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醜男だった俺が、男女比1:500の世界で王と呼ばれるまで  作者: きなこもち
第1章 『1:500の世界で、俺は初めて欲しがられた』

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3/31

「街に出れば、もっとおかしい」

 


 午前の簡易検査が終わったあと、朔也は結局、午後には病院を出ることになった。


 もちろん退院というわけではない。

 二階堂綾の説明によれば、命に別状はなく、経過観察さえできれば入院を続けるほどではないらしい。ただし「一般病棟にいるほうが問題が起きやすいから」と、妙に歯切れの悪い言い方をされた。


 問題、という言葉が何を意味しているのか、まだ朔也にはよくわからない。


 ただ、午前中にも一度、病室の前が騒がしくなった。

 若い女の声がいくつか重なり、看護師が強い口調で制止しているのが聞こえた。

 誰かが「ほんの少し見るだけ」と言っていた。

 別の誰かが「本物なんでしょ」と、ひどく興奮した声で囁いていた。


 あれが全部、自分に向けられたものだと言われても、やっぱり現実感はない。


 ないはずなのに、胸の奥がずっとざわついている。


「立てますか」


 病室の前で、紗良が短く言った。


 もう白衣姿ではない。

 いつものスーツに薄いトレンチを羽織っている。

 その格好のまま病院の廊下に立つと、医療関係者というより捜査官みたいだった。


「…一応」


 ベッドから足を下ろし、ゆっくり立ち上がる。

 まだ少し頭が重いが、歩けないほどではない。

 肩と腰に鈍痛はある。

 けれど、それ以上に落ち着かないのは病院着のままだということだった。


「着替えはこちらです」


 紗良が差し出したのは、見覚えのない紙袋だった。


「え」


「最低限の衣類を手配しました」


「手配って…」


「あなたの元の衣類は事故の際に損傷しています」


 まあ、そうだろう。トラックに撥ねられて無事な服のほうがおかしい。


 紙袋を受け取る。中には、シンプルなパーカーとパンツ、肌着まで一式入っていた。サイズも合っているように見える。


「…何でサイズわかったんですか」


「見れば大体は」


「見てわかるもんなんだ…」


「特殊な話ではありません」


 いや、特殊だろ、と言いかけてやめた。どうせこの女に言っても通じない。


 紗良は着替えのために一度背を向けた。カーテンも引かれ、さすがに覗かれることはないらしい。

 そこにだけ、わずかな安堵を覚える。


 朔也は急いで病院着を脱いだ。


 鏡のない場所で自分の体を見るのは、少しだけ楽だった。

 見たくない輪郭も、直視しなければぼやける。

 丸い腹。厚みのある胸。短い首。締まりのない胴回り。前は、これが笑いの種だった。

 体育の着替えのたび、プールのたび、温泉のたび、誰かの視線を先回りして勝手に傷つくのが癖になっていた。


 その身体に、いまは新品の服を通す。


 不思議なくらい着心地がいい。大きすぎず、小さすぎず、ちゃんと今の体に合っている。

 それだけのことなのに、少しだけ戸惑った。


「終わりました」


 言うと、紗良が振り返る。


 その瞬間、彼女の視線が一度だけ朔也の全身をなぞった。


 ごく短い視線だった。

 けれど、服が合っているかを確認する以上の熱が、確かに混じっていた気がする。


「問題ありません」


「…何が」


「サイズです」


「そうじゃなくて」


「行きますよ」


 かわされた。


 わざとか、と睨んでも、紗良は眉一つ動かさない。


 病室を出ると、途端に空気が変わった。


 午前中より人は少ないはずなのに、それでもすれ違う女たちの目が止まる。

 看護師。受付。見舞い客らしい女性。

 誰も彼もが、ほんの一瞬、朔也を見る。そして二度見する。中には足を止めかける者もいた。


 何なんだ、本当に。


 やめてほしい。心臓がもたない。


「近くにいてください」


 紗良が低く言う。


「離れないで」


「…離れるほど元気はないです」


「ならいいです」


 返しながら、彼女はごく自然に朔也の背へ手を添えた。


「っ」


 背中の中央、肩甲骨の下あたり。パーカー越しでもわかる熱だった。


「な、何」


「歩線を調整しています」


「歩線って何だよ」


「人の流れです」


「いちいち言い方が固いんだよ…」


 ぶつぶつ言いながらも、朔也は背に触れる手の存在が気になって仕方なかった。

 守られているような、誘導されているような、どちらともつかない感覚。

 前はこんなふうに女に触れられた記憶なんて、本当にひとつもない。


 エレベーターで一階へ降りる。


 外来フロアの空気は病棟よりずっとざわざわしていた。

 人が多い。声が多い。光も多い。その中で、自分に向く視線まで多いのは、さすがに悪夢じみている。


 出入口へ向かう途中、すれ違った若い女が明らかに足を止めた。


 長い髪をゆるく巻いた、よくいる量産型っぽい服の女だ。

 けれど朔也の感覚では、普通にかなり可愛い。

 いや、可愛いどころか、学生時代なら教室の中心にいる側だろう。


 その女が、朔也を見て、ぽかんと口を開けた。


「…え」


 小さな声。


 友達らしいもう一人の女も振り返る。


「うそ…」


 その反応は、露骨すぎるほど露骨だった。


 朔也は思わず足を速める。無理だ。耐えられない。

 からかわれてるのか、本気なのかもわからないまま視線だけ浴びるの、心臓に悪すぎる。


 その時、入り口近くの案内カウンターから一人の女が立ち上がった。


「失礼します」


 通る声だった。


 黒いジャケットに、綺麗に塗られた赤い唇。目元の強さが印象に残る女。

 病院職員には見えないが、化粧品売り場にいそうな、隙のない美人だった。


「移動の前に、こちらで少しだけ確認を…」


「必要ありません」


 紗良が先に返す。


 女は涼しい顔のまま、朔也へ視線を向けた。


瀬戸香澄(せとかすみ)です。病院内の提携カウンセリングと身だしなみサポートを担当しています」


「は…?」


「顔色が悪いので、軽く整えるだけでも印象が和らぎます」


 印象。和らぐ。


 その言葉に、朔也は反射的に身構えた。


 ああ、やっぱりそういう話か。

 事故で顔色が悪くて、ただでさえ終わってる顔面がさらに悲惨だから、最低限見られるように整えましょうって話だろ。

 だったらまだ理解できる。


「いや、別に俺、そういうのは…」


「五分で終わります」


 香澄はにこりともせず言った。


 その表情のなさが、逆に妙な圧を持っていた。


「霧島さん、移送先で混乱を招くよりは、ここで少しでも調整したほうがよろしいのでは」


 紗良が黙る。


 数秒の沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。


「…五分だけです」


「ありがとうございます」


 何で通るんだよ。


 朔也が目を白黒させているうちに、香澄はカウンター脇の椅子を引いた。


「どうぞ」


「いや、でも…」


「座ってください」


 有無を言わせない口調だった。


 こういうタイプ、前の世界でも苦手だった。

 強くて綺麗で、自分みたいなのを視界にも入れなさそうな女。

 なのに今は、その女が真正面から朔也だけを見ている。


 逃げたくて仕方ないのに、逃げるのも変に思えて、結局座るしかなかった。


 香澄が目の前に屈む。


 近い。


 化粧品の甘い香りがした。

 花よりもっと人工的で、でも上等な匂い。

 百貨店の一階に満ちている空気を、そのまま一人の女にしたみたいな匂いだ。


「肌に触れます」


「え」


 そう告げてから、彼女は指先を朔也の頬へ当てた。


「っ…」


 また肩が跳ねる。


 頬。直に。薄いパフ越しではなく、先に指で質感を確かめるみたいに、そっと。

 女の爪は短く整えられていて、皮膚を傷つけない。

 でも、なぞるような手つきのせいで余計に意識してしまう。


「少し乾燥していますね」


「そ、そうですか…」


「でも悪くない」


 後半は、独り言みたいに低かった。


 朔也は聞き間違いかと思った。


「何がです」


「いえ」


 香澄はすぐに言葉を切り、今度は親指で顎先を持ち上げた。


「目を少し上げてください」


「…はい」


 されるがままに顔を上げる。


 近い。近すぎる。香澄の睫毛の影まで見える。目元は強いのに、視線は妙に熱っぽい。

 観察されているのか、味わわれているのか、境目がわからない。


「傷はありませんね」


 言いながら、彼女の指が頬骨の下をゆっくり滑る。


 その触れ方が、確認というより鑑賞に近い気がして、朔也は息を止めた。


「…あの」


「はい」


「何でそんな…じっくり見るんですか」


「見応えがありますから」


 即答だった。


 朔也は完全に固まった。


 見応え。


 俺に?


 どういう意味だ、それ。


 しかも香澄は、冗談も社交辞令も一切混ぜていない顔をしていた。


「頬の赤みは少し抑えます。ただ」


 彼女はふっと目を細める。


「このままでも十分、目立ちますね」


「だから何で…」


 もう語尾に力が入らない。


 香澄は軽くパウダーをのせる程度で、本当に数分で終わらせた。

 けれどその短い時間のあいだ、彼女の視線は一度も朔也から逸れなかった。

 仕事だから、では説明しきれない熱があった。


「終わりました」


 ようやく離れた時、朔也は自分がどれだけ緊張していたのか初めてわかった。

 肩が凝るほど力んでいた。


「…ありがとうございました」


 半分反射で礼を言う。


 香澄は少しだけ首を傾げた。


「素直なんですね」


「は?」


「もっと拗ねるかと思いました」


「いや、別に…」


 拗ねるって何だよ。誰に対して。


 香澄は微笑むでもなく、ただ満足したように視線を細めた。


「外、気をつけてください」


 その言葉の意味を考える前に、紗良が肩口へ手を添える。


「行きます」


 ぐい、と引かれた。


 病院を出ると、外の空気はまだ少し冷たかった。

 季節の変わり目らしい、乾いた風。病院の中よりずっと息はしやすいのに、別の意味で心臓が苦しい。


「…あの人も何なんですか」


 思わず聞くと、紗良は少しだけ視線を寄越した。


「何とは」


「いや全部だよ。何でみんなそんな…」


 言葉がうまく見つからない。


 近い、でも違う。優しい、でも違う。好意、というには現実感がない。

 欲しがっているようにも見える。それが一番、朔也には理解できない。


「…そんな目で見るんですか」


 やっと絞り出すと、紗良は数歩だけ沈黙した。


 病院前のロータリーには車が何台か停まっている。

 道の向こうにはコンビニや小さなドラッグストアが見えた。

 歩行者の中にも、こちらを見ている女がいる。いや、自意識過剰かもしれない。

 でも、さっきまでのことを思えば、そう切り捨てるにはもう無理があった。


「買い物を済ませます」


 紗良は質問に答えず言った。


「仮住居に必要な最低限だけですが」


「…無視かよ」


「答えるより見せたほうが早いでしょう」


 それは、正直少し怖かった。


 でも同時に、逃げるより確かめたくなっている自分もいた。


 ドラッグストアに入る。


 自動ドアが開いた瞬間、明るい照明と音楽が押し寄せてきた。

 平日の昼間で客はそこまで多くない。なのに、入店した数秒後には数人の女がこちらを見た。

 棚の前で商品を比べていた女。飲み物を選んでいた女。レジに並んでいた女。


 そのうちの一人が、目を見開いた。


 まるで、ありえないものを見つけたみたいに。


 やめてくれ。そんな顔するな。期待してしまうだろ。


 朔也は視線を落とす。落とした先に、紗良の手が買い物かごを持っているのが見えた。

 妙なところだけ生活感がある。


「洗面用品は最低限あります。着替えを少し追加で買いましょうか」


「別にそんな…高いのじゃなくていいです」


「高いものは買いません」


「いや、そういう意味じゃなくて」


「わかっています」


 わかってない気がする。


 と、その時。


「…あの」


 控えめな声が横からした。


 振り向くと、レジ近くにいた若い女が立っていた。

 二十代前半くらい。ふわっと巻いた茶髪に、肩の見えるニット。顔立ちは柔らかいのに、目だけが熱っぽく揺れている。


「な、何ですか」


 朔也の声が一瞬で上ずる。


 女は一歩だけ近づいた。


「その…もし、困ってるなら、探すの手伝います…よ」


「いえ、別に…」


「本当に?」


 距離が近い。


 さっきまですれ違いざまの視線だったのに、今は完全に朔也へ向いている。

 しかも、気のせいじゃなければ顔が少し赤い。


早乙女乃愛(さおとめのあ)です。ここ、よく来るんで…」


 名乗った。


 名乗る必要あった?


 いや、普通はないだろ。何だこれ。夢か?


 朔也が返答に詰まっていると、乃愛は躊躇いがちに手を伸ばした。

 何をするのかと思えば、朔也の袖口をちょんと摘まむ。


「…っ」


 小さな接触。


 それだけで、体温が跳ねた。


 乃愛の指先は細くて柔らかい。服越しなのに、そこだけ変に意識してしまう。


「すみません、急に」


 口では謝っているのに、手はすぐに離れなかった。


「なんか…放っておけなくて」


 その言葉に、朔也はほとんど息を止めた。


 放っておけない。


 そんなこと、一度も言われたことがない。


 いや、あるにはある。親とか教師とか、そういう意味なら。

 でも、今この女が言っているのはたぶん、それとは違う。もっと個人的で、もっと熱を持った意味だ。


「必要ありません」


 紗良の声が横から落ちる。


 乃愛の肩がびくりと揺れた。そこでようやく、彼女は袖を離す。


「…ですよね。すみません」


 言いつつも、視線はまだ朔也から離れない。


 紗良が一歩前に出る。庇うというより、遮るような立ち位置だった。


「彼はいま、私に同行しています」


「彼」


 乃愛がその単語を反芻するように小さく呟く。


 それだけで、なぜか朔也の顔が熱くなる。


「…あ、はい。すみません…」


 乃愛はそれ以上は踏み込まなかった。でも、離れる前にもう一度だけ朔也を見た。

 その目が、泣きそうなほど名残惜しそうで、朔也は本気で頭がおかしくなりそうだった。


 何なんだよ、本当に。


 何でそんな目で見るんだ。


「行きますよ」


 紗良の手が、今度は背ではなく腕へ触れた。


 肘の少し上を取られる。引くためというより、そこにあることを確認するみたいな掴み方。


「…わかったから、そんな掴まなくても」


「わかっていないからです」


「何が」


「あなたが立ち止まるたび、周囲の視線も止まります」


 低い声のまま言われて、朔也は言葉を失った。


 冗談じゃないらしい。


 ドラッグストアを出て、次は小さなカフェに立ち寄ることになった。

 仮住居に着く前に軽食を取る必要があるらしい。

 正直、そんな余裕はなかったが、紗良に「顔色がさらに悪くなる前に」と半ば命令のように言われた。


 店内は明るく、木目調で、どこにでもあるチェーン系のカフェだった。


 席へ案内したのは、栗色のボブを揺らした店員だった。白いブラウスに黒のエプロン。

 笑うとえくぼができそうな顔立ちで、朔也の感覚ではやっぱりかなり可愛い。


「こちらのお席へどうぞ」


 そう言ってトレーを置く時、彼女の指先が朔也の手の甲にかすった。


「っ…」


 反応したのは、たぶん朔也だけじゃなかった。


 店員…名札には**倉橋美優(くらはしみゆ)**とある…は、触れた瞬間に息を止めたみたいに動きを止めた。

 それからごく自然を装いながら、もう一度だけ朔也の手元を見た。


「ご注文がお決まりでしたら…」


 声が少し甘い。


 いや、気のせいじゃない。絶対さっきの乃愛と同じ種類の熱だ。


 朔也はメニューを見ているふりをしながら、逃げるように視線を落とした。


「…コーヒー、で」


「食事も一緒に」


 紗良がかぶせる。


「サンドイッチのセットを二つ」


「勝手に決めるなよ」


「あなたに任せると飲み物だけで済ませるでしょう」


「…済ませるけど」


「それは、却下です」


 美優は二人のやり取りを聞きながら、なぜか少しだけ口元を緩めた。

 その笑みが親しげで、朔也の心臓はまた変な跳ね方をした。


「かしこまりました」


 注文を復唱し、彼女は離れていく。


 離れる直前、ほんの一瞬だけ、視線が朔也の口元へ落ちた。


 その短さが、妙に生々しかった。


「…もう嫌だ」


 朔也はテーブルに肘をつきたくなるのを堪えながら呟く。


「何がです」


「全部だよ…何でみんなそうなんだよ」


「だから言っているでしょう」


 紗良は水を一口飲んだ。


「あなたが思っている以上に、あなたは人目を引きます」


「意味わかんない」


「わからなくても、現実はそうです」


「そんなこと言われても…」


 テーブルの木目を睨む。


 自分が目を引く。女が寄ってくる。触れたがる。そんな現実、前の人生に一ミリもなかった。

 だから頭が理解を拒否する。けれど身体のほうは、正直すぎるくらい反応している。


 さっき袖を摘ままれた感覚。


 手の甲に触れた指先。


 頬や首筋に残っている、女の手の温度の記憶。


 全部がまだ皮膚の上にいるみたいで、落ち着かなかった。


「…からかってるんじゃないのか」


 自分でも驚くほど小さい声が出た。


 紗良の手が止まる。


「何です」


「だから…こういうの。みんなグルで、面白がってるとか」


「本気でそう思っていますか」


「思うだろ、普通」


 顔を上げる。


「だって、俺だぞ」


 言ってしまった、と思った。


 でも止まらなかった。


「身長もないし、デブだし、顔だって…どう見ても終わってんのに。そんなの、急に外出たら美人に触られて声かけられましたとか、罰ゲームかドッキリだろ。普通に考えて」


 言葉にすると、余計みじめだった。


 でも事実だ。これが自分だ。前の世界で何度も何度も思い知らされた現実だ。


 紗良はしばらく何も言わなかった。


 その沈黙に、朔也は勝手に傷つく。ほら見ろ。結局、否定のしようがないから黙るしかないんだろ。


 そう思った時。


「その“普通”は、あなたの中だけでは?」


 紗良が静かに言った。


「は…?」


「少なくとも、ここでは違います」


 その声は、慰めでも励ましでもなかった。ただ事実だけを置く声だった。


「あなたが自分をどう認識してきたかは知りません。でも、この世界でそれを繰り返すのは危険です」


「危険って」


「誤解されるからです」


「何に」


「誘っているように見える」


 息が止まった。


「…は?」


「自虐も、卑屈さも、目を伏せる癖も、怯えた顔も…この世界では別の意味を持ちます」


 紗良の目は真剣だった。冗談の気配なんてひとかけらもない。


「不用意に見せれば、相手を喜ばせるだけです」


「何を」


「女性を」


 その一言が、ぞくりと背中を這った。


 朔也は言い返せなかった。


 そこへ、美優がトレーを持って戻ってくる。


 テーブルにサンドイッチを置き、スープを置き、最後に朔也の前へカップを置く。

 その動作のたび、彼女の指先が近くを通る。直接触れてはいない。

 なのに、触れられる寸前みたいな距離がいちいち心臓に悪い。


「ごゆっくりどうぞ」


 言って離れかけてから、美優はふと足を止めた。


「…あの」


「はい?」


 反応したのは朔也だった。


 彼女は少しだけ迷うように視線を揺らし、それから小さく笑う。


「また来てください」


 たったそれだけの言葉。


 でも、普通の接客文句とは思えない熱があった。


 また来てほしい。客としてじゃなく、もっと個人的な意味で。


 そんなふうに聞こえてしまう声だった。


「…は、はい」


 朔也が頷くと、美優の頬が少し赤くなる。


 そのまま彼女は去っていった。


 紗良は何も言わなかった。ただ、氷みたいな視線で彼女の背中を見送っていた。


「…今のも?」


「はい」


「接客じゃなくて?」


「半分は接客でしょう」


「半分は?」


「私情です」


 断言された。


 朔也はスープを持つ手に力を込める。震えそうだった。


 もう無理だ。本当に意味がわからない。


 でも。


 でも、頭のどこかがひどく浅ましく喜んでいる。


 今の可愛かった、とか、また来てってあれ絶対普通じゃなかった、とか、こんな美人に触られた、とか。そんなことを思っている自分が、信じられないくらい気持ち悪かった。


 なのに、その気持ち悪さすら止められない。


「…食べてください」


 紗良が言う。


「サンドイッチが冷めます」


「…うるさい」


「元気ですね」


「元気じゃない」


「さっきより顔色はいいです」


「それはむかついてるからだろ」


 言い返すと、紗良はほんの少しだけ、口元の力を抜いた。


 笑ったわけではない。たぶん。けれど、完全な無表情でもなかった。


 それを見た瞬間、また胸の奥がざわつく。


 今日は何度目だろう。このざわつき。


 怖くて、落ち着かなくて、少しだけ嬉しい。


 そんな感情、本来なら一生自分には無縁だと思っていた。


 食事を終え、店を出る頃には、外は少し傾き始めていた。


 病院からの移動だけで、もう十分すぎるほど疲れている。肉体より神経が消耗していた。

 何を見ても、誰に見られても、いちいち心臓が反応する。

 以前は、味わったことのない種類の緊張だ。


 車へ向かう途中、歩道の一角に小さな花屋が見えた。


 バケツに差した季節の花が店先を明るくしている。そこに立っていた女が、ふと顔を上げた。


 赤茶の髪。作業用のエプロン。健康的で、生き物みたいな明るさを持った美人だった。


 彼女は朔也を見た瞬間、動きを止めた。


 手にしていたハサミが、かすかに空中で止まる。


「…わ」


 小さな声。


 その顔が、みるみるうちに熱を帯びる。


 まただ。


 花屋の女は、何かに引かれるみたいに店先から出てきた。


「すみません」


 紗良の制止より一瞬早く、彼女は一輪の花を抜き取った。


 淡い色の、小さな花束にもなっていない一本だけの花。


「これ」


 差し出される。


「え?」


「似合うから」


 似合う。


 その単語に、朔也の脳は完全に処理を放棄した。


「は?」


「ごめん、変なこと言った」


 女…名札に**花房環奈(はなぶさかんな)**とある…は笑った。太陽みたいな笑顔なのに、目だけがひどく真剣だった。


「でも、本当に。こんな顔して歩いてたら、花のほうが脇役になっちゃう」


 何言ってんだこの人。


 何言ってんだ、本当に。


 朔也は花を受け取ることもできず固まった。

 そんな朔也を見て、環奈は少しだけ困ったように首を傾げる。

 それからごく自然に、手を伸ばしてきた。


 何をされるのかと思った次の瞬間、彼女の指先が朔也の前髪に触れた。


「…っ!」


 びくりと顔が上がる。


「ちょ、何…」


「ごめん。ちょっと乱れてたから」


 そう言う声があまりにも自然で、余計にたちが悪い。


 前髪を整えるだけ。ほんの一瞬。

 なのに、額のすぐ近くに触れられたせいで、頭の奥がじわっと痺れる。


 環奈はその反応を見て、目を丸くした。


「…え、かわい…」


「行きますよ」


 今度は紗良がはっきり腕を引いた。


 花はいつの間にか朔也の手に押しつけられている。

 環奈は「あ」と言いかけたが、追ってはこなかった。

 ただ、その目は最後まで名残惜しそうに揺れていた。


 車に乗り込んでからも、朔也はしばらくまともに息ができなかった。


 手の中には、小さな花が一本。


 馬鹿みたいだと思う。


 でも捨てられなかった。


「…何なんだよ、本当に」


 呟く声は、我ながら情けなかった。


 紗良が運転席でシートベルトを締める。


「少しは理解しましたか」


「したくない」


「質問の答えにはなっていません」


「理解したら余計怖いだろ、こんなの」


 花を見下ろす。


 可愛い、なんて言われた。前髪を触られた。似合うと言われた。


 そんなの、俺の人生のどこにも存在しなかったイベントだ。


「…気持ち悪くないんですか」


 ぽつりと漏れた。


 紗良が動きを止める。


「何がです」


「俺が。こういうのされるの」


 自分でも何を言っているのかわからない。

 聞く相手を間違えているのもわかる。わかるのに、聞かずにいられなかった。


 紗良はすぐには答えなかった。


 やがて、シートベルトを締め終えたまま前を向き、低く言う。


「…その認識を矯正するのは、思っていたより時間がかかりそうですね」


「だから答えになってないって」


「気持ち悪いと思っている人間が、あんな目をしますか」


「…」


「少なくとも今日あなたに接触した人間は、誰一人そう思っていません」


 淡々とした声だった。


 でも、その中にわずかな硬さがあった。怒りに似た何か。

 朔也の自虐に対してだけ、紗良は時々そういう硬さを見せる。


 それがまた意味不明で、落ち着かない。


「…じゃあ何なんだよ」


「言ったでしょう」


 エンジンがかかる。


「喜ばせているんです」


 そのまま車は静かに走り出した。


 窓の外に街が流れていく。

 どこにでもあるはずの景色なのに、今日一日で世界の色が少し変わった気がした。


 目立つ。見られる。触れられる。欲しがられる。


 そんな言葉が、自分の人生に入ってくるなんて思わなかった。


 ありえない。

 ありえないのに、頬に、首筋に、袖口に、手の甲に、今日触れられた感触だけが妙に鮮明に残っている。


 そしてその記憶は、恐怖だけじゃなく、もっと別の熱を呼び起こし始めていた。


 朔也は窓に額を寄せる。


 冷たいガラスが少し気持ちいい。


 でも、内側の熱はそれじゃ消えなかった。




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