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館の時計が十一度目の鐘を鳴らす頃、エドアルドは妻に会いに行く。
それは、もう、五年も続いている習慣だった。
書斎の机に広げていた羊皮紙から顔をあげ、インクの乾ききっていない羽根ペンを置く。
それから、ほとんど手をつけていなかった珈琲を一口だけ飲んで、顔を顰めた。
……冷めている、当たり前だ。淹れられてから、もう三時間近く経っていた。
「……旦那様」
傍らに影のように控えていたメイドがそっと声をかけた。
非常に整った顔立ちの、若い女の姿をしている。淡い金髪を後頭部でまとめ、知性的な新緑の瞳に、黒い露出度の低いワンピースに白いエプロン。
人間の女と何ら変わらぬ姿をしているが、その胸の奥で鼓動しているのは心臓ではない。
魔導と神秘の技術の結晶――魔力炉だ。
エドアルドの手によって造られた、第四世代自律型魔導人形。
炊事、洗濯、掃除はもちろん、簡単な会話と状況判断、主人の体調管理までこなす。
王都の魔導具師が百人束になったところで、この水準のものを一体造れるかどうか。
手に入れるとなれば王侯貴族でも少々躊躇う値段がつけられるような、それほどの傑作だった。
「お食事を」
「いらない」
「ですが、本日は朝食も」
「いらないと言った」
「……承知いたしました」
メイドはそれ以上何も言わなかった――否、言えなかった。主の命令に従う。それが彼女たちの存在理由だ。
エドアルドは椅子から立ち上がった。白いシャツの上に無造作に羽織っていた上着を手探りで整える。
鏡を見ることはない、自身の容姿に頓着した様子が無かった。
そんな彼は、かつては随分と見目の良い男だった。
いや、四十を目前にした今でも、世間一般の基準で言えば美丈夫の部類に入るのだろう。
少し癖のある黒髪。彫りの深い顔立ち。眦が鋭さを帯びた灰青色の瞳。
若い頃には、研究発表のため王立魔導院へ赴くたびに、研究内容ではなく本人を見るために令嬢たちが集まったという話さえあった。
きゃらきゃらと令嬢たちが囁く甘い声と、熱い視線を浴びせられていた本人は、その事実をひどく鬱陶しがっていたが。
――当然の話だった。
彼には、昔から一人しか存在しなかった。
ローズ。
彼の世界は、それだけで事足りていた。満ち足りていた。他の女性も、否、他の人間などいなくても彼の世界は回っていた。何事もなく。何の欠けもなく。
「旦那様。明日の予定についてですが」
扉へ向かう背中に、メイドが声をかける。宝石のように美しい新緑の瞳が主を見つめていた。
「午後二時、王立魔導院より使者が参ります。先日依頼されました新型魔力炉の……」
「断れ」
「三度目となりますが」
「なら四度目も断れ」
「……承知いたしました」
再度強く告げるとメイドは黙って頭を下げた。今度こそ、エドアルドは書斎を出た。
廊下は静かだった。そもそも、広すぎる館だった。
二階建ての本館に、東西の別棟。工房。温室。地下研究室。使用人のための離れまである。
かつては人間の使用人も十数名ほど働いていたが、今はいない。必要がなくなったからだ。
代わりに館を管理しているのは、すべてエドアルドが造った魔導人形達だった。
料理人も、庭師も、御者も、メイドも。この屋敷を管理するもの全てが。
――彼以外に、この館には一人として生きた人間はいない。
そのことを、エドアルドは不便だと思ったことがなかった。人間は余計なことを言う。
放っておいて欲しい時にこそ、気を遣う。勝手に人の内面を判断し、勝手に憐れみ知った風な口を利く。
そして何より…………嘘を暴こうとする。
だから、いらない。
階段を上る。こつり、こつりと静かな館内に靴音が響く。
一階から二階へ。
二階から、さらに細い階段を使って三階へ。この館の三階部分には、部屋が三つしかない。
その一番奥で、エドアルドはひたりと足を止めた。目の前には、白い扉がある。
一見すれば何の変哲もない、普通の扉に見えるそれ。
鍵穴はあるが、エドアルドの手に鍵らしきものは見えない、開かずの間。
けれど少し能力のある魔術師が見れば、息を呑んだことだろう。
十八重――その白い扉には、凡人には視認叶わぬ、厳重かつ精緻な封印術式が施されている。
『物理防御』扉を物理的に破壊する事は出来ない。
『魔力遮断』扉の向こうを魔力でうかがい知る事は出来ない。
『転移阻害』扉の内側へ転移魔法で入り込む事は不可能。
『認識阻害』扉の存在は、ある程度の魔術の素養がある者以外には感知できない。
『破壊耐性』扉を破壊しようとする攻撃の一切に対する耐久力。
挙句の果てに、侵入者に対する迎撃術式まで念入りに練り込まれている。
王城の宝物庫でさえ、ここまで厳重ではないだろう……とても実用的とは言えない、馬鹿馬鹿しいほどに複雑でややこしい術式。
エドアルドが右手を扉へ触れると、涼やかな音と共に淡い青色の光が走った。
一つ。
二つ。
三つ。
蕾が花開くように、或いは咲き終えた花が風に花弁を散らすように、施された十八の術式が順番に彼を認識し、解除されていく。
最後に、小さな音がした。
かちりと、まるで鍵を差し込んだかのように開錠され、ノブを回すと扉が開いた。
無表情に近い、近寄りがたい鋭さを帯びたエドアルドの表情が、そこで初めて緩んだ。とはいえ、間違い探しレベルの微かな差であったが。
「ローズ」
愛おしさを込めた柔らかな声で一つの名を紡ぎながら、扉を開ける。薄暗い室内へ廊下の光が細く差し込む。
華美ではない、落ち着いた色調でまとめられた調度品に囲まれた、女が一人で過ごすにはやや広い部屋の中央には、天蓋つきの大きな寝台。
――そこに、一人の女が眠っていた。
月光を撚ったような艶やかな淡い銀色を帯びた金髪が、枕の上へゆるやかに広がっている。
腰を越えるほどに長く、柔らかく波打つ髪。精緻な模様が透けるレースがふんだんにあしらわれた、白い寝間着。
乱暴に扱えば折れてしまいそうな程、華奢な身体。閉ざされた長い睫毛に縁どられた瞼。
夢見るような曲線を描く白い頬、作り物のように整った顔。
――そう、まるで、人形のように。
「ローズ」
もう一度呼んだ。暫しの間があって女の瞼が微かに震え、やがて開いていく。長い睫毛に縁どられた淡い緑色の瞳が、ゆっくりとエドアルドを映す。
そうして、ひとつ瞬いた。緑の瞳がきらりと煌めいた。
「あら」
宝石のように輝く瞳がエドアルドを捉えた刹那、彫像のように整った面差しが生気を帯び、ふわりと柔らかな笑みが浮かんだ。
「……遅かったじゃない、エド」
「ああ」
「仕事してたの?」
「少しな」
「少し……ねえ?」
疑わしい。そんなニュアンスを帯びた声音で呟くと、女は上半身を起こした。しゃらりと長い髪が肩から滑り落ちる。それをそっと自然な仕草で背に流しながら。
「どうせまた食事も忘れていたのでしょう?」
ふふんと笑ってお見通しだとでも言いたげな声に、むっすりと唇を引き結んだエドアルドがぼそりと答えた。
「食べた」
「うそ」
即座に短く否定された。じいっと緑の瞳がエドアルドを見つめている――灰青の瞳がすっと逸らされた。
「……食べた」
「何を?」
「……」
「ほらぁ?」
言葉に窮した男を認め、くすくすと女が笑う。
実に楽しそうな女と対照的に、エドアルドは少しだけ不満そうな顔をした。
「腹が、減っていなかった」
「それで身体を壊したらどうするのよ」
「壊さない」
「あなたって、昔からそう。自分の身体は魔導具か何かだと思っているでしょう?」
「そんなことは思っていない」
お説教がはじまる気配があった。
むっすりとしかめっ面になった男は、早口で否定するが、女はそこで追及の手を緩めるつもりはないようだった。
「だったら、ちゃんと食べなさい?」
「分かった」
「……本当に?」
「ああ」
じぃぃぃっと緑の瞳がそっぽを向いた男の灰青の瞳を見ている。だが視線は合わない。女の唇がへの字を描いた。
「明日の朝は?」
「食べる」
「昼は?」
「食べる」
「夜は?」
「……努力、する」
「そこは、食べるって言いなさいよ!」
ちくちくと投げかけられる女の問いを、うるさいと遮ることはなかったが、一辺倒の返答は一枚上手の女に、とうとう追い詰められてしまった。
逸らしたままの顔、その瞳だけが逃げ場を探すように部屋の天井をうろうろしている仕草がおかしくて、堪えきれなかった女の唇から、くすくすと楽しげな笑い声が零れる。
それにつられるようにして、エドアルドもほんの少しだけ笑った。
書斎で一人、世界のすべてを拒絶するような顔をしていた男と、同じ人間とは思えないほど、それは穏やかな笑みだった。
やがて男は、ゆっくりと寝台の端に腰を下ろした。きしり、と小さな音が響く。
そうして、まるで長年の習慣であるかのような自然さで女の髪へ触れては、指の間をするすると滑り落ちていく柔らかな銀金の髪を確かめるように、ゆっくりと梳いた。
「今日はどうだった?」
「いつも通りよ」
「……苦しくなかったか?」
その問いだけで終われば、女も素直に頷いていられたのかもしれないが。
女が「大丈夫」と答えたそばから男の灰青色の瞳は僅かに険しくなり、やれ胸の痛みはなかったか、息苦しくなることはなかったか、眩暈は?動悸は?と、まるで彼女自身の言葉よりも一つずつ確かめなければ安心できないとでもいうように、次から次へと細かな問いを重ねてくる。
女は最初こそ一つずつ「ないわ」「平気よ」と答えていたものの。
いつまで経っても終わる気配のないそれに、とうとう小さな溜息を零すと、それでも本気で煩わしがっているわけではないことが分かる困ったような笑みを浮かべた。
「……エド。私は大丈夫よ」
「……そうか」
「本当に大丈夫。あなたは昔から、少し心配性すぎるのよ」
そう言って笑う女に、エドアルドはなおも何か言いたげな顔をしていたが、結局それ以上問いを重ねることはせず、代わりに指へ絡んだ長い髪をもう一度だけ、慈しむようにゆっくりと梳いた。
昔から、そうだった。
ローズは幼い頃から決して丈夫な方ではなく、季節の変わり目になれば決まって熱を出した。
冷たい風が吹き始める頃には咳が長引き、冬になれば数日間寝台から起き上がれないことも珍しくなかった。
だから、エドアルドにとって彼女の体調を気にかけることは、いつから始まったのかさえ思い出せないほど当たり前の習慣になっていた。
その年は例年よりも雪が深く、昼過ぎから降り始めた雪は日が暮れてからも止む気配を見せなかった。
窓の外では凍てつく風に煽られた白い粒が、斜めに吹き荒れている。
ローズはそんな夜に限ってひどい熱を出し、赤く火照った頬で浅い呼吸を繰り返しながら、何度呼びかけてもほとんど目を開けようとしなかった。
『薬がない』
誰かがそう言ったのだったか、それとも薬師を呼ばなければと大人たちが話しているのを聞いたのだったか。
その辺りの記憶はもう曖昧だったが、彼女を助けるために必要なものがここにはないという事実だけは、まだ子供だったエドアルドにも恐ろしいほど鮮明に理解できた。
――だから、走った。
誰かに許可を求めた記憶もなければ、外へ出ると告げた記憶さえなかった。
気がついたときには厚い外套を引っ掴んで家を飛び出し、ふくらはぎまで沈む雪を何度も蹴り上げながら、町外れに住む薬師の家までただひたすら走っていた。
雪が頬へぶつかるたびに針で刺されたように痛み、吐き出した息はすぐに白く散った。
途中からは指先どころか足の指の感覚までなくなっていたけれど、寒いとも怖いとも思わなかった。
もし、自分が遅れたせいで彼女がいなくなったら、もうあの笑顔を見られなくなったら……、その方が、吹雪の中を一人で走ることよりもよっぽど恐ろしかった。
薬を抱えて戻ってきた頃には、濡れた髪も外套も半ば凍りつき、手袋を外した指先は血の気を失った末に紫色へ変わっていた。
それを見た大人たちから何を言われたのかはほとんど覚えていない。
だが、薬が効いてようやく熱の下がったローズが翌朝に目を覚まし、寝台の傍らにいた自分の手を見るなり顔を歪めたことだけは、今でも妙に鮮明に覚えていた。
――私を助けるために、あなたが死んだらどうするのッ!ばか!エドのばかっ!
まだ熱の残る顔を真っ赤にして、泣きながら怒鳴られた。
自分の方が死にかけるほどの熱を出していたくせに、どうしてお前が泣くんだ。
当時、幼かったエドアルドは呆れたし、せっかく助けてやったのに怒られるなんて理不尽だ……とも思った。
けれど、毛布の中から伸びてきた小さな手が凍傷になりかけた自分の指を包み、何度も何度も「ばか」と繰り返していた姿を見て、酷く安堵した事を覚えている。
そして『どうして笑ってるのよ!ばかっ!』と更に雷が落ちた事まで、まるで昨日のことのように思い出せた。
あれは――、いつだった?
そうだ。ローズが、十歳だった冬。
ならば、自分は。十二歳。
――その、はずだ。
エドアルドは二つ年上だったのだから、それで合っているはずなのに。
なぜかその数字を頭の中へ並べた途端、何か薄い膜の向こう側で記憶そのものが歪んだような奇妙な感覚が生じ、つい先ほどまで鮮明だった雪景色の輪郭が、急に水へ落としたインクのように滲み始めた。
では――。今は?
自分は、いくつだ。
ローズは。いくつに――。
「……」
つきんと、頭の奥で何かが軋んだ。
ほんの一瞬前まで何の疑問も抱いていなかったはずなのに、年齢というただの数字を現在まで繋げようとした途端、その先にあるはずの記憶だけが不自然なほど暗く閉ざされ、そこへ踏み込んではならないとでもいうように、こめかみの奥から鋭い痛みが走る。
おかしい……何が?
何かが、合わない……何が?
それから――何年。
結婚したのは。ローズが病に伏せることが増えたのは。
白衣の男が、鎮痛な面持ちで口を開く、
『もう、できることは……』
「……エド?」
呼びかけられてもすぐには返事ができず、男はどこか遠くから自分を呼ぶ声を聞いているような心地で、暫しぼうっとしていた。
目の前にいるはずの女ではなく、今しがた脳裏を掠めた何かの残滓を追うように、焦点の定まらない瞳を宙へ彷徨わせている。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
そう答えた声は自分でも分かるほど掠れていた。
誤魔化すように眉間へ指を当てれば、こめかみの奥には細い針をゆっくり差し込まれているような、小さいくせに無視することのできない痛みが残っていた。
昔のことを思い出そうとすると、ときどきこうなる。
いや、昔のことならば思い出せるのだ。
ローズは幼い頃から身体が弱く、季節の変わり目には決まって咳をして、冬になれば熱を出し、寝台の中で苦しそうに身体を丸めていることも珍しくなかった。
そんな彼女のために薬を探したことも、夜通し傍らに座っていたことも、一つ一つならば鮮明に思い出すことができる。
ただ、それらを順番に並べようとすると、なぜか輪郭がぼやける。
いつのことだったのか、それから何年が経ったのか。
どこまでが昔で、どこからが今なのか。
ローズは昔から身体が弱かった。
だから自分は、ずっと彼女を心配してきた。
そう。だから――。
「エド」
不意に手を取られたことで、また沈みかけていた思考が途切れた。
エドアルドはゆっくりと視線を落とすと、自分の手を包み込んでいる白く細い指を、何かを確かめるようにしばらく見つめた。
冷たい手だった。ちいさくて、やわらかい、女の手。
けれど、それさえも昔から変わらない。
血の巡りが悪いのだろうと医師に言われたこともあったし、冬になると彼女はよく冷えた指先をエドアルドの掌へ押しつけて、「あなたは暖かいから」と悪戯っぽく笑っていたのだから、この冷たさは何もおかしなものではない。
「ねぇ、私を見て」
穏やかな声に促されるまま顔を上げれば、すぐ目の前に淡い緑色の瞳がある……新緑に似た、色彩。
先ほどまで頭の中を掻き乱していた雪景色も、年齢も、医師の声も、その瞳を見た瞬間にすべてが遠ざかっていくような気がした。
「私は、ここにいるわ。だから、大丈夫」
女はそう言って微笑み、逃がさないとでもいうように彼の手を両手で包み直すと、親指でその甲をゆっくりと撫でた。
貴族の綺麗なそれとは違う、ごつごつとした、物を作る男の手。
ここにいる……目の前に、触れられる場所に、暖かいままで。
緑色の瞳も、長い銀金の髪も、幼い頃から聞き慣れたその声も、心配そうに眉尻を下げる癖も、何一つ変わることなく、すべてがここにある。
「……ローズ」
確かめるためというよりも、そう口にすれば何もかもが正しい場所へ戻ると信じるように名前を呼ぶと、女はほんの少しだけ目を細め、いつもと変わらない優しい笑みを返した。
「ええ。ここにいるわ、エドアルド」
「……そうだ」
ようやく息を吐き出しながら、エドアルドは包まれていた手を反対に握り返した。ひんやりとした手に、自分の熱を分け与えるかのように。
華奢な手は冷たい。ひどく冷たい。けれど昔からそうだった。
ローズは身体が弱かったから、手足はいつも冷えやすくて、冬の夜にはこうして自分が握って温めてやることも珍しくなかったのだから、今さら気にするようなことではない。
そうだ、昔から。
手は冷たくて、体温も低くて、脈も――。
「……」
そこで、思考が止まった。
握ったままの手へ、エドアルドの視線がゆっくりと落ちる。
男の親指は、いつの間にか彼女の手首へ触れていた。
自分の親指がいつの間にか女の手首へ触れていることに気づいた男は、そこに何を確かめようとしていたのかを考えるよりも早く、その細い手を強く引き寄せると、ほとんど縋りつくようにして女の身体を腕の中へ抱き込んだ。
ひどく細い身体だった。
昔から華奢な女ではあったけれど、こうして抱きしめてみれば驚くほど容易く、腕の中へ収まってしまう。
少しでも力を込めれば壊してしまいそうな頼りなさに、男は確かめるように背へ回した腕へ力を込めながら、それでも痛ませてはいけないと途中で思い直したよう、僅かにその力を緩めた。
「……ローズ」
女の肩口へ顔を埋めたまま名前を呼べば、すぐ傍から「ええ」と柔らかな声が返ってきた。
それだけで先ほどまで頭の中を掻き乱していた雪の夜も、噛み合わない数字も、思い出しかけた医師の声も、すべてが遠い場所へ押し戻されていくようだった。
ここにいる、触れられる、声も聞こえる、ならばそれでいい。
――それだけで、いいはずなのに。
胸の奥に巣食った、名もない恐怖だけはどうしても消えてくれずに。
エドアルドは腕の中にいる女が僅かでも離れてしまえば、そのまま二度と手の届かない場所へ消えてしまうような錯覚に襲われて、無意識のうちに彼女の寝衣を指先で掴んだ。
「……どこにも行くな」
命令するような強い言葉とは裏腹に、その声には、置いていかれることを恐れる子供のような響きが混じっていた。
その瞬間、ほんの刹那、彼の腕の中で女の表情が、消えた。
笑みも、困ったように下がっていた眉尻も、彼を安心させるために作っていた優しい妻の顔も。
すべてがふっと抜け落ちて、そこには、迷子のような顔をした一人の女の顔だけが残った。
けれど、男には、エドアルドには見えなかった。
彼女の肩へ顔を埋め、縋るように抱きしめていたから。
女はしばらく何も言わず、ただ自分を抱きしめる男の背中へそっと腕を回すと、目を閉じた。
そこに確かにいるのだと伝えるように掌を押し当て、幼い子供を宥めるようなゆっくりとした手つきで、一度、二度とその背を撫でる。
この人は、怖いのだ。
何を恐れているのか、自分ではもう正しく思い出すことさえできないままに。
それでも身体のどこかだけが失った痛みを覚えていて、もう二度と同じものを失うまいと、こうして腕の中にあるものへ必死に縋っている。
だから。
ゆっくりと瞳を開いた女は、もう一度微笑んだ。
エドアルドには見えないところで、それでも彼が顔を上げたときにいつもの妻がそこにいられるように、何度も繰り返してきた優しい笑みを唇へ戻した。
「……ええ。どこにも行かないわ」
背中を撫でる、ゆっくりと、何度も。満ちては引く波のように穏やかに優しく。
「私は、ここにいるから」
その言葉を聞いてようやく腕の力を僅かに緩めた男を、女はそれでも離そうとはせず、むしろ今度は自分の方から抱きしめるようにして、黒い髪へ頬を寄せた。
――嘘、だった。




