「最低だと知ってから」
翌朝、桐生朔也はひどく浅い眠りから目を覚ました。
寝たのかどうかも怪しい。
目を閉じていた時間はあった。
でも、意識の底ではずっと昨夜の紗良の声が残っていた。
**私は、あなたの便利な証明じゃない。**
その一言だけが、何度も何度も繰り返される。
便利な証明。
自分がまだ男でいられる証拠。
女を崩せる証拠。
欲しがられる価値がある証拠。
そういうものとして、玲奈も、麗華も、紗良も、他の女たちも、どこかで使っていた。
言葉にすると、あまりにも最低だった。
「……」
ベッドから起き上がる。
喉が渇いている。
でも、水を飲んでも胸のざらつきは消えない。
リビングへ出ると、紗良はいなかった。
机の上にメモだけがある。
**午前は外します。必要なら連絡を。**
それだけ。
無機質な字。
いつもの業務連絡みたいな文面。
でも、昨日のあとにそれだけ置かれると、逆に距離がはっきり見えてしまう。
朔也はメモを見たまま、小さく息を吐いた。
「…そりゃそうか」
あんなことを言っておいて、平然といつも通り隣へ来られるわけがない。
玲奈はまっすぐに傷ついた。
麗華は静かに線を引いた。
紗良は怒った。
ここまで来てやっと、自分がやってきたことの重みが一つずつ、別の女の顔をして目の前に並び始めている。
◇
昼過ぎ、美優から連絡が来た。
**今日、少しだけ会えませんか?**
その文面を見た瞬間、前ならもう少し単純だった。
会いたい。
会えばきっと、また熱が戻る。
美優は柔らかくて、反応が素直で、名前を呼ぶ声も甘い。
そういう記憶がすぐに体のほうへ届いて、指が先に返信していたはずだ。
今は、そこで少し止まる。
止まりながらも、体のほうは正直だった。
美優の胸元。
首筋。
壁際で赤くなった顔。
そこを思い出すと、腹の底がじわりと熱を持つ。
だから、完全に断つこともできない。
結局、
**少しなら**
と返した。
既読。
すぐに、
**うれしいです**
と返ってくる。
その一言へ、前みたいにまっすぐ飛び込めない自分がいた。
◇
会ったのは、駅近くのカフェだった。
美優は今日もやわらかい色の服を着ていて、目が合うと、すぐ少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ると、胸の奥が少し痛む。
こういう顔を、今までどれだけ雑に受け取ってきたんだろう。
「来てくれて、ありがとうございます」
「…うん」
席につく。
美優は少し緊張しているみたいだった。
でも、それは悪い緊張ではない。期待の混じった緊張だ。
前の朔也なら、その期待を見るだけで気分がよくなっていた。
「最近、忙しかったですか?」
美優が聞く。
「まあ…少し」
「顔色、あんまりよくないです」
また顔だ。
ほんと、みんな顔を見すぎだろと思う。
でも、それだけ今の自分がわかりやすいということなのかもしれない。
「美優は」
朔也が聞く。
「俺に会って、何したかったの」
自分でも直球すぎると思った。
でも、美優は笑わなかった。
「顔、見たかったです」
「それだけ?」
「それだけじゃ、だめですか」
その言い方が、少しだけ寂しそうで、朔也は返事に詰まる。
だめじゃない。
でも今までの自分は、顔を見るだけで終わったことなんかない。
顔を見て、近づいて、触って、熱へ変えてきた。
美優も、たぶんそれを少しは期待している。
その期待を、今の自分は前みたいには受け取れない。
「…だめじゃない」
そう返すと、美優は少しだけ安心したように笑った。
その笑顔がまた痛い。
少し話す。
仕事のこと。
最近のこと。
天気のこと。
表面上は普通の会話だ。
なのに、途中で何度か指先が触れそうになるたび、美優の呼吸が少しだけ揺れる。
その揺れに、朔也の体もまだ反応する。
欲が消えたわけじゃない。
そこがいちばん厄介だった。
帰り際、美優が小さく言った。
「今日…」
「ん」
「裏、来ますか?」
その一言で、前の流れならもう決まっていた。
店の裏口。
薄暗い通路。
顔を近づければ、すぐ熱が上がる。
そういうルートが、もう頭へできている。
朔也は一瞬、何も言えなかった。
美優の頬が少しずつ赤くなる。
「…ごめんなさい、変なこと」
「いや」
変じゃない。
今までの自分がそうさせてきた。
そういう女にしてきた。
それを“求められてる”として気持ちよく受け取ってきた。
でも今は、その先へ行くと、たぶん途中で急に冷えるのがわかる。
そして、その冷えは美優をもっと傷つける。
「今日は、行かない」
やっとそれだけ言う。
美優はほんの少しだけ目を見開いた。
そのあと、すぐに小さく笑う。
「そっか」
軽く言おうとしているのがわかる。
でも、目の奥の落ち方までは隠しきれていない。
「…ごめん」
また謝ってしまう。
美優は首を振る。
「謝らないでください」
その言葉を聞いた瞬間、玲奈の顔と麗華の声と紗良の怒りが、一緒に胸へ戻ってきた。
もう、その謝罪が何も助けないことは、自分でもわかっているのに。
◇
帰り道、朔也は自分でも驚くくらい疲れていた。
何もしていない。
触れていない。
抱いていない。
なのに、いつもより疲れている。
「…意味わかんねえ」
独り言が落ちる。
今までなら、欲を満たせば一時的には楽になった。
そのあとで冷えるとしても、少なくとも最中は酔えていた。
今は、その手前で止まる。
止まったぶんだけ、欲は消えずに残る。
なのに、進めばたぶんまた冷える。
どっちへ転んでも綺麗じゃない。
その不自由さが、前よりずっと重い。
◇
夕方、部屋へ戻ると、紗良はもういた。
午前で外すと言っていたのに、いつの間にか帰っている。
でも、いつものように近くはない。
キッチンで何かを整理している背中も、少しだけ遠い。
「…ただいま」
「お帰りなさい」
声は平坦だ。
でも、昨日みたいな棘は少しだけ減っている。
そのことに、逆に胸がちくりとする。
「美優さんですか」
不意に紗良が言う。
「は?」
「香り」
またそれか。
でも今日は、そこに責める響きはなかった。
ただ確認しているだけの声音。
「…会っただけ」
「そうですか」
短い返事。
それ以上、何も言わない。
それなのに、朔也は気づいてしまう。
“会っただけ”だと聞いて、紗良がほんの少しだけ息を抜いたことに。
「…何だよ」
「何がです」
「今、ちょっと安心しただろ」
紗良の手が止まる。
「していません」
「してた」
「していません」
同じやり取り。
でも昨日より、少しだけ強さがない。
朔也はソファへ腰を落とす。
「…途中で、無理になった」
ぽつりと漏らす。
紗良は振り向かない。
「何がです」
「前みたいに、そのまま行けなくなった」
静かな沈黙。
それから、紗良がようやくこちらを見る。
「進歩ですね」
「褒められてる気しない」
「褒めてはいません」
まあそうだろうなと思う。
でも、その事実を口にしても、紗良が昨日みたいな冷たい目をしなかったことに、少しだけ救われる自分もいた。
「…気持ち悪いんだよ」
朔也が言う。
「行けばたぶんまだ欲しいし、体も普通に反応するのに」
「ええ」
「でも、そのあとでまた冷えるのが見えてる」
紗良は少しだけ目を細めた。
「ようやくですね」
「だからその言い方」
「事実です」
やっぱりそこは変わらない。
でも今は、その変わらなさが少しだけありがたかった。
「…もう前みたいに酔えない」
言葉にした瞬間、それがあまりにも本当すぎて、朔也はしばらく黙った。
前みたいに酔えない。
女の熱に。
自分の欲に。
“欲しがられる王”の立場に。
快楽が消えたわけじゃない。
むしろ体はまだ正直だ。
でも、もうそれだけでは埋まらない。
紗良は少しだけ沈黙したあと、低く言った。
「なら、無理に埋めないことです」
その言葉に、朔也は顔を上げる。
麗華にも似たことを言われた。
寒さを覚えておけ、と。
澪にも近いことを言われた。
何でもすぐ欲に変えなくてもいい、と。
女たちがそれぞれ別の言葉で、同じ方向を指している気がした。
「…埋めないと、どうなるんだよ」
「たぶん」
紗良は視線を落とす。
「ちゃんと、足りないものが見えます」
その答えは、思ったより静かだった。
そして、その静けさの中でだけ、朔也はやっと自分が今どこへ行くべきかを少しだけ理解する。
欲を埋めるための誰かじゃない。
足りないものが見える場所。
冬月書房の、あの静かな棚が浮かぶ。
紙の匂い。
何も起きなくていい時間。
冬月澪。
「……」
「何です」
「いや」
朔也は小さく息を吐く。
「たぶん、行くとこある」
紗良はそれ以上聞かなかった。
聞かないことが、今はちょうどよかった。
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