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醜男だった俺が、男女比1:500の世界で王と呼ばれるまで  作者: きなこもち
第3章 『王じゃなくて、朔也として・・・』

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「何も起きなくていい場所」

 


 冬月書房へ向かう道は、もう体が覚え始めていた。


 駅前の雑踏を抜けて、大通りを外れ、少しだけ古い店が並ぶ裏通りへ入る。

 そこまで来ると、空気の温度がわずかに変わる。

 人の声が遠のく。

 視線も減る。

 女たちの熱も、ここでは少し薄い。


 その“少し薄い”だけで、呼吸が楽になる自分がいる。


 朔也は、そこへ少しだけ苛立っていた。


 楽になるのが気に食わないわけじゃない。

 ただ、ここで楽になってしまうと、自分がこれまで何に溺れて、何をごまかしてきたのかが、余計にはっきり見える気がした。


 冬月書房の扉を押す。


 ベルが鳴る。

 紙の匂い。

 木の棚。

 少し乾いた静けさ。


「いらっしゃいませ」


 澪の声。


 カウンターの向こう。

 淡い色のシャツに薄いカーディガン。

 黒髪を低くまとめた、静かな横顔。

 派手じゃない。

 でも近くで見るほど整っていて、その整い方は玲奈や麗華とはまるで違う方向の強さがある。


「…また来た」


 朔也が言うと、澪は視線だけを上げた。


「そうですね」


「それだけかよ」


「他に何を言えば」


「いや…別に」


 またそれだ。

 でも今日は、澪が少しだけ口元を動かした。


「便利ですね」


「それ、お前まで言うな」


「便利そうだったので」


 少しだけ可笑しくて、少しだけむかつく。

 その感じがちょうどいい。


 店の奥へ入る。

 棚の前へ立つ。

 今日は本当に何かを探したいわけじゃない。

 ただ、ここにいたかった。


 そのことを、もう否定しきれない。


「顔が昨日より穏やかです」


 背後から澪の声。


「顔で全部決めるの好きだな」


「見ればわかるので」


「そんなにわかりやすい?」


「かなり」


 即答だった。


 朔也は棚へ軽く背を預ける。


「…俺、前までさ」


「ええ」


「何かが足りないと思ったら、すぐ埋めようとしてた」


 澪はすぐには返事をしなかった。

 その代わり、本を一冊だけ棚から抜き、表紙を確認してまた戻す。


「そうでしょうね」


「否定しないんだ」


「しません」


 澪の声は、責めるでも慰めるでもない。

 ただ、そこにあった事実をそのまま置いていく。


「でも最近、それがうまくできなくなった」


「埋まらないからですか」


「…たぶん」


 たぶんじゃなく、そうなのだろう。

 玲奈といても、麗華といても、誰といても、最中は満たされる。

 体はちゃんと応える。

 でも、そのあとで必ず少し冷える。

 そして、前みたいにその冷えを次の熱で簡単に塗りつぶせなくなった。


 そこまで来て、やっと自分は今まで何をしていたのかを薄く理解し始めている。


「それで、ここに来たんですか」


 澪が聞く。


「悪い?」


「悪くはないです」


 その返しに、少しだけ息が抜ける。


「お前のとこだと、何も起きないから」


 気づけば、かなりそのまま言っていた。


「何も起きない、ですか」


「変な意味じゃなくて」


「変な意味で言ってたら困ります」


「だろうな」


 少しだけ笑う。

 笑えることが、今は妙にありがたい。


「でもほんと、ここだと」


 朔也は棚を眺めたまま言う。


「何も起こさなくていい感じだする」


 言葉にした瞬間、それが思った以上に正確だとわかった。


 玲奈の前では熱が起きる。

 麗華の前では濃い空気が起きる。

 紗良の前では張りつめたものが起きる。

 ここでは、起こさなくていい。


 それがたぶん、自分にとってはもうかなり大きかった。


 澪は少しだけ考えるように沈黙した。


「いいんじゃないですか」


「軽いな」


「重く言うことでもないので」


 そう言って、カウンターから一冊の本を持ってくる。


「これ、短いですよ」


「短編のが好きだと思われてる?」


「今日は長いのは読めなさそうなので」


「ひど」


「事実です」


 最近、事実と言われてもあまり腹が立たなくなってきた。

 たぶん、本当にその通りだからだ。


 本を受け取る。

 指先が少し触れる。

 ほんの一瞬だけ。

 でも、玲奈や麗華の時みたいにそこから熱へ落ちない。


 落ちないことが、今の朔也にはほっとする。


「…お前の前だと」


 つい、言葉が漏れる。


「何です」


「普通のことしか言えなくなる」


 澪は目を瞬かせた。


「普段は普通じゃないんですか」


「だいぶ普通じゃないと思う」


「そうですか」


 それだけ言って、澪は本を整える作業へ戻る。


 その横顔を見ながら、朔也はようやく自分の中の“欲しい”が少し形を変えているのに気づく。


 触りたい、じゃない。

 抱きたい、でもない。

 少なくとも、最初に来るのはそこじゃない。


 もう少しここにいたい。

 この静けさの中で、澪の声を聞いていたい。

 何も起きなくていいまま、同じ空間へいたい。


 それは前の自分にとって、かなり異様な欲だった。


「…閉店までいてもいい?」


 気づけば、そう聞いていた。


 澪が少しだけこちらを見る。


「本を買っていただけるなら」


「営業熱心だな」


「本屋なので」


 その返しに、今度はちゃんと笑ってしまった。


 そして、そうやって少し笑ったあとで気づく。

 ここに来てから、自分は一度も誰かの体のことを考えていない。


 澪を見て、綺麗だとは思う。

 首筋や肩の線が目につくこともある。

 でも、そこからすぐ手を伸ばしたいわけじゃない。


 それより、この時間が終わってほしくない。


 その感覚のほうが、今はずっと大きい。


 ◇


 閉店間際、店内はさらに静かだった。


 外の人通りも少なくなり、棚の間には紙をめくる音すらない。

 朔也は椅子に座って本を開いていた。

 正直、内容は半分も入っていない。

 でも、それでよかった。


 大事なのは読むことそのものじゃなく、この静かな時間の中へ自分がいて、それが少しも苦しくないことだった。


「そろそろ閉めます」


 澪が言う。


「うん」


 本を閉じる。

 立ち上がる。


 その時、少しだけ名残惜しいと思った。

 その感情が、想像以上に自然だった。


「…また来るよ」


 玄関の前で、朔也はそう言った。


 言ってから、自分で一瞬だけ止まる。


 また来る。

 それは今までの“会いたいから抱く”とか“欲しいから触る”とは違う。

 ただ次もこの時間を持ちたいから出た言葉だ。


 澪も、その違いに少しだけ気づいたらしかった。


「ええ」


 静かに頷く。


「本が減らない程度にお願いします」


「そこかよ」


「本屋なので」


 また同じ返し。

 でも、それが今はひどくちょうどいい。


 店を出る。

 夜の空気は少し冷たい。

 けれど、その冷たさが、前みたいに空虚へ直結しない。


 胸の中にあるのは、熱ではない。

 でも、冷えでもない。


 うまく名前がつかない、少し静かな満ち方だった。


「…これ、なんなんだろうな」


 独り言がこぼれる。


 欲しがられたいわけじゃなく。

 抱きたいわけでもなく。

 ただ、一緒にいる時間が欲しい。


 そんなことを女に向けて思うのは、たぶん初めてだった。


 その初めてが澪相手だというのが、やっぱりまだ少しだけ信じられない。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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