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深夜一時。
エドアルドが部屋を出ていく。
扉の向こうから十八重の封印がひとつ、またひとつと起動していく低い音が聞こえた。
それさえも完全に途絶えて、彼の足音がもう戻ってこないところまで遠ざかったことを確認する。
そこで女はようやく唇に浮かべていた柔らかな微笑みを消し、つい先ほどまで愛する夫を見送っていた妻とはまるで別人のような、静かな無表情で薄暗い部屋の中に取り残された。
寝台の端へ腰掛けたまま両手を膝の上へ置き、右手の指を一本ずつゆっくり曲げていく。
人差し指、中指までは何の問題もなく動いたものの、薬指だけが命令を受け付けず真っ直ぐ伸びたまま止まっていた。
左手で掴んで無理に曲げれば、第二関節の奥に僅かな抵抗が返ってきたことから、内部骨格ではなく魔力伝達糸の断裂だろうと、彼女はほとんど考えるまでもなく故障箇所を特定した。
「……やっぱり」
修復そのものは、そう難しくない。
この身体を造った男ならば、こんな故障など半日もかけずに直してしまうだろうし、胸の奥に収められた魔力炉も、傷み始めた疑似神経網も、少しずつ欠けていく記憶結晶さえ、今ならば手遅れになる前に修復できるのだ。
そんなことは、誰よりも彼の腕を知っている彼女自身が一番よく分かっていた。
けれど、それを彼に頼むことだけはできなかった。
胸元へそっと掌を宛がえば、その下には人間のように脈打つ心臓はない。
伝わるのは暖炉の炎のように暖かく灯る魔力の胎動。
人でいう心臓にあたる部分には、掌に収まるほどの小さな魔力炉が存在する。
魔力炉を中心に巡らされた無数の術式と魔力伝達糸と人工骨格によって、エドアルド・ヴァレンティが造り上げた最高傑作――自律思考型魔導人形、識別番号ED-00は、今日までの五年という時間を、一人の女として生き続けてきた。
そして、その人形には、ローズではない名前がある。
「……リリィ」
誰にも聞かれることのない小さな声で、五年間ただの一度も彼の前では口にしなかった自分の名前を呼ぶ。
その響きはひどく懐かしいもののようでありながら、同時に自分のものではないようにも思えて、リリィは動かなくなった薬指を見つめたまま、ほんの少しだけ目を伏せた。
起動した日の記憶は、今も残っている。
初めて瞼を開いたとき、クリアになった視界には、頬が痩け、髭も伸び、目の下に濃い隈を作った一人の男が立っていた。
幽鬼のようなひどい顔をした男が、完成したばかりの自分を見るなり、まるで死んだはずの世界がもう一度動き出したかのように泣きながら笑い、強く抱きしめて、『ローズ』と、彼女のものではない名前を呼んだ。
――違います、と答えようとした。けれど、その言葉が声になるより早く。
『お前はローズだ』
魔力炉に直接、制約魔術式が刻まれた。ぎり、と胸の奥が痛んだ。
『ローズとして振る舞え』
それが、彼女がマスターから与えられた、最初の命令。
それから五年間、リリィという名前を持つ人形が、一度としてその命令に背くことはなかった。
彼が愛した妻の声で笑い、彼が愛した妻の仕草を覚え、彼が愛した妻の思い出を、自分のもののように語りながら、今日までローズ・ヴァレンティとしてこの部屋で彼の帰りを待ち続けてきた。
視界の端へ自己診断の文字列を呼び出せば、魔力炉の出力低下、各部の駆動不良、疑似神経網の断裂、記憶結晶の劣化と、既に無視することのできない異常が簡潔な文字となって並んでいた。
そのほとんどすべてに、早急な修復を推奨する警告が添えられていたが、リリィはそれらを一つずつ読むこともせず、最後に赤く表示された数字だけをしばらく見つめた。
「……まだ、大丈夫」
あと、百二十六日もあるのだから。
明日も、その次の日も、まだ何度もエドアルドに会える。
今日ようやく食事をすると約束してくれた彼が、明日の朝には本当に食卓へ座ってくれるかもしれない。
放り出した仕事にも少しずつ戻り、いつか王立魔導院から届く手紙を破り捨てずに最後まで読んでくれる日が来るかもしれない。
そうしていつかこの閉ざされた屋敷から外へ出て、誰かと話し、誰かと笑い、わたしがいなくても生きていけるようになってくれるのなら――残された時間が減っていくことなど、きっと怖くはない。
なにも、怖いことなど、ない。
「……まだ、わたしは大丈夫」
もう一度、しっかりと声に出してそう呟いてから、リリィは寝台へ身体を横たえた。
胸の奥を巡る魔力を必要最低限まで絞りながら、明日の午後十一時まで自らを深い休眠状態へ沈めていく準備を始めた。
本来ならば魔導人形に、睡眠など必要ない。
それでも一日のほとんどを眠って過ごせば、それだけ魔力炉への負担を減らすことができる。
そのぶん少しでも長くこの身体を動かしていられるのだから、二十二時間の暗闇と引き換えにしてでも、彼がこの扉を開けるほんのわずかな時間だけは、いつものローズとして笑って迎えられれば、それでよかった。
「明日は、何を話そう?」
庭の薔薇のことでもいいけれど、それより先に、きっと朝食のことを聞かなければならないだろう。
『ちゃんと朝ご飯は食べた?』と少し呆れたように訊けば、エドアルドはまた今日のように面倒そうな顔をして、それでも最後にはほんの少し笑ってくれるかもしれない。
想像しただけで、停止処理へ移行していたはずの思考領域に、命令として登録されていないはずの、小さな期待が残った。
だから……明日まで、明日までは。
「おやすみなさい、マスター」
――推定残存稼働時間、百二十六日、十四時間、三十二分、十一秒。
十秒。
九秒。
さら、さら、と。
小さな箱庭の中で、砂時計の砂が落ちるように。
誰にも知られることのない彼女の時間だけが、暗闇の中に静かに失われていった。




