12
翌日の午後十一時。
エドアルドはいつもと変わらない時刻に、いつもと変わらない足取りで館の奥へ向かう。
五年間、一度として欠かすことのなかった手順に従って、十八重の封印を一つずつ解除していった。
最後の封印が解け、重い扉がわずかな音を立てて開いたときにも、彼はまだ何も疑っていなかった。
「ローズ」
しんと静まり返った部屋――返事は、無い。
いつもなら、扉が開くより先に足音を聞きつけては、身を起こして待っているはずの彼女が、今日は寝台の上へ横たわったまま動かない。
そのことを訝しく思いながら部屋へ一歩踏み込んだエドアルドは、そこでようやく、見慣れているはずの光景の中に、あまりにも大きな違和感があることへ気づいた。
「……ローズ?」
長かった髪が、ない。
腰近くまで流れていた淡い銀金色の髪は肩の上で不揃いに切り揃えられ、その短くなった髪には、昨夜自分が贈ったばかりの白い花の髪飾りが大切そうに留められていた。顔立ちも身体も何一つ変わっていないはずなのに、たったそれだけの違いによって、そこに眠っている女は、エドアルドが五年間毎晩会い続けてきた妻とはまるで別人のように見えた。
けれど、不思議なことに――見知らぬ女には、見えなかった。
その白い花を好きだと言った顔を知っている。
冒険譚を選んで胸へ抱いた姿も、灰青色のコサージュを嬉しそうに受け取った顔も、海を見たいと言った声も知っている。そして昨夜、その髪飾りを贈ったとき、涙を零しながら「嬉しい」と笑った顔を、エドアルドは確かに覚えていた。
知らないはずなのに、知っている。
ローズではないように見えるのに、その違いを形作っているものの一つ一つを、自分はすでに知っていた。
「……何をしているんだ」
返事はない。眠っているように見える女は、ぴくりとも動かない。
「髪なんか切って」
叱るような声を出したつもりだったが、思ったよりも弱かった。近づいてみれば、彼女の胸は上下していなかった――呼吸の音もしない。
けれど、ローズはもともと眠りが深い女だったし、身体が弱っているならこういうこともあるのかもしれないと、そこまで考えたところで、エドアルドの思考が不自然に途切れた。
『――休眠している』
頭のどこかへ浮かんだ言葉に、全身が強張った。休眠……それは人間に対して使う言葉ではない。
「……違う」
何が違うのか、自分でも分からないまま呟き、寝台の傍らへ膝をついたエドアルドは、眠る女の肩へ手を置いて軽く揺すった。
「ローズ。起きろ」
反応はない。ひんやりと冷たい感触が掌に伝わる。
「ローズ、おい」
焦れたようにもう一度名前を呼び、もう少し強く揺する。
「ローズ」
それでも、動かない――冷たい身体だった。けれど昔からそうだった、と、また同じ言葉が頭へ浮かんだ。
ローズは身体が弱かったから、手が冷たい……昔から、ずっと、だから、これは何もおかしくない。
「……」
そこでようやく、胸元に置かれている封筒へ気づいた。表には、見慣れた文字で一言だけ記されている。
『――愛するエドアルドへ』
「……馬鹿な奴だ」
掠れた声でそう呟きながら封筒へ手を伸ばしたものの、指先が触れる寸前で止まり、なぜ自分がこれほど怯えているのか理解できないまま、しばらくそこに書かれた名前を見つめていた。
ローズの筆跡だった。幼い頃から何度も見た、少し右へ傾いた柔らかな文字。
間違えるはずがない。
だからこれはローズが書いた手紙であり、ならば何も恐れる必要などないはずなのに、封を切ろうとする指は自分でも分かるほど震えていた。
便箋は一枚だけだった。
そこには長い文章などなく、ところどころ線が歪み、筆圧も不安定で、書き終えるだけでも随分な時間を要したことが窺える短い手紙が残されていた。
『――愛するエドアルドへ』
『――少しだけ、旅に出ることにしました。怒らないでね』
『――どうか、探しに来ないでください』
『――私は、必ず帰ります』
「……何だ、これは」
呻くような声が漏れた。意味が分からない――旅に出るだと?ならば、ここで眠っている女は誰だ。
『――私が留守の間、この部屋にいる子のことをお願いします』
『――真面目で、不器用で、あなたのことが大好きな子です』
『――私の代わりではなく、その子なりのやり方で、あなたのそばに置いてあげてください』
『――大切にしてあげてね』
そこで、手紙は終わっていた。
「……」
何度読んでも、文面が変わる訳でも、続きが現れる訳でもなかった。
ローズは旅へ出た。だから、ここにいるのは、ローズではない……そう、書いてある。
「……くだらない」
エドアルドは便箋を握ったまま立ち上がった。
「何の冗談だ、ローズ」
寝台の女は答えない。呼びかけてもその瞳が開かれることも、その手が伸ばされる事もない。
だったら……だったら、これは――視線が、眠っている女へ戻った。
ローズが残していった「子」。
その言葉が指すものを、理解するまでに長い時間は必要なかったはずなのに。
エドアルドの思考はその結論へ辿り着くことだけを頑なに拒み、代わりに、五年前からずっと目を逸らし続けてきた記憶だけが、頭の底からひとつずつ浮かび上がってきた。
呼吸がない、脈がない、体温が低い。
予定された時間にだけ目覚め、それ以外の時間には完全な静止状態へ入る。
十八重の封印。そして、自分にしか解除できないこの部屋。
「……違う」
また呟いた。けれど今度は、何を否定しているのか分かっていた。
エドアルドは眠るように、休止したままの女を抱き上げた……驚くほど軽かった。
五年間、何度も抱きしめた身体なのだから重さなど知っていたはずなのに、その軽さを初めて知ったような気がして、腕の中にあるものが人間の身体ではないという事実だけが、どうしようもなく生々しく掌へ伝わってくる。
それでも……まだ認めなくていい。故障しているだけなら、直せばいい。
自分は魔導具師なのだ。世界中の誰にも直せないものでも、自分ならば直せる。何しろこれを造ったのは――。
「……」
そこで思考を止めた。――止めたまま、エドアルドは女を工房へ運んだ。
五年ぶりに開いた胸部機構を見た瞬間、エドアルドは言葉を失った。
魔力伝達糸は各所で断裂し、疑似神経網の劣化は四肢だけでなく中枢近くまで進行している。
魔力炉は本来の出力を維持できなくなって久しく、記憶結晶にも無数の損傷が認められたうえ、自己修復術式はほとんど焼き切れるまで酷使されていた。
「……何だ、これは」
こんな状態で、いつから――診断術式を起動する。
残された故障履歴が次々と展開された――右手指部の駆動異常、下肢の信号断絶、左腕の出力低下、視覚機構の色彩認識障害、記憶結晶の読み出し不良と、数え上げればきりがない。
見覚えのないはずの記録が並んでいくたび、それらが実際にはすべて見覚えのあるものだったことを、エドアルドは嫌でも思い知らされた。
物を落とした夜。なかなか立ち上がらなかった夜。妙に左手ばかり使っていた夜。
窓の外を見るとき、少し顔を傾けるようになった頃……具合を尋ねれば、決まって笑った。
『――大丈夫、大丈夫よ』
「……」
気づいていた――本当は、心のどこかで、なんども。
そのたびに、ローズが大丈夫だと言ったから、それ以上を見なかった。見ようと、しなかった。
人間なのだから、疲れることもある。
身体が弱いのだから、調子の悪い日もある。
そうやって、自分にとって都合のいい理由を与え続けて、目の前にあった異常を一つずつ見逃した。
「どうして……」
言いかけて、続かなかった――どうして言わなかった。そんなことを、どの口で尋ねるのだろう。
言わせなかったのは自分だ。五年前、この個体を起動したその瞬間に。
『――お前はローズだ』
『――ローズとして振る舞え』
ほかならぬ、自分がそう命じた――ならば、壊れかけた魔導人形が修理を求められるはずがない。ローズは、人間なのだから。
「……俺が」
そこで、声が途切れた――壊した、壊してしまった。整備を怠ったからではない。
もっと前、もっとずっと前……この女が初めて目を開けた瞬間から、自分は、彼女から彼女であることを奪った。
「……」
それでも、まだ終わってはいない。魔力炉は停止しているが、完全に焼失しているわけではない。
記憶結晶も酷く劣化しているものの、全領域が失われたわけではなく、疑似神経網も時間さえかければ再構築できる可能性がある。
直せる。完全に元通りとはいかないかもしれないし、欠ける記憶もあるだろう。
人格形成領域へ影響が及んでいる可能性も否定できない……それでも、可能性はある。
「……直せる」
自分へ言い聞かせるように呟き、エドアルドは工具へ手を伸ばしかけた――そのときだった。
作業台の端に置いた彼女の衣服の傍らで、淡い光が瞬いた。
「……?」
手を伸ばし拾い上げたそれは、いつか試作品として渡したままの記声晶だった。
しかし、エドアルドが指先から僅かな魔力を流し込んでも、記声晶は淡い光を返しただけで、記録された音声を再生することはなかった。
「……封印されているのか」
改めて術式を展開してみれば、記録領域の最深部へ認証式が組み込まれており、登録されたものと一致しない魔力波形からの干渉をすべて拒絶するよう設定されていることが分かったが、そこに刻まれていた魔力紋を読み取った瞬間、エドアルドの指が止まった。
知っている――知らないはずがなかった。
魔力炉を造り、初めて火を入れ、疑似神経網の一本一本へ魔力を巡らせながら、五年もの歳月を費やして調整した個体なのだから、その身体を循環する魔力がどのような波形を描くのかまで、エドアルドは知っていた。
彼女自身の魔力紋だった。
「……俺に、聞かれたくなかったのか」
呟いてから、しばらく指を動かすことができなかった。
記録領域を閉じた理由までは分からない。それでも、本人以外には再生できないようわざわざ認証式を施した以上、少なくとも誰かに聞かせるために残されたものではないのだろう。
その意思を知りながら開くことが正しいのかと問われれば、正しいなどとは到底言えなかった。
けれど、もう彼女自身がこの封印を解くことはできない。
エドアルドは長いあいだ沈黙した末に、掌の記声晶を見つめた。
「……悪い」
返事などないことを知りながら、それでも謝った。
それからエドアルドは記声晶を机上へ置き、認証術式へ直接干渉すると、記憶の底に残っている彼女の魔力紋を慎重に再構築していった。
他人の魔力紋を完全に模倣するなど、本来ならば容易にできることではない。
けれど、その魔力炉を造ったのは彼だった。
彼女という一体の魔導人形へ最初の魔力を与え、その流れを調整し、何度も何度も波形を測定しながら一つの個体として完成させたのも、ほかならぬエドアルド・ヴァレンティだった。
だからこれは、封印を無理矢理にこじ開けたのではない。
五年前、自分自身が彼女へ与えた鍵の形を、もう一度作っただけだった。
やがて認証式が一致を示し、記声晶を覆っていた淡い光が静かに解けていく。
閉ざされていた記録領域が開いた。
僅かな雑音が流れたあと、工房の静寂の中へ、もう二度と聞くことはないと思っていた声が蘇った。
『……記録、できていますか?』
「……」
エドアルドは、一瞬、目を見開き、息をすることさえ忘れた。
知っている声――五年間、毎晩聞いてきた声、ローズの声……そう、思った。
けれど、続いて聞こえてきた声音には、彼の知っているローズが人前で話すときの勝ち気な明るさも。
自分を嗜めるときの呆れを含んだ優しさもなく、どこか遠慮がちで、自分の言葉を口にすることそのものへまだ慣れていない少女のような響きがあった。
『今日は、わたしの好きなものを記録しておこうと思います』
――『わたし』やわらかな声音が、耳へ残った。
『好きな花は、白い小さな花です。ハルジオンという名前だそうです。マスターが……いいえ』
そこで声が止まり、ふふ、と小さく笑う声が響いた。控えめで柔らかな笑い声。
『エドアルドが、教えてくれました』
「……」
記録はそこで終わった――やがて、日記のページを捲るように、次の光が灯る。
『好きな本ができました。冒険のお話です。最初は、ローズなら恋愛のお話を選ぶのかなと思ったんですけど……わたしは、こっちが好きみたいです』
また、次の光が淡く灯って、柔らかな声が部屋に響く。
『好きな色も、分かりました。灰青色です』
少しの沈黙が落ち、――それから、ひどく嬉しそうな声で。
『……理由は、秘密です』
「……馬鹿」
ほとんど息だけで、エドアルドは呟いた。知っている、あの夜だ。
いくつもの色の中から、彼女が灰青を選んだ夜。
色を尋ねたのは自分だった――選んだのは、彼女だった。
そして彼女は、その直後に自分の目を見た。あのときには考えなかった――どうして、その色なのかを。
次の記録には、檸檬菓子のことが残っていた。思っていたより酸っぱかったこと。
けれど甘くて、もう一度食べたいと思ったこと。
次には海――本物ではない、投影魔導具が映し出したレプリカの海を、それでも綺麗だと思ったこと。
記録はどれも短かった。
けれど、一つ再生するたびに、エドアルドの中で過去数か月の記憶が別の形へ組み直されていった。
白い花を見つめていた女、冒険譚を胸へ抱いた女。
灰青色を選んで顔を赤くした女、檸檬菓子を恐る恐る口へ運び、驚いたように目を丸くした女。
偽物の海を見て、綺麗だと笑った女。
全部、知っている――全部、隣で自分が見ていた。それなのに、その一つ一つへ。
自分は、ずっと、別の女の名前をつけていた。
「……ローズ」
口にした名前が、ひどく遠く聞こえた――次の記録が、始まった。
『今日は、エドアルドについて残しておこうと思います』
声が、少し弾んだ楽し気な声。きっとあの、白い花を見た時のような柔らかな笑みを浮かべているのだろう。
『灰青色の瞳。黒い髪。珈琲には砂糖を入れません。仕事を始めると食事を忘れます。考え事をしているときは左の眉へ触ります。笑うと、左の口角がほんの少し先に上がります』
「……」
『怒っているときほど声が低くなります。でも、本当に悲しいときは、何も言わなくなります』
なぜ、そんなことまで知っている――そう思ってから、当然なのだと気づいた。
毎晩。毎晩。彼女は自分を見ていた。
自分がローズばかりを探していた五年間、目の前の女はずっと、自分を見ていた。
『白い花を持ってきてくれました。わたしが喜んだら、少しだけ嬉しそうな顔をしました』
声が途切れる――記録は、そこで終わらなかった。
僅かな雑音が続き、もう何も残っていないのかと思ったところで、衣擦れのような小さな音がして、その向こうから、ひどく遠い声が聞こえた。
『……どんなに頑張っても』
エドアルドの指が、記声晶へ食い込んだ――これは、誰かへ話しかけるための声ではなかった。
それまでの記録には、たとえ独り言めいていても、未来の自分へ何かを残そうとする意識があったのに、その声だけは違っていて、記声晶がまだ動いていることすら忘れていたのだろう、ひどく小さく、だからこそ何の取り繕いもない声だった。
短い沈黙……何かへ触れるような、微かな音、そして。
『……わたしは、薔薇にはなれないのに』
「――」
息が、止まった。『薔薇には、なれない』――その言葉を聞いた瞬間、五年前の工房で、自分が何を言ってしまったのかを思い出した。
『違う。お前はローズだ』
『ローズとして振る舞え』
自分が言った、ほかの誰でもない――自分が。
目覚めたばかりの彼女が何者なのかを尋ねるより先に、何が好きなのかも、何を望むのかも、どんな名前で呼ばれたいのかも一度として聞かぬまま、自分がそう命じた。
だから、この女は五年間。
なれはしないものになろうとしていた。ただエドアルドのためだけに。
「……違う」
言い訳じみた響きの、擦れた声が漏れた。誰へ向けた否定なのか、自分でも分からなかった。
リリィへなのか、五年前の自分へなのか――あるいは今なお、目の前に横たわる女をローズと呼ぼうとしている、自分の中の何かへなのか。
「……違うんだ」
お前が、なれなかったんじゃない、そう言おうとして、言葉にならなかった。
薔薇になれなかったことを、どうして『失敗』のように言わせてしまったのだろう。
庭の隅に咲く白い花を好きだと言った女に、冒険譚を面白いと思った女に、酸っぱい檸檬菓子を嬉しそうに食べた女に――海を見たいと願った女に。
灰青色を好きだと言って、その理由だけは秘密にした女に。
それだけのものを持っていた一人の女に、どうして。
――どうして、自分ではない誰かになれなかったことを、謝らせてしまうような五年間を生きさせてしまったのだろう。
記声晶は、エドアルドが答えを見つけるまで待ってはくれなかった。微かな雑音を挟み、次の記録へ移る。
『……今日、ひとつ分かったことがあります』
少しだけ弾んだ声だった。先ほどの寂しげな呟きとはまるで違う、何か大切なものを見つけた子供のような声。
『わたしは、エドアルドとお話しする時間が、一番好きみたいです』
無邪気な声が、痛い。胸の奥がひどく抉られた――それでも声は続く。
主である男がどれほど残酷な仕打ちをしたのかなど何も知らないように、あるいは知っていて、それでもなお変わらなかったものを大切に抱えるように。
『それから――』
一度、躊躇うような間があった。それから空気がすこし和らぐような気配。
『……わたしは、エドアルドが、好きです』
そこで初めて、エドアルドは顔を伏せた――工房に静寂が戻った。
「……」
何も考えられなかった、真っ白に焼き切れてしまったかのように。
ただ――彼女はローズではない。その結論だけが、あまりにも明瞭に残った。
「……リリィ」
声にした瞬間、胸の奥で何かが崩れた……五年前、自分が与えた名前だった。
設計記録へ確かに記したにもかかわらず、彼女が目を覚ましたその日から一度として呼ばなかった名前。
「……リリィ」
もう一度呼んだ、返事はない。当然だった。
それでも、その短い音を口にした途端、五年間ローズという名前の下へ押し込めていた無数の違和感が、堰を切ったように蘇った。
白い花を見たときの笑顔。知らない本を選んだときの顔。自分の瞳と同じ色を好きだと言った声。時折こちらを見つめていた、ローズとは違う静かな眼差し。
今まで知らなかったローズの、新しい一面だと思っていた――変わったのだと思っていた。
五年も経てば、人間なのだから好みくらい変わると、そうやって納得した。
違った、違っていた、間違っていた――変わってなどいない、変わるはずがない。
ずっと前から、そう最初から、彼女はローズではなかったのだから。
「……リリィ」
三度目は、うまく声にならなかった。
けれど、一度でもその名前を口にしてしまえば、もう知らないふりを続けることはできなかった。
リリィという名を持つ女がここにいるのなら、では、自分が五年間ここにいると信じ続け、毎夜その名を呼び、抱きしめてきたローズはどこへ行ったのか――。
そんな問いの答えなど、本当はずっと前から知っていたはずなのに、エドアルドは五年間、その記憶へ続く扉だけを決して開こうとはしなかった。
五年前。
白い寝台の上で、病に痩せ細ったローズの胸が、息をするたび苦しげに上下していた。
握りしめた手は冷たく、温もりを与えるべく包んでも、全然温まる気配がなくて。
それでも、一瞬でも離せば本当にどこかへ行ってしまいそうで、エドアルドは縋るようにその手を握り続けていた。
『……エド』
『何だ』
『ごめんね』
『謝るな』
『……泣かないで』
『泣いてない』
『うそ』
弱りきった声で、それでもローズは笑った。
『治す。俺が治す。何でも造れる。だから――』
『エドアルド』
最後まで言わせてもらえなかった。いつものように、彼女は自分の名前を略さずに呼んだ。
『私、あなたと結婚できて幸せだった』
『……言うな』
『大好きよ』
『やめろ』
それが、最後だった。
そのあと医師が静かに首を横へ振ったことも、遠くで弔いの鐘が鳴ったことも、喪服に袖を通したことも、棺の上へ彼女が好きだった赤い薔薇を置いたことも覚えている。
土が一度、二度と音を立てて落ち、やがて棺が見えなくなっていった光景さえ、本当は何一つ忘れてなどいなかった。
「……死んだ」
五年間、一度として口にすることのできなかった言葉は、あまりにも小さく、掠れていた。あぁ、と溜息のような吐息が零れた。
「ローズは……死んだ。もう、いない――どこにも」
認めた瞬間、五年前に置き去りにしたはずの喪失がじくじくと胸に甦った。
喪失の痛みは、息をすることさえ難しいほど鮮烈にエドアルドを抉ったが、その痛みの向こうには、もう一つ、今度こそ目を逸らすことのできない事実が待っていた。
ゆっくりと顔を上げる。
作業台の上には、短く切った淡い銀金色の髪に白い花の髪飾りを留めた女が、静かに目を閉じている。
ローズではない――それなのに、知らない女でもなかった。
白い花を綺麗だと言ったことも、冒険譚を選んだことも、灰青色を好きになったことも、檸檬の菓子を気に入ったことも、いつか本物の海を見たいと願ったことも知っている――何一つ知らなかったと思っていたのに。
振り返れば自分は、ローズではない『彼女』が少しずつ生まれていく瞬間を、ずっとすぐ傍で見ていた。
「……リリィ」
返事はなかった。五年前、自分はローズを失った。
そして昨日、自分はもう一人の女を失った。
その二つの死をようやく別々のものとして理解したとき、エドアルドは作業台へ額を押しつけるように深く俯き、喉から声ひとつ零すこともできないまま肩を震わせ、冷たい手だけは縋るように握りしめて、どれほどの時間が過ぎたのかも分からなくなるまで泣き続けた。
やがて顔を上げたエドアルドは、傍らへ置いていた手紙をもう一度開いた。
『――私が留守の間、この部屋にいる子のことをお願いします』
『――真面目で、不器用で、あなたのことが大好きな子です』
「……知ってる」
最初に読んだときには意味を掴めなかった言葉が、今は痛いほど分かった。
『――私の代わりではなく、その子なりのやり方で、あなたのそばに置いてあげてください』
五年間、ローズとして生きることしか許されなかった女が、最後の最後に願ったこと。
それは――自分をローズの代わりとして愛してほしいということですらなかった。
『――大切にしてあげてね』
「……遅いだろ」
掠れた声が落ちた。指先の震えが手紙に伝わり文字が歪んで見えた。
「そんなこと、今さら言うな」
もっと早く言えばよかったのに、と浮かんだ考えを、エドアルドはすぐに打ち消す。
そんな事を言えるはずがなかった。言わせなかったのは、ほかならぬ自分なのだから。
手紙を閉じると、エドアルドは作業台に横たわる女の左手を取り、その冷たさを両手で包み込んだ。
人間ではないから冷たいのだと、今ならもう認めることができて、それでも手放したいとは少しも思わなかった。
「……リリィ」
もう、その名前を呼ぶことに迷いはなかった。
目覚めたばかりの彼女へ、自分が最初に与えたものは何だったのだろう――何が好きなのかも、何を望むのかも、自分を何者だと思うのかも尋ねず、その名前さえ呼ばないまま、「ローズになれ」と命じた。
だから今度こそ――、ふとそこで、工具へ伸ばしかけた手が止まった。
『終わらせるな』『戻ってこい』『俺の傍にいろ』そう命じることなら、簡単だった。
彼女を造ったのは自分であり、強制起動も、記憶結晶の保全も、人格領域の固定も、命令術式の上書きもできるのだから、五年前と同じように、自分の望む言葉を彼女の生へ刻み込めばいい。
けれど、それでは何も変わらない。
エドアルドは目を閉じ、冷たい手を握ったまま、長く息を吐いた。
「……帰ってきてくれ」
それは命令ではなかった――彼女を造ってから初めて、エドアルドは彼女自身へ願った。
「今度は、お前が決めろ。何が好きかも、何を読みたいかも、どこへ行きたいかも、何を見たいかも……全部、お前が決めればいい。ローズになる必要もないし、俺の言うことを聞く必要もない」
白い花も、冒険譚も、灰青色も、檸檬も、海も――五年もの歳月を生きながら、彼女が自分自身のものとして手に入れることのできたものはあまりにも少なかった。
それでも確かに一つずつ選び取りながら、あの女は誰にも名乗れない場所で『リリィ』になっていたのだ。
そして、その中には、自分もいた。
『――わたしは、エドアルドが好きです』
記声晶から聞いた声が耳の奥に蘇り、胸の最も柔らかなところを締めつけるような痛みが走る。
それでも否定することのできない喜びが同時に込み上げた――だからこそ、これだけは言わなければならなかった。
「……俺を好きじゃなくなってもいい」
口にした途端、きしりと胸の奥が痛んだ。
目を覚ました彼女が自分を憎んだっていい。五年間を奪った男の傍になどいたくないと館を出ても、自分の知らない場所で、自分の知らないものを好きになり、いつか自分ではない誰かを愛したとしても。
それがリリィ自身の選んだ人生であるのなら、今度こそ、その選択を奪ってはいけない。
「それも、お前が決めろ」
エドアルドは、初めて見る女のようでいて、振り返れば誰よりも長く傍にいたその顔を見つめた。
「だから――帰ってきてくれ、リリィ」
返事はなかった。けれど、今度はそれでよかった……彼女が答えるまで、待てばいい。
やがてエドアルドは濡れた目元を拭い、作業台へ工具を並べ始めた。
五年前のように、死んだ女を取り戻すためではない、『ローズ』を蘇らせるためでもない。
五年前、自分自身がその名を与えながら、一度もそう呼んでやることのできなかった女を、今度こそ『リリィ』としてこの世界へ迎えるために。
「……始めるぞ、リリィ」
当然、返事はない。それでもエドアルドは、もう一度だけその名前を呼んでから、停止した魔力炉へ手を伸ばした。
その夜から、ヴァレンティ邸の工房は眠らなくなった。




