13
三年後。
庭の片隅で、誰が植えたわけでもない小さな白い花が、今年も咲き始めた朝。
かつては人間の訪問をことごとく拒絶していたヴァレンティ邸の正門には、王立魔導院の紋章を掲げた馬車が停まり、東棟では数人の職人たちが完成した魔導具を運び出し、西の庭では新しく雇われた人間の庭師が薔薇の枝を剪定していた。
三年前まで世界から切り離された墓所のように静まり返っていた屋敷には、いつの間にか人の話し声と足音と、誰かが生きている場所にしか生まれない雑多な生活の気配が戻っていた。
エドアルド・ヴァレンティは、四十二歳になった。
黒かった髪には、月日の経過と共に僅かに白いものが混じるようになった。
以前と変わらず仕事へ没頭すれば食事の時間を忘れかけることもあったが、そのたびに三年前の約束を思い出して食堂へ向かい、王立魔導院から届く依頼にも少しずつ応じるようになった。
必要があれば自ら屋敷を出て、人と会い、話し、仕事をして、夜になれば眠り、朝になればまた起きるという、ごく当たり前の毎日を生きていた。
そして春が来るたび、庭の片隅に咲く白い花を見に行った。
「……今年も咲いたぞ」
しゃがみ込みながら呟いたところで、返事はない――それでも今年だけは、いつもの春とは違った。
しばらく花を眺めていたエドアルドは、その中から一輪だけを摘み取ると、折れないよう指先でそっと茎を支えながら立ち上がり、屋敷の地下へ続く階段を降りていった。
三年間、ほとんど毎日のように灯りの絶えることがなかった工房は、今朝に限ってひどく静かだった。
中央の整備台には、一人の女が静かに眠る様に横たわっている。
けれど、その姿はもうローズには似ていなかった。
腰まで流れていた淡い銀金色の髪は、新雪のような白い髪へ変わり、肩へ触れるほどの長さで柔らかく揃えられている。
閉ざされた瞼の下に収められた瞳も、ローズの淡い緑ではなく、目覚めれば柔らかな琥珀色を映すはずだった。
その色も、その髪も、エドアルドが自分の好みで選んだものではない。
三年間、辛うじて残された人格核と記憶領域を修復しながら、そこに蓄積されていた色彩への反応や嗜好、本人が無意識に選び取っていたものを拾い集め、その結果を新しい身体へ反映しただけだった。
最初から、一つだけ決めていたことがある。
『もう二度と、ローズには似せない』
これはローズのための身体ではない、リリィが、リリィとして生きるための身体なのだから。
エドアルドは整備台の傍へ椅子を寄せ、先ほど摘んできた白い花を彼女の枕元へ置くと、何度も確認したはずの起動術式へもう一度目を走らせた。
三年かかった。世界最高峰の技術を持つ魔導具師、エドアルド・ヴァレンティをもってしても。
何度も失敗し、何度も最初からやり直し、そのたびに残された記憶が失われてはいないかと怯えながら、ようやくここまで辿り着いた。
それでも、すべてが元通りになる保証はない。
五年間の記憶の一部を失っているかもしれないし、目覚めた彼女がエドアルドを覚えているとも限らない。
たとえ覚えていたとしても、そのとき抱いていた感情まで同じである保証など、どこにもなかった。
それでいいと、三年前に自分で言った。
何を好きになるのかも、どこへ行くのかも、誰を愛するのかも、今度は彼女自身が決めればいい。
エドアルドは一度だけ目を閉じ、震えそうになる指先を静めてから、起動術式へ魔力を流した。
「……起動」
淡い光が魔法陣を走り、新しく造り直された魔力炉へ収束する。
長い眠りのあいだ一度も動くことのなかった炉心が、ひとつ、ふたつと確かめるように脈動を始め、それに呼応して疑似神経網へ光が巡り、白い指先がほんの僅かに動いた。
やがて胸が、ゆっくりと上下する。
魔導人形が生きるために呼吸を必要としないことなど、誰よりもエドアルド自身が知っていたが、新しい身体にはあえて呼吸を模倣する機構を残してあった。
それを見つめているうちに、三年前、動かない胸を前にして自分が何を思ったのかを思い出し、エドアルドはほんの少しだけ苦笑した。
「……俺のためじゃないぞ」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
必要がないと思えば止めればいいし、気に入らなければ別のものに変えればいい、それも、彼女が決めればいい。
やがて、閉じられていた瞼が微かに震えた、エドアルドは束の間、息を止めた。
もう一度、小さく震えて、瞼がゆっくりと開く――淡い琥珀色の瞳が、三年ぶりの光を映した。
まだ何も理解していないように揺れていた視線は、まず工房の天井を捉え、次に枕元へ置かれた小さな白い花へ移り、はたり、はたりと不思議そうに瞬く。
それから少しずつ周囲を確かめるように彷徨った末、整備台の傍に座っている男のところで止まった。
「……」
エドアルドは何も言わなかった――言えなかった。
灰青色の瞳を見つめ返す琥珀色の瞳に、果たして自分が誰として映っているのか分からなくて、胸の奥を締めつけるような恐怖は確かにあったけれど、それでも構わないと思った。
この瞳が開いた――それだけで、よかった。
長い、長い沈黙のあと、女の唇が僅かに動いた。
「……マス、ター?」
掠れた声だった。たった一言を発することさえ思い出そうとしているような、覚束ない声だった――そしてひどく、懐かしい声。
エドアルドは目を見開いたまま動けずにいたが、やがて灰青色の瞳に滲んだものを隠すように一度だけ瞬きをすると、泣く代わりに、ゆっくりと笑った。
「あぁ」
三年前まで、自分は彼女が『マスター』と呼ぶたびに怯えていた。
その呼び名を聞けば、目の前にいる女がローズではないことを突きつけられるような気がしたから。
だから、恐怖を苛立ちに包んで何度も拒み、訂正させた――そのたびに彼女は自分の名前を胸の奥へ隠して、ローズとして笑った。
思えば、随分と残酷な仕打ちをしてきたものだった。
けれど今は、もう訂正する必要はない。
エドアルドは三年前に、一度も返してやることのできなかったその呼び名を受け取った。
胸は痛まない、恐怖ももうない――だから、今度こそ目の前にいる女だけを見つめた。
「……おはよう、リリィ」
琥珀色の瞳が、ゆっくりと大きく開かれた。唇がわなないた。
「――」
それが驚きだったのか、喜びだったのか――それともまだ目覚めたばかりの彼女自身にも分からない何かだったのか。
エドアルドには分からなかったし、今はまだ、尋ねる必要もなかった。
何もかも、これから知っていけばいい。
彼女が何を覚えているのかも、何を忘れているのかも、これから何を好きになり、何を嫌い、何を望み、どこへ行きたいと願うのかも。
今度は時間がある、明日がある、だから急がなくとも、良いのだ。
工房の高い窓から春の朝の光が差し込み、長い眠りから目覚めたばかりの白い髪を淡く照らしていた。
その向こうでは、誰が植えたわけでもない、慎ましやかな白い花が、今年も静かに風に揺れていた。




