「断らなきゃいけない」
冬月書房を出たあとの夜は、妙に静かだった。
街の灯りはある。
人もいる。
スマホには相変わらず通知も来る。
それなのに、今までみたいに何かへ飛びついて埋めようという焦りが、少しだけ薄い。
代わりに、別の重さが胸の奥へ沈んでいた。
断らなきゃいけない。
その言葉が、ようやく自分の中で形を持ち始めている。
玲奈にも。
麗華にも。
紗良にも。
そして、名前をつけることすら曖昧にしてきた女たちにも。
これ以上、曖昧な熱だけ返して、そのたび少し優しくしたり少し欲しがったりして、相手の期待をつないでいくのは、もうだめだ。
遅い。
遅すぎる。
それでも、今ここで止めないと、たぶんもっとひどくなる。
スマホが震える。
玲奈だった。
**会いたい**
少し間を置いて、続けて。
**ちゃんと話したい**
その文面を見た瞬間、胸の奥が重くなる。
玲奈から先だ、と思った。
順番なんてないのかもしれない。
でも、自分の中では、先に向き合うべきなのは玲奈だった。
いちばん熱くて、いちばんまっすぐで、そしていちばん傷つけてきた相手だから。
◇
待ち合わせた玲奈は、珍しく最初から笑っていなかった。
泣いてもいない。
怒ってもいない。
ただ、まっすぐ見てくる。
それが一番つらい。
「来てくれたか」
玲奈が言う。
「…呼ばれたし」
「うん」
それだけ言って、少しだけ視線を落とす。
カフェの窓際。
周囲には普通の客がいて、空気は静かだ。
少し前なら、こういう場所に玲奈といれば、どこかで二人きりになれるかどうかばかり考えていた。
今は、そんなことを考える余裕すらない。
「ねえ」
玲奈が先に口を開いた。
「今日はたぶん、わかってるよね」
逃げ道のない問いだった。
「…うん」
「そっか」
玲奈は一度だけ頷いた。
その頷き方があまりにも静かで、朔也の喉が詰まる。
「私さ」
玲奈はストローを指先でいじりながら言う。
「ずっと、このまま押してたら何とかなるって思ってた」
「…」
「朔也くん、欲しがるのもわかりやすいし、女の体見てちゃんと興奮するし、そういう意味ではすごく正直だったから」
そこで、少しだけ笑う。
「だから、最後も延長線にあるのかなって」
違うとは、もう言えない。
熱は本物だった。
玲奈の体を欲しいと思ったのも嘘じゃない。
首筋も、胸元も、声も、何度も欲しいと思った。
でも、その“本物”だけではもう足りないところまで来てしまった。
「…ごめん」
また謝ろうとして、玲奈がすぐに首を振る。
「今日はそれ先に言われると、ちょっと腹立つ」
「…」
「謝る前に、ちゃんと言って」
まっすぐだ。
ほんとうに。
朔也はテーブルの上の手を握った。
「玲奈のこと、欲しいと思ったのは本当だよ」
それが最初の言葉になった。
「今も、たぶん会えば普通に欲しいと思う」
玲奈の睫毛が少し揺れる。
「でも」
その先が、何より苦しい。
「それだけじゃなくなった」
玲奈は何も言わない。
逃げずに聞いている。
そのことが、余計に痛い。
「誰かに欲しがられることとか、自分が欲しがることとか、そういうのでずっと埋めてきたけど」
言葉を選びながら、でも逃げずに続ける。
「玲奈のことも、その中に混ぜたまま抱いてた時がある」
そこで玲奈の指先がきゅっと止まった。
「…うん」
声は小さい。
でも、崩れてはいない。
「それ、わかってた」
その一言で、胸の奥がさらに重くなる。
「わかってたけど、私が勝てるかもって思ってた」
「玲奈」
「だって、ちゃんと欲しかったでしょ。私のこと」
「…うん」
「だから、そのうち熱だけじゃなくなるかなって」
玲奈はそこで一度だけ息を吐いた。
「でも、違った」
その“違った”は静かだった。
泣き叫ぶより、ずっと痛い。
「違ったっていうか」
玲奈が、少しだけ笑おうとして失敗する。
「もっと先に、別のものができちゃってたんだよね」
名前は出ない。
でも、もうお互いわかっている。
「…ごめん」
今度は、止められなかった。
玲奈は目を閉じる。
「うん。ごめんで合ってると思う」
その受け止め方が、優しすぎて余計に苦しい。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
カフェのざわめきだけが、やけに遠い。
「私さ」
やがて玲奈が言う。
「朔也くんの、ああいう下品なとこも好きだったよ」
不意打ちだった。
「…何だよそれ」
「だって本当だもん」
玲奈は少しだけ目を細める。
「女の体見て、ちゃんと興奮して、欲しがって、こっちの反応で余計に熱くなるとことか」
そこまで言われると、逆に何も返せない。
「この世界だと珍しいし、たぶん私はそれにすごく弱かった」
玲奈は笑う。
今度は、ちゃんと少しだけ笑えた。
「だから余計に悔しい」
「…」
「でも、好きだったのは本当だから、そこは消したくない」
その言葉は、救いであると同時に罰でもあった。
玲奈は、自分との時間まで全部汚したくないのだ。
最低だった部分も含めて、本当だったと残そうとしている。
朔也には、それが眩しすぎた。
「…俺、お前のこと傷つけたな」
「うん」
即答だった。
「でも、今ちゃんと断ってくれるなら、それでいい」
玲奈はそこで、まっすぐこちらを見た。
「もう、欲しいからって来ないで」
その一言が、決定的だった。
「会えば、たぶん私もまた欲しくなるし、朔也くんもたぶん欲しくなる」
「…」
「でも、その先にちゃんと行かないなら、もういらない」
まっすぐ。
最後まで、玲奈はまっすぐだった。
「…わかった」
やっとそれだけ言う。
玲奈は、少しだけ寂しそうに笑った。
「うん」
それきり、会話は長く続かなかった。
玲奈は最後に一度だけ「じゃあね」と言って立ち上がる。
その背中を見送りながら、朔也は初めて、ひとつ断れたのだと実感した。
熱くて、明るくて、まっすぐだったものが、ちゃんと終わった。
◇
麗華とは、もっと静かだった。
場所も、いつもの高い部屋ではない。
外が見えるホテルのラウンジ。
夕方の光が窓へ薄く差し込んでいる。
麗華は最初から、何もかもわかっている顔だった。
「いらっしゃい」
「…うん」
「今日は抱かれに来た顔じゃないわね」
その一言で、朔也は少しだけ苦く笑った。
「全部わかるんだな」
「ええ」
麗華は紅茶へ口をつける。
「だって、今まで見ていたもの」
その言い方は、やっぱり大人だ。
責めるより先に理解が来る。
理解されるほど、余計に痛い。
「…終わりにしようと思ってる」
朔也が言うと、麗華は静かにカップを置いた。
「そう」
それだけ。
「驚かないんだ」
「いずれそうなると思っていたから」
少しだけ目を細める。
「あなたは、ここへ熱を持って来るたびに、同時に少しずつ胸の中が冷えていたもの」
その言葉も、やっぱり図星だった。
「私のこと、欲しかった?」
麗華が聞く。
「欲しかった」
そこに嘘はない。
「今も、たぶん見れば普通に欲しくなる」
「でしょうね」
麗華はあっさり頷く。
「私も、あなたに欲しがられるのは嫌いじゃなかったわ」
その言葉に、少しだけ胸が痛む。
「でも」
麗華が続ける。
「それと、最後に選ばれることは違うもの」
「…」
「そして、曖昧なまま抱かれ続けるのは、やっぱり嫌」
前にも言われた言葉だ。
でも今は、それが完全に終わりの線になっている。
「…ごめん」
言うと、麗華は少しだけ笑う。
「あなた、本当にそれが癖ね」
「…」
「でも今は、その謝罪もたぶん本物なのでしょう」
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実みたいに言う。
「だから受け取るわ」
その受け取り方が、また痛い。
「お前はほんとに強いな」
思わず言うと、麗華は首を傾げた。
「強いわけではないわ」
「そうか?」
「ただ、綺麗に終わらせたいだけ」
それができるのが、やっぱりこの女の強さなのだと思う。
「最後にひとつだけ」
麗華が言う。
「何」
「私はあなたを王として欲しかったわけではないのよ」
少しだけ、間を置く。
「桐生朔也としても、ちゃんと魅力的だった」
その言葉が、今まででいちばんまっすぐ刺さった。
希少な男だから。
そういう世界の補正だけではなく、自分そのものにも欲を向けられていた。
その事実を、今になって受け取るのは重すぎる。
「…ありがとう」
それしか言えなかった。
麗華は最後に、いつも通り綺麗に微笑んだ。
「ええ。さようなら、ではなく」
紅茶の向こうで目を細める。
「お元気で」
それが、この女なりの終わらせ方だった。
◇
紗良とは、もっと生々しかった。
麗華のあと、部屋へ戻る。
リビングには紗良がいた。
いつも通りのスーツ。
いつも通りの姿勢。
でも、ここへ帰ってくるたびに、この女とだけは“いつも通り”がどこにもない。
「お帰りなさい」
「…ただいま」
少しの沈黙。
紗良はすぐにはこちらを見なかった。
それが逆に、今日の話の重さをはっきりさせている。
「玲奈さんと」
紗良が言う。
「麗華さんとは、話したんですね」
朔也は少しだけ驚く。
「何で」
「顔です」
「便利だな」
「ええ」
そこでようやく、紗良がこちらを見た。
「それで、私ですか」
逃げ道のない聞き方だ。
「…うん」
「そうでしょうね」
紗良は端末を机へ置いた。
立ち上がる。
長身の影が少し近づく。
「何を言うつもりですか」
「終わりにしたい」
自分で言って、喉がきしむ。
紗良の目が、ほんの少しだけ揺れた。
怒るかと思った。
でも最初に来たのは、怒りではなく、深い疲れみたいな表情だった。
「そうですか」
「…怒らないのか」
「怒っています」
静かな即答。
「でも、今さら大きく見せる気はありません」
そう言われると、余計に苦しい。
「お前のことも」
朔也が続ける。
「欲しかったのは本当だ」
「でしょうね」
「でも、その中に、俺が上に立てる証拠みたいなものを求めてた時があった」
「知っています」
またそれだ。
知っている。
見抜かれている。
その上で、ここまで来ている。
「…ごめん」
紗良は少しだけ目を閉じた。
「本当に、その言葉が好きですね」
「好きで言ってるわけじゃない」
「でしょうね」
そして、まっすぐにこちらを見る。
「でも、謝られるたびに軽くなる気がしているなら、それはまだ甘いです」
鋭い。
でもその鋭さが、今は必要だった。
「じゃあどうすればいい」
「私に聞かないでください」
きっぱりと言う。
「自分で決めて、自分で背負ってください」
その通りだ。
玲奈にも。
麗華にも。
そして紗良にも。
自分はこれまで、誰かの熱の中で判断を先延ばしにしてきた。
もう、それはできない。
「…お前には」
朔也が言う。
「ひどいことしたな」
「はい」
紗良は頷く。
「でも、それ以上にひどいのは、そこへ自分で気づくのが遅かったことです」
胸へ刺さる。
たしかにそうだ。
最低なことをしただけじゃない。
その最低さを、自分の快楽が濁り始めるまでちゃんと見ようとしなかった。
「…もう、逃げ道にしない」
それだけは、ようやく言えた。
紗良は数秒黙ってから、わずかに息を吐く。
「そうしてください」
怒鳴りもしない。
泣きもしない。
でも、その静かさの中に、最後まで残る痛みがある。
「お前は」
朔也が聞く。
「俺のこと、まだ嫌いにならないのか」
紗良はほんの少しだけ眉を動かした。
「その質問、ずるいですね」
「…」
「嫌いになれたら、もう少し楽だったのでしょう」
その答えが、思ったよりも重かった。
紗良もまた、ちゃんと感情を持っていた。
持ったまま、ここまで来ていた。
「だからこそ」
紗良が続ける。
「ここで終わらせるのは、必要です」
必要。
この女がその言葉を使う時は、だいたい正しい。
今も、たぶんそうだ。
しばらく、どちらも動かなかった。
やがて紗良が視線を外し、書類を手に取る。
「今日は、もう休んでください」
「…うん」
「顔色が最悪です」
「最後までそれかよ」
「事実です」
少しだけ、いつものやり取りに近い。
でも、同じではない。
これで終わったのだと、ちゃんとわかる距離がそこにあった。
◇
夜更け、朔也は一人でリビングに座っていた。
玲奈を断った。
麗華とも終わらせた。
紗良にも線を引いた。
“断る”なんて簡単な言葉で済ませていいほど軽くはない。
失くしたのは、相手の期待であり、熱であり、たぶん少しずつ芽生えていた感情そのものだ。
そして、それを終わらせたのは自分だ。
部屋は静かだった。
前に感じていた静けさより、もっと重い。
本当に誰の熱もない静けさ。
ここまで来て初めて、朔也は自分がハーレムの中心にいたことの意味を思い知る。
女たちに囲まれ、欲しがられ、その熱を受け取りながら、自分も欲しがることで、ずっと一人でいることを見ないようにしてきた。
今は、その熱がない。
だから、やっと本当の孤独が来る。
「…っ」
息が詰まる。
苦しい。
でも、この苦しさから逃げたら、また同じことの繰り返しだ。
スマホを手に取る。
通知は減っていた。
いや、来ていても開ける資格がないだけかもしれない。
そして、その画面を見つめたまま、朔也は最後にひとつだけはっきり理解する。
今、自分が会いたいのは。
熱をくれる女じゃない。
欲しがってくれる女でもない。
そう気づけたから・・・
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