「気持ち悪がられない」
結局、その日はほとんど眠れなかった。
体のあちこちが痛いのもある。
頭の奥がじんじんするのもある。
けれど一番の理由は、どう考えても廊下のざわめきだった。
人気アイドルでも運び込まれたみたいな騒ぎ方。
しかも、その中心にいるのが自分だなんて、どうしても思えない。
朔也は朝方まで何度も寝返りを打ち、そのたびに薄い病院着の裾を握りしめた。
眠れない夜に、自分の体温だけがやけに濃く感じられる。
皮膚の内側で何かがじっとり熱を持っていて、じっとしているほど落ち着かなかった。
目が覚めたのは、まだ朝日が白く薄い時間だった。
カーテンの隙間から差し込む光は弱い。
けれど、部屋はすでに起きている空気を持っていた。
廊下を行き交う足音、ワゴンの車輪が鳴る音、遠くのナースコール。
病院独特の、静かなのに眠れない朝だ。
朔也は天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。
昨日のことが夢だったらどれだけ楽かと思う。
けれど頬に残る気配や、紗良の無駄に張りつめた目つきや、女医の指先の温度は、嫌なくらい現実だった。
「…はあ」
ため息を吐くと、喉が少し痛んだ。
そのタイミングを見計らったみたいに、病室のドアがノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは、昨日の女医だった。
白衣の裾を揺らし、カルテを片手にベッドへ近づいてくる。
昨日より髪はきっちりまとめられていて、そのぶん首筋の線がやけに目についた。
美人って、首まで綺麗なの反則だろ。
いや、何考えてんだ俺。
朔也は慌てて視線をそらす。
「おはようございます。具合はどうですか」
「…まあ、そこそこです」
「頭痛は」
「あります」
「吐き気は」
「ちょっと」
「視界のちらつき、耳鳴り、しびれはありますか?」
「…ないです」
女医はうなずき、ベッド脇の椅子を引いた。
至って事務的な問診だ。
なのに、ひとつひとつのやり取りが妙に近い。
声も、視線も、座る距離も、必要な範囲より半歩だけ踏み込んでいる気がする。
昨日からずっとそれだ。
仕事だから、では片づかない何かがある。
「今日は神経反射と首まわりも確認します」
「首…?」
「はい。むち打ちが出ている可能性がありますから」
言われればもっともだ。
もっともなのに、なぜだか身構えてしまう。
女医は白衣の袖を少しだけ整えると、ベッドの縁に腰を寄せた。
「力を抜いてください」
「いや、その…」
「緊張していますね」
「そりゃしますよ」
「私にですか」
問い方が静かなのに、妙に直球だった。
朔也は答えに詰まった。
しますよ、とは言えない。
しないわけもない。こんな美人に至近距離で触られて緊張しない男のほうがおかしいだろ。
いや普通は、そもそも俺みたいなのにこんな美人が近づかないから比較対象がない。
「…普通に、診察ってだけで苦手なんで」
「そうですか」
女医はそれ以上追及せず、指先をそっと朔也の首筋へ当てた。
「っ」
小さく肩が跳ねる。
冷たい、と思ったのは最初だけだった。
そのあとすぐ、自分の体温のほうが妙に上がっていることに気づく。
耳の下から喉の横へ、女医の指がゆっくりと位置を変える。
筋を確かめているだけだ。
腫れや張りを見る、ただそれだけのはずだ。
でも、そこはひどく変な場所だった。
喉仏のすぐ脇。耳の下。
皮膚が薄くて、自分の脈が逃げ場なく指先へ伝わってしまう場所。
「ここ、痛みますか」
「…ちょっと」
「こちらはどうですか」
反対側へ指が移る。
朔也は反射的に目を閉じた。
近い。息がかかる。
石鹸みたいな、清潔な匂いがする。
女医の顔は見えないのに、見えているより余計に意識してしまう。
「脈が速いですね」
「いや、そりゃ…」
「痛いからですか」
違う、と言えなかった。
違うのは確かだった。
痛みのせいだけじゃない。
こんなふうに触られて、変な意味じゃなくても、いや変な意味じゃないからこそ、余計に心臓が暴れている。
朔也は目を開けた。
そこで気づく。
女医の睫毛が近い。近すぎる。
視線が合った瞬間、彼女の喉がわずかに上下した。
まただ。
また、この人も変な反応をした。
昨日と同じ。
取り乱すほどではない。
けれど確かに、少しだけ息を呑む。
何なんだよ、本当に。
「先生」
低い声が割って入った。
女医の手がぴたりと止まる。
病室の入口には、紗良が立っていた。
今日も隙のないスーツ姿で、片手に薄いタブレット端末を持っている。
顔立ちは冷たいままなのに、目だけが妙に鋭かった。
「検査中です」
女医が言う。
「必要以上に近いようですが」
「必要範囲内です」
「そうは見えません」
空気が、一瞬で冷えた。
朔也は目を瞬く。
何これ。
何でこの二人、こんなに刺々しいんだ。
しかも原因、たぶん俺だよな?
意味がわからない。
意味がわからないのに、部屋の中央で自分だけが何か価値のある物みたいに扱われている感じがして、背中がむず痒くなる。
「霧島さん」
女医が声の温度をひとつ落とした。
「患者さんを不安にさせるのはやめてください」
「不安にさせているのは、どちらですか」
「診察です」
「見ればわかります」
それ、昨日も聞いた。
朔也は頭を抱えたくなる。
何なんだ、その共通言語。
俺にはまるで意味がわからないのに、二人の間では何かが通じているみたいで気味が悪い。
「…あの」
耐えられなくなって声を挟むと、二人の視線が同時に向いた。
それだけで心臓が嫌な音を立てる。
「俺、なんかしました?」
「していません」
「していません」
声まで揃った。
余計に怖いわ。
朔也は思わず顔をしかめた。
「じゃあ何なんですか。昨日からずっと。意味わかんないんですけど」
紗良がわずかに黙る。
女医も、カルテを閉じる指先を止めた。
しばらくしてから、女医が先に口を開く。
「…事故後の精神的混乱もあるでしょうから、いま無理に説明するのは逆効果だと思います」
その言い方が、朔也には癇に障った。
頭を打ったショックでおかしくなってると思われてる。
たぶん実際そう見えてもおかしくない。
でも、それを当たり前みたいに言われると腹が立つ。
いや、腹が立つ資格なんか本来ないのかもしれないけど、それでも。
「別に、俺、混乱してるのはそうですけど」
語尾が少し荒くなる。
「だからって、何もわからないまま変な扱いされるの、普通に嫌なんですけど」
言ったあとで、やばい、と思った。
美人の女二人に向かって何キレてんだ俺。
陰キャのくせに。
しかも病人。
絶対引かれた。
そう思ったのに、女医はなぜか目を細めただけだった。
困ったような、けれどどこか柔らかい表情。
「…そうですね。ごめんなさい」
謝られた。
朔也は一瞬、呼吸を忘れた。
え。今、謝られた?
俺みたいなのに?
しかも、ちゃんと人間相手みたいに?
「ただ、ひとつだけ言えるのは」
女医は指先を離し、立ち上がる。
「あなたが思っているより、いまのあなたは周囲の目を引きます。だから不用意に一人で動かないでください」
やっぱり意味がわからない。
「…俺が?」
「はい」
「どう見ても事故った豚ですけど」
自虐は、半分反射だった。
先に自分で言っておけば、他人に言われた時のダメージが少しだけ減る。
その癖が、朔也には染みついている。
けれど、その瞬間。
紗良の眉がぴくりと動いた。
女医の表情からも、柔らかさが消える。
部屋の空気が、今度は別の意味で張りつめた。
「…そういう言い方はやめてください」
低い声で言ったのは紗良だった。
朔也は固まる。
「は?」
「自分をそう表現しないでください」
「いや、でも事実だし」
「事実ではありません」
「いやいやいや」
思わず乾いた笑いが漏れる。
「鏡見たことあるんで」
「混乱しているようですね」
その一言だけで、朔也は黙った。
昨日もちらついた言葉だ。けれど、今みたいにはっきり言われると、急に現実味を持ってしまう。
何だよ、それ。
まるで世界そのものが違うみたいな言い方じゃないか。
「…意味わかんないです」
「でしょうね」
紗良は淡々としていた。
「だから、いまはまだ、無理に理解しなくていいです」
「いや、理解しないと怖いんですけど」
「怖いでしょう」
あっさり肯定されて、朔也は言葉を失った。
怖い、と認められるとは思わなかった。
病院で目覚めてからずっと、自分だけが現実に置いていかれている感覚だった。
何を見ても、何を聞いても、説明のつかないことばかりで、しかも周囲はその説明を省く。
自分だけがおかしいのか、世界がおかしいのか、それすらわからない。
怖いに決まっている。
けれどそれを、こんなふうに当たり前に言われると、少しだけ肩の力が抜ける。
それがまた、腹立たしかった。
何でだよ。
何でお前がそんな当然みたいに言うんだよ。
「でも」
紗良は一歩だけ近づいた。
朔也は無意識に背を引く。ベッドの背もたれがそれ以上の逃げ場を許さない。
紗良はそのすぐ手前で止まり、じっと朔也を見た。
「あなたが怖がるべき相手は、自分自身ではありません」
「…何それ」
「少なくとも、いまは」
その視線が、まっすぐすぎて、少し痛い。
見られている、と思った。
外見じゃなく。事故患者としてでもなく。
もっと奥の、ひどく脆いところまで見透かそうとするみたいに。
そんなの、今まで一度もなかった。
だから余計に、落ち着かない。
「午前中にもう一度簡易検査があります」
女医が空気を切り替えるように言った。
「そのあと、一般フロアを歩くのは控えてください。こちらで対応します」
「…何かあるんですか、下に」
尋ねると、女医と紗良は一瞬だけ目を合わせた。
嫌な予感がする。
「見舞い客が増えています」
女医が言う。
「事故そのものが話題になっているわけではありません」
「じゃあ何が」
「あなたが、です」
まっすぐすぎる返答だった。
朔也は思わず笑った。
笑うしかなかった。
「はは…」
乾いていて、自分で聞いてもみじめな声だった。
「いや、ほんと、勘弁してください。そういう冗談」
「冗談に聞こえますか」
女医は真顔だった。
紗良も笑わない。
朔也だけが、笑って逃げようとしている。
その構図に気づいて、急に胸の奥が冷えた。
冗談じゃないのか。
これ、本当に。
「…何で」
やっとのことで出た声は、さっきまでよりずっと小さかった。
「何で俺なんですか」
紗良は少しだけ息を吐いた。
「それを説明する前に、あなた自身の認識と周囲の認識の差を埋める必要があります」
「だから意味わかんないって」
「でしょうね」
また同じ返答。
なのに今度は、昨日ほど腹が立たなかった。
たぶん、目の前の二人が本気でそう思っているのがわかってしまったからだ。
朔也は視線を落とした。
病院着の胸元はよれたままで、白い布の下には丸い腹の輪郭が情けなく出ている。
こんな体を見て、どうして価値があるなんて思えるのか、本当にわからない。
でも。
少なくとも、この二人は朔也を笑っていない。
気持ち悪がってもいない。
それだけで、心のどこかがひどく落ち着かなくなる。
「霧島さん」
女医がカルテを閉じながら言った。
「保護局への引き継ぎは午後でいいでしょう。ただ、それまでに最低限の自覚は持ってもらってください」
「承知しています」
「過剰な刺激は避けてくださいね」
「わかっています」
二人の会話はやはり朔也を抜きに進む。
だが昨日ほど置いていかれる感覚はなかった。
理解できないなりに、その“わからなさ”の中心に自分がいることだけは、もう否定できなくなっていたからだ。
女医は最後にもう一度、朔也のほうを見た。
「首、もう一度だけ確認しますね」
「え」
「手早く終わらせますから」
そう言って、今度は本当に短く、耳の下から喉の横へ触れる。
さっきよりずっと短い。
なのに、指先が離れる直前、彼女の親指がほんの少しだけ皮膚をなぞった気がした。
気のせい、かもしれない。
でも朔也の体は、それだけでまたびくりと震えた。
女医のまつ毛がかすかに揺れる。
次の瞬間には、彼女は何事もなかった顔で立ち上がっていた。
「…今日は安静にしてください」
白衣の裾を翻し、病室を出ていく。
ドアが閉まるまで見送ってから、朔也はゆっくり紗良のほうを向いた。
「…今の、必要でした?」
「必要範囲内でしょう」
「真似しなくていいですよ」
「真似ではありません」
「いや、そういうとこです」
言い返すと、紗良はわずかに目を細めた。
怒ったのかと思ったが、そうではなかった。
何かを堪えるような、微妙な沈黙が落ちる。
そのあとで、彼女は不意にベッド脇へ回り込んだ。
「何ですか」
「襟がずれています」
そう言って、病院着の胸元へ手を伸ばしてくる。
「え、ちょ」
反射で体を引いたが、遅い。
紗良の指先はすでに朔也の襟をつまんでいた。
乱れた布が喉元に擦れ、少しだけ開いていた胸元が整えられる。
たったそれだけの行為なのに、指が触れた場所だけやけに熱い。
紗良の顔は近くない。
近くないはずなのに、彼女の視線が一度だけ、開いた胸元へ落ちたのを朔也は見た。
ごく短い視線だった。
でも、見た。
「…っ」
息が詰まる。
こんなだるんだるんの胸元だぞ。
脂肪だし。
見て何があるんだよ。
なのに紗良は、見たあとでほんのわずかに喉を鳴らした。
「…あなたは」
「な、何」
「自分の影響を、本当に理解していないんですね」
低い声だった。
怒っているみたいにも、困っているみたいにも聞こえる。
「だから、何の影響だよ…」
「それをこれから理解してもらいます」
襟元から手が離れる。
その時、布越しに爪がかすった気がして、朔也の肩がまた跳ねた。
紗良はそれを見た。
見て、ほんの一瞬だけ黙った。
次いで。
「…そんなに敏感だと困ります」
ぽつりと落ちたその声は、独り言みたいに小さかった。
「は?」
「いえ。何でもありません」
何でもあるだろ、今の。
朔也は顔をしかめたまま紗良を見上げる。
けれど彼女はもういつもの硬い表情に戻っていて、それ以上何も漏らさない。
意味がわからない。
わからないのに、首筋から胸のあたりまで、ずっと変な熱が残っていた。
女に触れられて、その反応を見られて、しかもそれを指摘されるなんて。
そんな経験、前までは絶対にありえなかった。
ありえないはずのことばかりが起きている。
その事実に、怖さと、どうしようもなく浅ましい期待が混じり始めていることを、朔也はまだ言葉にできなかった。
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