3
翌朝、エドアルドは朝食を食べた。
否、正確には食べさせられた。
昨夜、ローズの部屋を出たあと自室へ戻る途中で、いつものように後ろをついてきたメイド型魔導人形へ『翌朝は必ず自分を食堂へ連れていき、用意した朝食を一定量摂取するまで仕事を始めさせるな』と命じたのは他でもないエドアルド自身である。
その際にはわざわざ『明朝の俺が撤回を命じても、食事を終えるまでは最初の命令を優先しろ』という念の入った条件まで追加していた。
寧ろ、これは強制されたというよりも、昨夜の自分が翌朝の自分へ仕掛けておいた罠へ見事に嵌まったと言った方が正しいのかもしれない。
――ローズに、食事をすると約束したからだ。
自分が朝になれば面倒になって『後で食べる』と言い出すだろう事も。
そのまま昼を過ぎても何も口にしない可能性が高いことくらい、誰よりも男自身がよく知っていた。
それならば、意志などという曖昧で不確かな信用ならないものに任せるよりも、命令されたことを正確に遂行する魔導人形へ任せてしまった方が確実だ。
……などと、昨夜の自分は、至極合理的に判断したようだった。腹立たしいことに。
そして、その判断が正しかったことを証明するかのように。
早朝、エドアルドは食事が用意された食堂まで半ば強制連行された挙句、長い食卓の端の席へと着座しながら、昨夜の己を心の底から疎ましく思っていた。
「旦那様」
「……」
「旦那様」
「聞こえている」
敢えて現実を拒否するように無言を貫いていた男だったが、再度、静かな声で呼びかけられ、諦めたように口を開いた。
「でしたら、こちらをご覧ください」
「見ている」
「書類ではなく、こちらを」
促されてもエドアルドは顔を上げず、目の前に広げた王立魔導院からの書類へ視線を落としたままでいた。
だが、そんな主人のささやかな抵抗など最初から想定済みだとでもいうように、メイド型魔導人形は焼きたてのパンが載った皿を彼の視界と書類との間へ静かに滑り込ませた。
「……邪魔だ」
「食事です」
「見れば分かる」
「でしたら、お召し上がりください」
「後で食べる」
「その回答は無効です」
メイド型魔導人形は、なんだかんだで主には逆らえない。
何かしらの作業に没頭しはじめれば、強く迫ることはできまい。
そのまま有耶無耶にして押し切ってしまおうとばかりに、紙を捲るエドアルドの指が、ぴたりと止まった。
「……何だと?」
「昨晩、旦那様より『明朝の自分が後回しを主張した場合、それを理由とした命令の撤回を認めないこと』との追加命令を受領しております。現在の『後で食べる』というご申告には命令を変更する効力がございません」
「……」
「なお、『朝食を一定量摂取するまで執務への移行を許可しないこと』『書斎への入室を阻止すること』『必要であれば王立魔導院から届いた書類も一時的に回収すること』以上、三点についても同時にご命令いただいております」
そこまで聞いて、ようやくエドアルドは書類から顔を上げた。軽く瞳を見開き、頬が引きつっていた。
朝の光が差し込む食堂には、十人以上が同時に食事を取れるほど大きな食卓が置かれている。
……だというのに、向かい側に座る者は今日も一人としておらず、その広すぎる空間の片隅で、焼いたパンと卵、野菜のスープ、切り分けられた果物だけが一人分、昨夜とは違ってまだ温かな湯気を立てていた。
そして傍らには、昨夜も彼の世話をしていたメイド型魔導人形が、主人が食事へ手をつけるまで一歩も退くつもりはないらしく、姿勢よく立っていた。
「……命令を、解除する」
「却下いたします」
「俺が造った人形が、俺の命令を却下するな」
「現在の旦那様による命令より、昨晩の旦那様から受領した命令が優先されるよう設定されております」
男が半眼で訴えた言葉を、メイド型魔導人形は表情をまったく動かさずに、すっぱりと斬り捨てた。取り付く島もない。
「誰が、そんな馬鹿げた優先順位を設定した?」
「昨晩の旦那様です」
「……」
淡々と告げられ、返す言葉がなくなった。
昨夜の自分、が何を考えていたのかなど、嫌になるほどよく分かっている。
ローズの前では食べると約束しておきながら、翌朝になれば仕事を理由に後回しにするだろう自分の性格を見越し、ならば逃げ道そのものを先に塞いでしまえばいいと考えたのだろう。
魔術式でも魔導具でも一度組み上げると決めれば、徹底的に抜けや穴を潰してしまう自分らしく、翌朝の自分による命令の上書きまで想定していたらしい。
――我ながら、実に腹立たしい。
「旦那様」
「……今度は何だ」
「お食事を」
「食べる。食べればいいんだろう」
「はい」
不機嫌さを隠そうともせずに書類を脇へ押しやり、ようやくパンへ手を伸ばす。
どうやら観念したらしい男の様子を確認すると、メイド型魔導人形は満足したようにも見える柔らかな微笑みを浮かべたが、その表情を見た男はさらに眉間の皺を深くした。
人間ならば、主人をからかっているようにも見えただろう。
しかし、魔導人形においては、違う。
エドアルド自身が設計した魔導人形なのだから、そのことは男が一番よく理解している。
状況に応じて人間に近しい表情を選択し、相手へ与える心理的圧迫を軽減しながら会話を円滑に進めるための機能を搭載したのも、他ならぬ彼自身だった。
そこに愉悦も、悪意もない――少なくとも、そういう設計だった。
「……食べれば、いいんだろう」
「はい」
観念しきった呟きとともに、これ見よがしなほど長い溜息を吐いた。
そうして男は、ようやく王立魔導院から届いた書類を食卓の隅へ追いやると、まだ温かなパンを手に取って一口だけ齧り、ろくに味わいもせず咀嚼して飲み込んでみせる。
これで文句はないだろうと言わんばかりに傍らのメイドを見上げた。
「これでいいか?」
「朝食とは、パンを一口摂取する行為を指すものではございません」
「……誰に似たんだ、お前は」
「旦那様がお造りになりました」
間髪を容れず返ってきた正論に、エドアルドは何か言い返そうとして口を開きかけた。
だが、感情の揺れのない魔導人形相手に何か言えば言う程、己の首を絞めるだけなのは、火を見るより明らかだった。。
もう一度深々と息を吐いてから、今度こそ諦めたようにスープの器へ手を伸ばす。
スプーンを沈めれば、細かく刻まれた野菜が柔らかく煮込まれた琥珀色のスープが揺れ、立ち上る湯気が鼻先をくすぐったところで、ふと昨夜の声が蘇る。
――明日の朝は?
……食べる。
――昼は?
……食べる。
――夜は?
あのときのローズは、まるで聞き分けの悪い子供を相手にしているような顔をしていた。
それが少し癪に障ったから最後には適当に返事をしたような気もする。
だが、結局こうして翌朝の自分が食卓へ座っているのだから、彼女の方が一枚上手だったのだろう。
そう思った途端、知らず口元が緩んだ。
「……」
その僅かな変化を、傍らに控えていたメイド型魔導人形の視線が正確に捉えたことに気づき、エドアルドは途端にいつもの仏頂面へ戻る。
まだ何も言われていないうちから、牽制するように眉を寄せた。
「何だ」
「いいえ。旦那様が笑っておられましたので」
「笑っていない」
「左口角が通常位置より三ミリ上昇しておりました」
「故障だ」
「では、自己診断を実行いたしましょうか」
「……しなくていい」
承知いたしました、と何事もなかったように一礼したメイドから目を逸らし、エドアルドは誤魔化すようにスープを口へ運んだ。
「……温かい」
空腹という感覚さえ長らく意識しないまま過ごしていた胃へ、柔らかな熱がゆっくりと落ちていく。
薄めに整えられた塩気と野菜の甘みが舌に残ったところで、エドアルドはこの味付けにも覚えがあることに気づいた。
ローズが好んでいた味だった。
――あなた、放っておくと味の濃いものばかり食べるでしょう?
そう言って、勝手に彼の料理へ水分を足したこともあったし、塩を振ろうとする手を横から叩かれたこともあった気がする。
あれはいつ頃のことだっただろうと記憶を辿れば、結婚してすぐだったようにも思える。
いや、幼馴染だった彼女は結婚する遥か以前から何かと彼の世話を焼いていたのだから、もっと昔だったようにも思える。
物心がついた頃には、もう隣にいた。
十歳の頃にも、十五歳の頃にも、二十歳になった頃にも。
やがて結婚して、それからもずっと――。
「……」
スプーンを持つ手が止まった。それから、――何年?
自分たちは結婚してから何年を一緒に過ごしたのだろう。
ローズはいつからあの部屋で一日のほとんどを過ごすようになり、自分はいつから彼女を屋敷の外へ出さなくなった?
考えれば答えられるはずの、あまりにも簡単な問いだった。
それなのに、その答えへ手を伸ばそうとした途端、昨夜と同じ細い針をこめかみの奥深くへ差し込まれたような痛みが走り、エドアルドは眉間へ深い皺を刻みながら目を閉じた。
記憶の中には確かにローズがいる。
幼いローズも、少女だったローズも、妻になったローズもいるのに、それらを現在まで一本の線で繋ごうとするたび、どこか一箇所だけが不自然に途切れ、その向こう側にあるものを見ようとすれば頭の奥から痛みが返ってくる。
「旦那様?」
「……何でもない」
即座に異変を検知したメイドが彼の顔を覗き込み、生体反応に通常値を超える変化があることを告げようとした。
だが、その報告を最後まで聞くより早く、男は「何でもないと言った」と思いのほか強い声で遮った。
広い食堂へ、その声だけが鋭く響いた。
メイドは命令された通り口を閉ざし、室内には再び静寂が戻ったものの、その従順さがかえって自分の苛立ちだけを際立たせたように思える。
男はしばらく目を閉じたまま荒くなった呼吸を整えると、やがて小さく息を吐いた。
「……悪い」
言ってから、自分でも妙なことを口にしたと思った。
謝る必要などないのだ。
目の前にいるのは人間ではなく、自分が造った魔導人形だ。
多少強い口調で命令したところで傷つく心があるわけでも、不愉快だから主人を嫌うようになるわけでもない。
そもそも彼女の役割はエドアルドの生活を補助し、その命令へ忠実に従うことなのだから、そこへ人間同士のような気遣いを持ち込む必要などどこにもなかった。
それでも、謝罪の言葉は考えるより先に口から出ていた。
メイドはそんな主人を数秒だけ見つめ、何かを処理しているような僅かな間を置いたあと、「謝罪は不要です」と、いつもと何一つ変わらない穏やかな声で答えた。
「……そうか」
「はい」
「なら、忘れろ」
「承知いたしました」
命令を受領したことを示すように、メイドは静かに頭を下げた。
だから、男も忘れることにした――少なくとも、そのつもりだった。
止まっていた朝食を再開し、まだ僅かに残っている頭痛を無視するように卵を口へ運び、パンを食べ、スープを飲み干す。
最後に切り分けられた果物を二切れだけ食べると、随分と長いこと忘れていた腹が満たされる感覚が戻ってきて、それは思っていたよりも不快ではなかった。
「……これでいいだろう」
「はい。昨晩の旦那様より受領した命令について、第一項の達成を確認いたしました」
「第一項、だと?」
嫌な言葉を聞いた気がして眉を寄せたエドアルドに対し、メイドは当然のことを報告するような顔で、朝食の摂取は第一項、昼食が第二項、夕食が第三項であると簡潔に告げた。
「……俺はそこまで指定したのか?」
「はい」
「……昨夜の俺は、随分と面倒な男だったらしいな」
「現在と大きな差異はございません」
「…、……、………お前、本当に感情がないんだろうな?」
「そのように設計されております」
エドアルドは何とも言えない顔でメイドを見たが、それ以上追及することは出来なかった。
食器を片付け始めた彼女を横目に、先ほど脇へ追いやった書類を再び手元へ引き寄せる。
王立魔導院から届いた、新型魔力炉の設計協力依頼。
封を切っただけでも普段なら上出来であり、昨夜までの彼なら中身を数行読んだところで興味がないと放り出し、そのまま暖炉の焚き付けにでもしていただろう――だが。
――仕事をしたら?
最近、ローズがよくそう言う。
以前は、それほどしつこく仕事へ戻れとは言わなかったはずなのに、ここしばらくは『食事をしろ』『少しは外へ出ろ』『仕事も再開してみたらどうか』と、まるで一つずつ何かを確認するように、彼が放り捨ててしまった日常を拾い上げては手元へ返そうとしてくる。
――以前。
その言葉が、不意に引っ掛かった。
以前とは、いつだ?ローズがそう言わなかったのは、いつまでだった?
そもそも自分は――いつから仕事をやめた?
「……っ」
また、こめかみの奥が疼いた。
答えのない問いへ踏み込みかけるたび、身体の方が先に拒絶するように痛みが生まれることにも、もう薄々気づいていたのかもしれない。
だから、考えなかった。
正確には、考えないことを選んだ。
思考を止めてしまえば痛みは遠ざかる。
記憶の奥にある何かへ触れようとさえしなければ、ローズは今夜も午後十一時にあの部屋で待っているのだから。
そう、わざわざ好き好んで、頭痛に耐えて答えを探す理由などない。
エドアルドは眉間を押さえていた手を下ろし、意識を目の前の紙面へ強引に切り替えた。
新型魔力炉――循環術式。
小型化を前提とした三重循環術式。
現行型における魔力変換効率、六十二パーセント。目標値、八十パーセント以上。
そこまで読んだところで、先ほどまで彼を苛んでいた頭痛とはまったく別の意味で、エドアルドの眉間に深い皺が刻まれた。
「……正気か?」
低く吐き捨てながら術式へ視線を走らせれば、設計者が何を意図して男の目から見れば全くと言っていい程、無意味で無駄な術式を追加したのか。
その結果どこで損失が生じ、何を改善しようとして逆に効率を落としているのかまで、彼の頭の中ではほとんど一瞬のうちに組み上がっていく。
「こんな設計で、八十パーセントを目指すつもりか」
先ほどまで食事を嫌がっていた男とは別人のように羽根ペンを掴む。
依頼書の余白へ躊躇なく術式を書き込み、現状生じている六パーセント以上の損失を指摘したところで一度手を止めた。
既存の術式との統合を試算し、今度は増大する熱量に気づいてその式を横線で消した。
「……いや、統合だけでは駄目だ。冷却術式が循環路へ依存しているから熱が逃げない。なら冷却だけ独立させて……魔力供給を外周へ回せば――」
独り言は次第に途切れ、代わりに羽根ペンが紙の上を走る音だけが食堂へ響く。
五分が十分になり、十分が三十分になってもエドアルドは席を立とうとはせず、最初の依頼書では足りなくなって裏面へ、さらに別紙へと、次々に術式と計算を書き連ねていった。
気づけば、一時間が過ぎていた。
食器を片付け終えたメイド型魔導人形は、その間一度も彼へ声をかけることはなかった。
ただ、食堂の入口に佇み、つい先ほどまで朝食一つ摂らせることにも苦労していた主人が、紙面へ没頭している姿を、ただ静かに見守っていた。
「……」
かつて、この屋敷では当たり前に見られた光景だった。
そして、長い間、失われていた光景でもあった。




