「何も起きなくていい場所」
冬月書房へ向かう道は、もう体が覚え始めていた。
駅前の雑踏を抜けて、大通りを外れ、少しだけ古い店が並ぶ裏通りへ入る。
そこまで来ると、空気の温度がわずかに変わる。
人の声が遠のく。
視線も減る。
女たちの熱も、ここでは少し薄い。
その“少し薄い”だけで、呼吸が楽になる自分がいる。
朔也は、そこへ少しだけ苛立っていた。
楽になるのが気に食わないわけじゃない。
ただ、ここで楽になってしまうと、自分がこれまで何に溺れて、何をごまかしてきたのかが、余計にはっきり見える気がした。
冬月書房の扉を押す。
ベルが鳴る。
紙の匂い。
木の棚。
少し乾いた静けさ。
「いらっしゃいませ」
澪の声。
カウンターの向こう。
淡い色のシャツに薄いカーディガン。
黒髪を低くまとめた、静かな横顔。
派手じゃない。
でも近くで見るほど整っていて、その整い方は玲奈や麗華とはまるで違う方向の強さがある。
「…また来た」
朔也が言うと、澪は視線だけを上げた。
「そうですね」
「それだけかよ」
「他に何を言えば」
「いや…別に」
またそれだ。
でも今日は、澪が少しだけ口元を動かした。
「便利ですね」
「それ、お前まで言うな」
「便利そうだったので」
少しだけ可笑しくて、少しだけむかつく。
その感じがちょうどいい。
店の奥へ入る。
棚の前へ立つ。
今日は本当に何かを探したいわけじゃない。
ただ、ここにいたかった。
そのことを、もう否定しきれない。
「顔が昨日より穏やかです」
背後から澪の声。
「顔で全部決めるの好きだな」
「見ればわかるので」
「そんなにわかりやすい?」
「かなり」
即答だった。
朔也は棚へ軽く背を預ける。
「…俺、前までさ」
「ええ」
「何かが足りないと思ったら、すぐ埋めようとしてた」
澪はすぐには返事をしなかった。
その代わり、本を一冊だけ棚から抜き、表紙を確認してまた戻す。
「そうでしょうね」
「否定しないんだ」
「しません」
澪の声は、責めるでも慰めるでもない。
ただ、そこにあった事実をそのまま置いていく。
「でも最近、それがうまくできなくなった」
「埋まらないからですか」
「…たぶん」
たぶんじゃなく、そうなのだろう。
玲奈といても、麗華といても、誰といても、最中は満たされる。
体はちゃんと応える。
でも、そのあとで必ず少し冷える。
そして、前みたいにその冷えを次の熱で簡単に塗りつぶせなくなった。
そこまで来て、やっと自分は今まで何をしていたのかを薄く理解し始めている。
「それで、ここに来たんですか」
澪が聞く。
「悪い?」
「悪くはないです」
その返しに、少しだけ息が抜ける。
「お前のとこだと、何も起きないから」
気づけば、かなりそのまま言っていた。
「何も起きない、ですか」
「変な意味じゃなくて」
「変な意味で言ってたら困ります」
「だろうな」
少しだけ笑う。
笑えることが、今は妙にありがたい。
「でもほんと、ここだと」
朔也は棚を眺めたまま言う。
「何も起こさなくていい感じだする」
言葉にした瞬間、それが思った以上に正確だとわかった。
玲奈の前では熱が起きる。
麗華の前では濃い空気が起きる。
紗良の前では張りつめたものが起きる。
ここでは、起こさなくていい。
それがたぶん、自分にとってはもうかなり大きかった。
澪は少しだけ考えるように沈黙した。
「いいんじゃないですか」
「軽いな」
「重く言うことでもないので」
そう言って、カウンターから一冊の本を持ってくる。
「これ、短いですよ」
「短編のが好きだと思われてる?」
「今日は長いのは読めなさそうなので」
「ひど」
「事実です」
最近、事実と言われてもあまり腹が立たなくなってきた。
たぶん、本当にその通りだからだ。
本を受け取る。
指先が少し触れる。
ほんの一瞬だけ。
でも、玲奈や麗華の時みたいにそこから熱へ落ちない。
落ちないことが、今の朔也にはほっとする。
「…お前の前だと」
つい、言葉が漏れる。
「何です」
「普通のことしか言えなくなる」
澪は目を瞬かせた。
「普段は普通じゃないんですか」
「だいぶ普通じゃないと思う」
「そうですか」
それだけ言って、澪は本を整える作業へ戻る。
その横顔を見ながら、朔也はようやく自分の中の“欲しい”が少し形を変えているのに気づく。
触りたい、じゃない。
抱きたい、でもない。
少なくとも、最初に来るのはそこじゃない。
もう少しここにいたい。
この静けさの中で、澪の声を聞いていたい。
何も起きなくていいまま、同じ空間へいたい。
それは前の自分にとって、かなり異様な欲だった。
「…閉店までいてもいい?」
気づけば、そう聞いていた。
澪が少しだけこちらを見る。
「本を買っていただけるなら」
「営業熱心だな」
「本屋なので」
その返しに、今度はちゃんと笑ってしまった。
そして、そうやって少し笑ったあとで気づく。
ここに来てから、自分は一度も誰かの体のことを考えていない。
澪を見て、綺麗だとは思う。
首筋や肩の線が目につくこともある。
でも、そこからすぐ手を伸ばしたいわけじゃない。
それより、この時間が終わってほしくない。
その感覚のほうが、今はずっと大きい。
◇
閉店間際、店内はさらに静かだった。
外の人通りも少なくなり、棚の間には紙をめくる音すらない。
朔也は椅子に座って本を開いていた。
正直、内容は半分も入っていない。
でも、それでよかった。
大事なのは読むことそのものじゃなく、この静かな時間の中へ自分がいて、それが少しも苦しくないことだった。
「そろそろ閉めます」
澪が言う。
「うん」
本を閉じる。
立ち上がる。
その時、少しだけ名残惜しいと思った。
その感情が、想像以上に自然だった。
「…また来るよ」
玄関の前で、朔也はそう言った。
言ってから、自分で一瞬だけ止まる。
また来る。
それは今までの“会いたいから抱く”とか“欲しいから触る”とは違う。
ただ次もこの時間を持ちたいから出た言葉だ。
澪も、その違いに少しだけ気づいたらしかった。
「ええ」
静かに頷く。
「本が減らない程度にお願いします」
「そこかよ」
「本屋なので」
また同じ返し。
でも、それが今はひどくちょうどいい。
店を出る。
夜の空気は少し冷たい。
けれど、その冷たさが、前みたいに空虚へ直結しない。
胸の中にあるのは、熱ではない。
でも、冷えでもない。
うまく名前がつかない、少し静かな満ち方だった。
「…これ、なんなんだろうな」
独り言がこぼれる。
欲しがられたいわけじゃなく。
抱きたいわけでもなく。
ただ、一緒にいる時間が欲しい。
そんなことを女に向けて思うのは、たぶん初めてだった。
その初めてが澪相手だというのが、やっぱりまだ少しだけ信じられない。
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