず、何度か落としかけながらも、それでも時間をかけてどうにか耳元へ挿した。
それから、改めて鏡を見る――不揃いな短い髪、そこに咲く、小さな白い花。
見慣れたはずなのに、初めて見る女……そこにいるのは、ローズではなかった。
けれど今度は、それを怖いとは思わなかった。
「……似合うって、言ってくれましたものね」
鏡の中の女へ話しかける――返事はない、当然だった。
それでもリリィは、ほんの少し首を傾けながら、自分の姿をもう一度ゆっくりと眺めた。
「……これが」
言葉にするのが、少しだけ怖かった。名前だけは、五年前から知っていた。
けれど、その名前を持つ女がどんな花を好きで、どんな色に惹かれ、どんな物語を読みたがり、何を見て綺麗だと思い、誰を愛するのかを知ったのは――ごくごく最近の、ほんの僅かな時間の中でのことだった。
そして今、ローズと同じ姿でいることまでやめた鏡の中の女を見つめながら、リリィはようやく、その名前と自分自身が一つに重なるような、不思議な感覚を覚えていた。
「これが、わたし、ですか」
答えてくれる者はいない。けれど、耳元には白い花があった――エドアルドが、彼女のために選んだ花が。
だからリリィは、少しだけ嬉しそうに笑った。鏡の中の見慣れぬ女も笑っっていた。
不揃いに短くなった銀金色の髪も、その耳元に咲く小さな白い花も、エドアルドの記憶にあるローズの姿とは違っている。
顔だけは変わらないはずなのに、もう鏡の向こうにローズを探そうとは思わなかった。
探さなくていいのだ――小さく笑ってから、リリィは鏡に背を向けた。
「もう十分、もう大丈夫」
ローズではない自分の姿を、一度でも見ることができたのだから。
満足に動かない身体をどうにか寝台まで運び、枕元へ用意していた手紙を胸元へ置くと、リリィはゆっくりと横たわった。
視界の端では、自己診断術式が残された時間を告げていた――確かめる必要は、なかった。
左眼を閉じると、暗闇の中にいくつものものが浮かんだ。
庭の隅に咲いていた白いハルジオン。
初めて自分で選んだ冒険譚に、檸檬の菓子の甘酸っぱい味。
幻影でしか知らない海と、どこまでも広がる空の青。
好きだと決めた灰青色と、その色を宿した男の瞳。
ちゃんと覚えている――ちゃんと、抱きしめていられた。何一つ、なくなっていない。
「……よかった」
最後まで、自分のものだった。記憶のどこを探しても、後悔など見つからない。
五年前、目を覚ましたときから自分はローズになるために存在していた。
彼女の顔を与えられ、声を与えられ、記憶を与えられ、愛する男の前で彼女として笑うことだけを求められた。
そうして五年間、誰よりも近くでエドアルドを見て、彼に愛される女を演じ続けた。
「……マスター」
もう誰も聞いていないから、最後だけはそう呼んだ――ローズが決して使わない、自分だけの呼び方だった。
「わたし、あなたに造っていただけて……幸せでした」
それは、決して嘘ではない。
ローズとして過ごした五年間の月日。
そして、束の間の自分探しの期間――白い花が好きになったこと、彼を愛したこと、そのすべてを抱えてここまで来たのだから、それでよかったのだと思えた。
だから――リリィは、ほんの少しだけ笑った。
「ローズには、なれませんでしたけど」
なれなかった。ローズになるべくして造られたはず、なのに。
どれほど同じ顔をしても、同じ声で笑っても、彼女が愛したものを覚え、彼女の代わりに夫の傍へいても、自分は最後までローズにはなれなかった。
けれど、それはもう、悲しいことではなかった。
耳元へ指を伸ばす――動きの鈍い指先が、銀細工の白い花へ触れた。
「……でも」
好きな花ができた、好きな本ができた、好きな色ができた。
綺麗だと思うものを知り、食べてみたいものを知り、行ってみたい場所を知った。
そして何より、誰かに与えられた記憶ではなく、自分自身の心で、一人の男を好きになった。
それだけあれば、もう十分だった。
「リリィには、なれた気がします」
ローズではないその名前を、初めて少しだけ好きになれた。
残された魔力が尽きようとしているのか、もう左眼を開いても光はほとんど届かなかった。
それでも暗闇の向こうには、不思議なくらい鮮明に灰青色の瞳を思い浮かべることができた。
だから最後に、もう一度だけ呼んだ。
「……ねぇ、マスター」
返事はない――それでいい。それでよかった。
「大好きです」
誰にも聞かせる必要のない告白だった。ただ、想いを口にしたかっただけの、それ。
ローズの声でも、ローズの言葉でもない。
リリィが生まれてから初めて見つけた、リリィだけの恋だった。
レプリカの中から生まれた真実の想いを、いつかの花束のように大切に腕に抱える。
やがて思考さえ緩やかに遠のいていく中で、彼女は白い花へ触れたまま、ほんの僅かに唇を綻ばせた。
「……さようなら、マスター」
それを最後に、魔力炉の光が静かに消えた。
次回、最終話です。




