「街に出れば、もっとおかしい」
午前の簡易検査が終わったあと、朔也は結局、午後には病院を出ることになった。
もちろん退院というわけではない。
二階堂綾の説明によれば、命に別状はなく、経過観察さえできれば入院を続けるほどではないらしい。ただし「一般病棟にいるほうが問題が起きやすいから」と、妙に歯切れの悪い言い方をされた。
問題、という言葉が何を意味しているのか、まだ朔也にはよくわからない。
ただ、午前中にも一度、病室の前が騒がしくなった。
若い女の声がいくつか重なり、看護師が強い口調で制止しているのが聞こえた。
誰かが「ほんの少し見るだけ」と言っていた。
別の誰かが「本物なんでしょ」と、ひどく興奮した声で囁いていた。
あれが全部、自分に向けられたものだと言われても、やっぱり現実感はない。
ないはずなのに、胸の奥がずっとざわついている。
「立てますか」
病室の前で、紗良が短く言った。
もう白衣姿ではない。
いつものスーツに薄いトレンチを羽織っている。
その格好のまま病院の廊下に立つと、医療関係者というより捜査官みたいだった。
「…一応」
ベッドから足を下ろし、ゆっくり立ち上がる。
まだ少し頭が重いが、歩けないほどではない。
肩と腰に鈍痛はある。
けれど、それ以上に落ち着かないのは病院着のままだということだった。
「着替えはこちらです」
紗良が差し出したのは、見覚えのない紙袋だった。
「え」
「最低限の衣類を手配しました」
「手配って…」
「あなたの元の衣類は事故の際に損傷しています」
まあ、そうだろう。トラックに撥ねられて無事な服のほうがおかしい。
紙袋を受け取る。中には、シンプルなパーカーとパンツ、肌着まで一式入っていた。サイズも合っているように見える。
「…何でサイズわかったんですか」
「見れば大体は」
「見てわかるもんなんだ…」
「特殊な話ではありません」
いや、特殊だろ、と言いかけてやめた。どうせこの女に言っても通じない。
紗良は着替えのために一度背を向けた。カーテンも引かれ、さすがに覗かれることはないらしい。
そこにだけ、わずかな安堵を覚える。
朔也は急いで病院着を脱いだ。
鏡のない場所で自分の体を見るのは、少しだけ楽だった。
見たくない輪郭も、直視しなければぼやける。
丸い腹。厚みのある胸。短い首。締まりのない胴回り。前は、これが笑いの種だった。
体育の着替えのたび、プールのたび、温泉のたび、誰かの視線を先回りして勝手に傷つくのが癖になっていた。
その身体に、いまは新品の服を通す。
不思議なくらい着心地がいい。大きすぎず、小さすぎず、ちゃんと今の体に合っている。
それだけのことなのに、少しだけ戸惑った。
「終わりました」
言うと、紗良が振り返る。
その瞬間、彼女の視線が一度だけ朔也の全身をなぞった。
ごく短い視線だった。
けれど、服が合っているかを確認する以上の熱が、確かに混じっていた気がする。
「問題ありません」
「…何が」
「サイズです」
「そうじゃなくて」
「行きますよ」
かわされた。
わざとか、と睨んでも、紗良は眉一つ動かさない。
病室を出ると、途端に空気が変わった。
午前中より人は少ないはずなのに、それでもすれ違う女たちの目が止まる。
看護師。受付。見舞い客らしい女性。
誰も彼もが、ほんの一瞬、朔也を見る。そして二度見する。中には足を止めかける者もいた。
何なんだ、本当に。
やめてほしい。心臓がもたない。
「近くにいてください」
紗良が低く言う。
「離れないで」
「…離れるほど元気はないです」
「ならいいです」
返しながら、彼女はごく自然に朔也の背へ手を添えた。
「っ」
背中の中央、肩甲骨の下あたり。パーカー越しでもわかる熱だった。
「な、何」
「歩線を調整しています」
「歩線って何だよ」
「人の流れです」
「いちいち言い方が固いんだよ…」
ぶつぶつ言いながらも、朔也は背に触れる手の存在が気になって仕方なかった。
守られているような、誘導されているような、どちらともつかない感覚。
前はこんなふうに女に触れられた記憶なんて、本当にひとつもない。
エレベーターで一階へ降りる。
外来フロアの空気は病棟よりずっとざわざわしていた。
人が多い。声が多い。光も多い。その中で、自分に向く視線まで多いのは、さすがに悪夢じみている。
出入口へ向かう途中、すれ違った若い女が明らかに足を止めた。
長い髪をゆるく巻いた、よくいる量産型っぽい服の女だ。
けれど朔也の感覚では、普通にかなり可愛い。
いや、可愛いどころか、学生時代なら教室の中心にいる側だろう。
その女が、朔也を見て、ぽかんと口を開けた。
「…え」
小さな声。
友達らしいもう一人の女も振り返る。
「うそ…」
その反応は、露骨すぎるほど露骨だった。
朔也は思わず足を速める。無理だ。耐えられない。
からかわれてるのか、本気なのかもわからないまま視線だけ浴びるの、心臓に悪すぎる。
その時、入り口近くの案内カウンターから一人の女が立ち上がった。
「失礼します」
通る声だった。
黒いジャケットに、綺麗に塗られた赤い唇。目元の強さが印象に残る女。
病院職員には見えないが、化粧品売り場にいそうな、隙のない美人だった。
「移動の前に、こちらで少しだけ確認を…」
「必要ありません」
紗良が先に返す。
女は涼しい顔のまま、朔也へ視線を向けた。
「瀬戸香澄です。病院内の提携カウンセリングと身だしなみサポートを担当しています」
「は…?」
「顔色が悪いので、軽く整えるだけでも印象が和らぎます」
印象。和らぐ。
その言葉に、朔也は反射的に身構えた。
ああ、やっぱりそういう話か。
事故で顔色が悪くて、ただでさえ終わってる顔面がさらに悲惨だから、最低限見られるように整えましょうって話だろ。
だったらまだ理解できる。
「いや、別に俺、そういうのは…」
「五分で終わります」
香澄はにこりともせず言った。
その表情のなさが、逆に妙な圧を持っていた。
「霧島さん、移送先で混乱を招くよりは、ここで少しでも調整したほうがよろしいのでは」
紗良が黙る。
数秒の沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「…五分だけです」
「ありがとうございます」
何で通るんだよ。
朔也が目を白黒させているうちに、香澄はカウンター脇の椅子を引いた。
「どうぞ」
「いや、でも…」
「座ってください」
有無を言わせない口調だった。
こういうタイプ、前の世界でも苦手だった。
強くて綺麗で、自分みたいなのを視界にも入れなさそうな女。
なのに今は、その女が真正面から朔也だけを見ている。
逃げたくて仕方ないのに、逃げるのも変に思えて、結局座るしかなかった。
香澄が目の前に屈む。
近い。
化粧品の甘い香りがした。
花よりもっと人工的で、でも上等な匂い。
百貨店の一階に満ちている空気を、そのまま一人の女にしたみたいな匂いだ。
「肌に触れます」
「え」
そう告げてから、彼女は指先を朔也の頬へ当てた。
「っ…」
また肩が跳ねる。
頬。直に。薄いパフ越しではなく、先に指で質感を確かめるみたいに、そっと。
女の爪は短く整えられていて、皮膚を傷つけない。
でも、なぞるような手つきのせいで余計に意識してしまう。
「少し乾燥していますね」
「そ、そうですか…」
「でも悪くない」
後半は、独り言みたいに低かった。
朔也は聞き間違いかと思った。
「何がです」
「いえ」
香澄はすぐに言葉を切り、今度は親指で顎先を持ち上げた。
「目を少し上げてください」
「…はい」
されるがままに顔を上げる。
近い。近すぎる。香澄の睫毛の影まで見える。目元は強いのに、視線は妙に熱っぽい。
観察されているのか、味わわれているのか、境目がわからない。
「傷はありませんね」
言いながら、彼女の指が頬骨の下をゆっくり滑る。
その触れ方が、確認というより鑑賞に近い気がして、朔也は息を止めた。
「…あの」
「はい」
「何でそんな…じっくり見るんですか」
「見応えがありますから」
即答だった。
朔也は完全に固まった。
見応え。
俺に?
どういう意味だ、それ。
しかも香澄は、冗談も社交辞令も一切混ぜていない顔をしていた。
「頬の赤みは少し抑えます。ただ」
彼女はふっと目を細める。
「このままでも十分、目立ちますね」
「だから何で…」
もう語尾に力が入らない。
香澄は軽くパウダーをのせる程度で、本当に数分で終わらせた。
けれどその短い時間のあいだ、彼女の視線は一度も朔也から逸れなかった。
仕事だから、では説明しきれない熱があった。
「終わりました」
ようやく離れた時、朔也は自分がどれだけ緊張していたのか初めてわかった。
肩が凝るほど力んでいた。
「…ありがとうございました」
半分反射で礼を言う。
香澄は少しだけ首を傾げた。
「素直なんですね」
「は?」
「もっと拗ねるかと思いました」
「いや、別に…」
拗ねるって何だよ。誰に対して。
香澄は微笑むでもなく、ただ満足したように視線を細めた。
「外、気をつけてください」
その言葉の意味を考える前に、紗良が肩口へ手を添える。
「行きます」
ぐい、と引かれた。
病院を出ると、外の空気はまだ少し冷たかった。
季節の変わり目らしい、乾いた風。病院の中よりずっと息はしやすいのに、別の意味で心臓が苦しい。
「…あの人も何なんですか」
思わず聞くと、紗良は少しだけ視線を寄越した。
「何とは」
「いや全部だよ。何でみんなそんな…」
言葉がうまく見つからない。
近い、でも違う。優しい、でも違う。好意、というには現実感がない。
欲しがっているようにも見える。それが一番、朔也には理解できない。
「…そんな目で見るんですか」
やっと絞り出すと、紗良は数歩だけ沈黙した。
病院前のロータリーには車が何台か停まっている。
道の向こうにはコンビニや小さなドラッグストアが見えた。
歩行者の中にも、こちらを見ている女がいる。いや、自意識過剰かもしれない。
でも、さっきまでのことを思えば、そう切り捨てるにはもう無理があった。
「買い物を済ませます」
紗良は質問に答えず言った。
「仮住居に必要な最低限だけですが」
「…無視かよ」
「答えるより見せたほうが早いでしょう」
それは、正直少し怖かった。
でも同時に、逃げるより確かめたくなっている自分もいた。
ドラッグストアに入る。
自動ドアが開いた瞬間、明るい照明と音楽が押し寄せてきた。
平日の昼間で客はそこまで多くない。なのに、入店した数秒後には数人の女がこちらを見た。
棚の前で商品を比べていた女。飲み物を選んでいた女。レジに並んでいた女。
そのうちの一人が、目を見開いた。
まるで、ありえないものを見つけたみたいに。
やめてくれ。そんな顔するな。期待してしまうだろ。
朔也は視線を落とす。落とした先に、紗良の手が買い物かごを持っているのが見えた。
妙なところだけ生活感がある。
「洗面用品は最低限あります。着替えを少し追加で買いましょうか」
「別にそんな…高いのじゃなくていいです」
「高いものは買いません」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「わかっています」
わかってない気がする。
と、その時。
「…あの」
控えめな声が横からした。
振り向くと、レジ近くにいた若い女が立っていた。
二十代前半くらい。ふわっと巻いた茶髪に、肩の見えるニット。顔立ちは柔らかいのに、目だけが熱っぽく揺れている。
「な、何ですか」
朔也の声が一瞬で上ずる。
女は一歩だけ近づいた。
「その…もし、困ってるなら、探すの手伝います…よ」
「いえ、別に…」
「本当に?」
距離が近い。
さっきまですれ違いざまの視線だったのに、今は完全に朔也へ向いている。
しかも、気のせいじゃなければ顔が少し赤い。
「早乙女乃愛です。ここ、よく来るんで…」
名乗った。
名乗る必要あった?
いや、普通はないだろ。何だこれ。夢か?
朔也が返答に詰まっていると、乃愛は躊躇いがちに手を伸ばした。
何をするのかと思えば、朔也の袖口をちょんと摘まむ。
「…っ」
小さな接触。
それだけで、体温が跳ねた。
乃愛の指先は細くて柔らかい。服越しなのに、そこだけ変に意識してしまう。
「すみません、急に」
口では謝っているのに、手はすぐに離れなかった。
「なんか…放っておけなくて」
その言葉に、朔也はほとんど息を止めた。
放っておけない。
そんなこと、一度も言われたことがない。
いや、あるにはある。親とか教師とか、そういう意味なら。
でも、今この女が言っているのはたぶん、それとは違う。もっと個人的で、もっと熱を持った意味だ。
「必要ありません」
紗良の声が横から落ちる。
乃愛の肩がびくりと揺れた。そこでようやく、彼女は袖を離す。
「…ですよね。すみません」
言いつつも、視線はまだ朔也から離れない。
紗良が一歩前に出る。庇うというより、遮るような立ち位置だった。
「彼はいま、私に同行しています」
「彼」
乃愛がその単語を反芻するように小さく呟く。
それだけで、なぜか朔也の顔が熱くなる。
「…あ、はい。すみません…」
乃愛はそれ以上は踏み込まなかった。でも、離れる前にもう一度だけ朔也を見た。
その目が、泣きそうなほど名残惜しそうで、朔也は本気で頭がおかしくなりそうだった。
何なんだよ、本当に。
何でそんな目で見るんだ。
「行きますよ」
紗良の手が、今度は背ではなく腕へ触れた。
肘の少し上を取られる。引くためというより、そこにあることを確認するみたいな掴み方。
「…わかったから、そんな掴まなくても」
「わかっていないからです」
「何が」
「あなたが立ち止まるたび、周囲の視線も止まります」
低い声のまま言われて、朔也は言葉を失った。
冗談じゃないらしい。
ドラッグストアを出て、次は小さなカフェに立ち寄ることになった。
仮住居に着く前に軽食を取る必要があるらしい。
正直、そんな余裕はなかったが、紗良に「顔色がさらに悪くなる前に」と半ば命令のように言われた。
店内は明るく、木目調で、どこにでもあるチェーン系のカフェだった。
席へ案内したのは、栗色のボブを揺らした店員だった。白いブラウスに黒のエプロン。
笑うとえくぼができそうな顔立ちで、朔也の感覚ではやっぱりかなり可愛い。
「こちらのお席へどうぞ」
そう言ってトレーを置く時、彼女の指先が朔也の手の甲にかすった。
「っ…」
反応したのは、たぶん朔也だけじゃなかった。
店員…名札には**倉橋美優**とある…は、触れた瞬間に息を止めたみたいに動きを止めた。
それからごく自然を装いながら、もう一度だけ朔也の手元を見た。
「ご注文がお決まりでしたら…」
声が少し甘い。
いや、気のせいじゃない。絶対さっきの乃愛と同じ種類の熱だ。
朔也はメニューを見ているふりをしながら、逃げるように視線を落とした。
「…コーヒー、で」
「食事も一緒に」
紗良がかぶせる。
「サンドイッチのセットを二つ」
「勝手に決めるなよ」
「あなたに任せると飲み物だけで済ませるでしょう」
「…済ませるけど」
「それは、却下です」
美優は二人のやり取りを聞きながら、なぜか少しだけ口元を緩めた。
その笑みが親しげで、朔也の心臓はまた変な跳ね方をした。
「かしこまりました」
注文を復唱し、彼女は離れていく。
離れる直前、ほんの一瞬だけ、視線が朔也の口元へ落ちた。
その短さが、妙に生々しかった。
「…もう嫌だ」
朔也はテーブルに肘をつきたくなるのを堪えながら呟く。
「何がです」
「全部だよ…何でみんなそうなんだよ」
「だから言っているでしょう」
紗良は水を一口飲んだ。
「あなたが思っている以上に、あなたは人目を引きます」
「意味わかんない」
「わからなくても、現実はそうです」
「そんなこと言われても…」
テーブルの木目を睨む。
自分が目を引く。女が寄ってくる。触れたがる。そんな現実、前の人生に一ミリもなかった。
だから頭が理解を拒否する。けれど身体のほうは、正直すぎるくらい反応している。
さっき袖を摘ままれた感覚。
手の甲に触れた指先。
頬や首筋に残っている、女の手の温度の記憶。
全部がまだ皮膚の上にいるみたいで、落ち着かなかった。
「…からかってるんじゃないのか」
自分でも驚くほど小さい声が出た。
紗良の手が止まる。
「何です」
「だから…こういうの。みんなグルで、面白がってるとか」
「本気でそう思っていますか」
「思うだろ、普通」
顔を上げる。
「だって、俺だぞ」
言ってしまった、と思った。
でも止まらなかった。
「身長もないし、デブだし、顔だって…どう見ても終わってんのに。そんなの、急に外出たら美人に触られて声かけられましたとか、罰ゲームかドッキリだろ。普通に考えて」
言葉にすると、余計みじめだった。
でも事実だ。これが自分だ。前の世界で何度も何度も思い知らされた現実だ。
紗良はしばらく何も言わなかった。
その沈黙に、朔也は勝手に傷つく。ほら見ろ。結局、否定のしようがないから黙るしかないんだろ。
そう思った時。
「その“普通”は、あなたの中だけでは?」
紗良が静かに言った。
「は…?」
「少なくとも、ここでは違います」
その声は、慰めでも励ましでもなかった。ただ事実だけを置く声だった。
「あなたが自分をどう認識してきたかは知りません。でも、この世界でそれを繰り返すのは危険です」
「危険って」
「誤解されるからです」
「何に」
「誘っているように見える」
息が止まった。
「…は?」
「自虐も、卑屈さも、目を伏せる癖も、怯えた顔も…この世界では別の意味を持ちます」
紗良の目は真剣だった。冗談の気配なんてひとかけらもない。
「不用意に見せれば、相手を喜ばせるだけです」
「何を」
「女性を」
その一言が、ぞくりと背中を這った。
朔也は言い返せなかった。
そこへ、美優がトレーを持って戻ってくる。
テーブルにサンドイッチを置き、スープを置き、最後に朔也の前へカップを置く。
その動作のたび、彼女の指先が近くを通る。直接触れてはいない。
なのに、触れられる寸前みたいな距離がいちいち心臓に悪い。
「ごゆっくりどうぞ」
言って離れかけてから、美優はふと足を止めた。
「…あの」
「はい?」
反応したのは朔也だった。
彼女は少しだけ迷うように視線を揺らし、それから小さく笑う。
「また来てください」
たったそれだけの言葉。
でも、普通の接客文句とは思えない熱があった。
また来てほしい。客としてじゃなく、もっと個人的な意味で。
そんなふうに聞こえてしまう声だった。
「…は、はい」
朔也が頷くと、美優の頬が少し赤くなる。
そのまま彼女は去っていった。
紗良は何も言わなかった。ただ、氷みたいな視線で彼女の背中を見送っていた。
「…今のも?」
「はい」
「接客じゃなくて?」
「半分は接客でしょう」
「半分は?」
「私情です」
断言された。
朔也はスープを持つ手に力を込める。震えそうだった。
もう無理だ。本当に意味がわからない。
でも。
でも、頭のどこかがひどく浅ましく喜んでいる。
今の可愛かった、とか、また来てってあれ絶対普通じゃなかった、とか、こんな美人に触られた、とか。そんなことを思っている自分が、信じられないくらい気持ち悪かった。
なのに、その気持ち悪さすら止められない。
「…食べてください」
紗良が言う。
「サンドイッチが冷めます」
「…うるさい」
「元気ですね」
「元気じゃない」
「さっきより顔色はいいです」
「それはむかついてるからだろ」
言い返すと、紗良はほんの少しだけ、口元の力を抜いた。
笑ったわけではない。たぶん。けれど、完全な無表情でもなかった。
それを見た瞬間、また胸の奥がざわつく。
今日は何度目だろう。このざわつき。
怖くて、落ち着かなくて、少しだけ嬉しい。
そんな感情、本来なら一生自分には無縁だと思っていた。
食事を終え、店を出る頃には、外は少し傾き始めていた。
病院からの移動だけで、もう十分すぎるほど疲れている。肉体より神経が消耗していた。
何を見ても、誰に見られても、いちいち心臓が反応する。
以前は、味わったことのない種類の緊張だ。
車へ向かう途中、歩道の一角に小さな花屋が見えた。
バケツに差した季節の花が店先を明るくしている。そこに立っていた女が、ふと顔を上げた。
赤茶の髪。作業用のエプロン。健康的で、生き物みたいな明るさを持った美人だった。
彼女は朔也を見た瞬間、動きを止めた。
手にしていたハサミが、かすかに空中で止まる。
「…わ」
小さな声。
その顔が、みるみるうちに熱を帯びる。
まただ。
花屋の女は、何かに引かれるみたいに店先から出てきた。
「すみません」
紗良の制止より一瞬早く、彼女は一輪の花を抜き取った。
淡い色の、小さな花束にもなっていない一本だけの花。
「これ」
差し出される。
「え?」
「似合うから」
似合う。
その単語に、朔也の脳は完全に処理を放棄した。
「は?」
「ごめん、変なこと言った」
女…名札に**花房環奈**とある…は笑った。太陽みたいな笑顔なのに、目だけがひどく真剣だった。
「でも、本当に。こんな顔して歩いてたら、花のほうが脇役になっちゃう」
何言ってんだこの人。
何言ってんだ、本当に。
朔也は花を受け取ることもできず固まった。
そんな朔也を見て、環奈は少しだけ困ったように首を傾げる。
それからごく自然に、手を伸ばしてきた。
何をされるのかと思った次の瞬間、彼女の指先が朔也の前髪に触れた。
「…っ!」
びくりと顔が上がる。
「ちょ、何…」
「ごめん。ちょっと乱れてたから」
そう言う声があまりにも自然で、余計にたちが悪い。
前髪を整えるだけ。ほんの一瞬。
なのに、額のすぐ近くに触れられたせいで、頭の奥がじわっと痺れる。
環奈はその反応を見て、目を丸くした。
「…え、かわい…」
「行きますよ」
今度は紗良がはっきり腕を引いた。
花はいつの間にか朔也の手に押しつけられている。
環奈は「あ」と言いかけたが、追ってはこなかった。
ただ、その目は最後まで名残惜しそうに揺れていた。
車に乗り込んでからも、朔也はしばらくまともに息ができなかった。
手の中には、小さな花が一本。
馬鹿みたいだと思う。
でも捨てられなかった。
「…何なんだよ、本当に」
呟く声は、我ながら情けなかった。
紗良が運転席でシートベルトを締める。
「少しは理解しましたか」
「したくない」
「質問の答えにはなっていません」
「理解したら余計怖いだろ、こんなの」
花を見下ろす。
可愛い、なんて言われた。前髪を触られた。似合うと言われた。
そんなの、俺の人生のどこにも存在しなかったイベントだ。
「…気持ち悪くないんですか」
ぽつりと漏れた。
紗良が動きを止める。
「何がです」
「俺が。こういうのされるの」
自分でも何を言っているのかわからない。
聞く相手を間違えているのもわかる。わかるのに、聞かずにいられなかった。
紗良はすぐには答えなかった。
やがて、シートベルトを締め終えたまま前を向き、低く言う。
「…その認識を矯正するのは、思っていたより時間がかかりそうですね」
「だから答えになってないって」
「気持ち悪いと思っている人間が、あんな目をしますか」
「…」
「少なくとも今日あなたに接触した人間は、誰一人そう思っていません」
淡々とした声だった。
でも、その中にわずかな硬さがあった。怒りに似た何か。
朔也の自虐に対してだけ、紗良は時々そういう硬さを見せる。
それがまた意味不明で、落ち着かない。
「…じゃあ何なんだよ」
「言ったでしょう」
エンジンがかかる。
「喜ばせているんです」
そのまま車は静かに走り出した。
窓の外に街が流れていく。
どこにでもあるはずの景色なのに、今日一日で世界の色が少し変わった気がした。
目立つ。見られる。触れられる。欲しがられる。
そんな言葉が、自分の人生に入ってくるなんて思わなかった。
ありえない。
ありえないのに、頬に、首筋に、袖口に、手の甲に、今日触れられた感触だけが妙に鮮明に残っている。
そしてその記憶は、恐怖だけじゃなく、もっと別の熱を呼び起こし始めていた。
朔也は窓に額を寄せる。
冷たいガラスが少し気持ちいい。
でも、内側の熱はそれじゃ消えなかった。
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