「麗華は知っている」
玲奈と別れたあと、桐生朔也はしばらく駅前の雑踏の中に立ち尽くしていた。
人が流れていく。
声が交じる。
光が動く。
そのどれもが妙に遠い。
玲奈は泣かなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、ちゃんと傷ついた顔で、それでも今の熱は嘘じゃないと言った。
その言葉がずっと残っている。
自分は最低だ。
それはもう、だいぶ前からわかっていた。
でも、最低さを指摘されるのと、誰かのまっすぐな気持ちを前にしてそれを実感するのとでは、重さが違う。
「……」
スマホが震える。
九条麗華だった。
**今夜、お時間はありますか**
相変わらず、余裕のある文面。
玲奈みたいに“会いたい”とは言わない。
でも、この女はこの女で、欲しいものを逃さない。
少し迷った。
いや、迷ったつもりだった。
でも指は、結局返信していた。
**ある**
数秒後。
**では、前と同じ場所へいらしてください**
短い。
それだけなのに、もう麗華の香りや、あの高い部屋の空気が思い出される。
最低だな、と朔也は思った。
玲奈の傷ついた顔を見たあとで、まだ別の女へ向かうのだから。
でも、向かってしまう。
それが今の自分だと、嫌でもわかっている。
◇
麗華は、前と変わらずだった。
ホテル上階の私室めいたラウンジ。
磨かれた床、抑えた照明、窓の外の夜景。
その真ん中で、麗華は今日も完成されている。
黒に近い深い色のワンピース。
喉元は高く、露出は少ない。
少ないからこそ、首筋と鎖骨の線が余計に目につく。
髪も、指先も、声も、全部が整いすぎていて、そこに自分の欲を差し込むとひどく下品になる。
その下品さに、朔也はまだ少し酔う。
「いらっしゃい」
麗華が微笑む。
「…どうも」
「その挨拶、気に入っていらっしゃるのね」
「別に」
「便利な言葉」
その返しに、少しだけ肩の力が抜けた。
玲奈のあとだからかもしれない。
麗華のこういう皮肉は、時々ちょうどいい。
「顔色が少し悪いわ」
近づいてきた麗華が言う。
「何かありました?」
「何も」
「嘘ね」
即答だった。
玲奈ほど熱くない。
紗良ほど事務的でもない。
でもこの女もやはり、人の顔から嘘を剥がすのがうまい。
「…何でみんなそんなわかるんだよ」
「わかりやすい方だからでしょう」
そう言いながら、麗華は朔也の胸元へ手を伸ばした。
シャツの襟を整える。
何でもないふうを装ったその接触が、今の朔也には少しだけ重い。
「何か、玲奈さんに言われた?」
その名前が出た瞬間、朔也の肩がわずかに揺れた。
麗華はそれだけで十分だったらしい。
ふっと目を細める。
「やっぱりね」
「…何でわかるんだよ」
「最近のあなたは、隠そうとすると逆に顔へ出るもの」
図星すぎる。
朔也は小さく息を吐き、ソファへ腰を下ろした。
麗華は向かいではなく、いつものように少し斜めの位置へ座る。
真正面より逃げ道がない角度だ。
「何を言われたの?」
麗華が聞く。
「…私だけ見て、みたいなやつ」
「それは言うでしょうね」
驚きもしない。
当然みたいに受け止める。
「で、答えられなかったのね」
麗華のほうが続きを言った。
朔也は返事の代わりに視線を逸らした。
「そういう顔よ」
麗華が静かに言う。
「本当にわかりやすい」
「笑うなよ」
「笑っていないわ」
でも、少しだけ優しい声音だった。
それが今は逆につらい。
「…お前は」
朔也が言う。
「そういうこと言わないのか」
「何を?」
「私だけ見て、とか」
麗華は少しだけ考えるように沈黙した。
「言ってほしいの?」
「そういう意味じゃない」
「でも、聞いたでしょう」
その通りだった。
玲奈のまっすぐさが痛かったから、麗華のほうはどうなのかと確かめたくなった。
同じように求めてくるのか。
それとも違うのか。
「…私は」
麗華がゆっくり言う。
「最後に選ばれたいとは、別に思わない」
その答えは、前にも聞いた気がする。
でも今聞くと、前よりずっと重い。
「じゃあ何だよ」
「曖昧なまま抱かれ続けるのが嫌なだけ」
静かな声だった。
静かなのに、妙に刺さる。
朔也はしばらく何も言えなかった。
麗華はそれ以上急かさず、ただグラスへ水を注いだ。
氷が小さく鳴る。
「飲んで」
差し出される。
受け取る。
水は冷たかった。
でも、その冷たさは胸の奥まで届かない。
「…お前は、何でそんな平気なんだよ」
ぽつりと漏れる。
「平気に見えるの?」
「見える」
「それは、そう見せているから」
麗華は薄く笑った。
「平気なわけがないでしょう」
その一言に、朔也は初めてちゃんと麗華を見た。
この女は、いつも整っている。
崩れても、また戻る。
だから勝手に、傷つきにくいのだと思っていたのかもしれない。
でも、そんなわけがない。
玲奈と同じで、麗華にも感情がある。
ただ見せ方が違うだけで。
「…悪い」
また謝ってしまう。
麗華はそこで少しだけ眉を寄せた。
「その癖、本当に便利ね」
「何が」
「謝れば少しは軽くなると思っているところ」
言い返せない。
その通りだからだ。
前の世界から、ずっとそうだった。
何かがまずくなった時、先に謝っておけば自分の居場所が完全には消えない気がしていた。
でも今は、その謝罪が誰も救わない。
「軽くならないわよ」
麗華が静かに言う。
「少なくとも、そういう問題ではないもの」
胸の奥が少しずつ重くなる。
ここに来たのは、たぶん逃げたかったからだ。
玲奈の重さから。
自分の最低さから。
麗華ならもっと上手く、綺麗に熱へ変えてくれると思っていた。
でも、この女もちゃんと見ている。
「…それでも」
朔也の視線が、麗華の喉元へ落ちる。
「お前のことは、普通に欲しいんだよ」
言ってしまってから、自分で最悪だと思う。
でも本音だった。
麗華は黙る。
その沈黙のあいだに、部屋の空気が少しだけ濃くなる。
「それは」
やがて麗華が言う。
「わかっているわ」
少しだけ身を乗り出す。
「だから厄介なの」
声が低くなる。
「あなたは、欲しい時の顔だけは嘘がないもの」
その言葉に、腹の奥がまた熱を持つ。
最低だと思っているのに、欲は消えない。
麗華の首筋も、喉元も、整った胸元も、やっぱり見れば欲しくなる。
熱と自己嫌悪が、今はもう同時にある。
麗華の指が、朔也の頬へ伸びた。
「ねえ」
「何」
「今日は、どうしたいの」
問い方がずるい。
抱きたいのか。
抱かれたいのか。
話したいのか。
壊したいのか。
全部を含んだ問いだ。
朔也は少しだけ目を閉じた。
「…正直に言うと」
「ええ」
「お前を見てると、まだ普通に欲しくなる」
麗華の睫毛が揺れる。
「胸とか、首とか、脚とか。そういうの見て、普通に触りたいって思う」
「…下品ね」
その返しは、前と同じだった。
でも声の温度が少し違う。
責めるというより、痛みを含んでいる。
「知ってる」
「ええ、知ってる」
麗華は頷いた。
「でも」
頬へ触れていた指が、今度は顎の線をなぞる。
「今日は、その下品さでごまかさないで」
その言葉が、思った以上に深く刺さる。
「…ごまかしてるつもりは」
「あるわ」
麗華が遮る。
「欲望は本物でしょう」
「…」
「でも、欲望の勢いで考えないようにしていることもある」
図星だった。
玲奈のこと。
自分の最低さのこと。
澪の静けさが最後に残ること。
そういうもの全部を、今まで“欲しい”で押し流してきた。
麗華はそれを見抜いている。
「…何でそこまでわかるんだよ」
「あなたが、あまりにもわかりやすいから」
少しだけ寂しそうに笑う。
「それに、私も同じように使われる側だから」
その一言で、朔也の胸がきゅっと縮む。
使われる側。
自分がそれをはっきり言われたのは、たぶん初めてだった。
玲奈も、紗良も、薄くは見抜いていたかもしれない。
でも麗華は、そこを綺麗に言葉にする。
「怒らないのか」
朔也が聞く。
麗華は少しだけ首を傾げた。
「怒ってほしい?」
「…わかんない」
「なら、怒らないわ」
淡々としている。
でもその静けさが、むしろ痛い。
「だって、あなたは最初からずっとそうだったもの」
「…」
「欲しがられることで埋めて、自分も欲しがって、少しだけ満たされた気になる」
麗華の目がまっすぐこちらを見る。
「私も、その一部だった」
言い返せない。
その通りだからだ。
「でも」
麗華が続ける。
「それでも私を欲しいと思うのは、本物でしょう」
また、そこだ。
欲は本物。
でも、それだけでは足りない。
その両方が同時にある。
「だから余計に厄介なのよ」
麗華は小さく笑った。
その笑いがひどく綺麗で、そして少しだけ痛々しい。
「…お前、ずるいな」
「何が」
「そうやって全部わかってる顔するの」
「全部はわかっていないわ」
麗華はそう言って、ゆっくり立ち上がった。
「ただ、あなたが今、誰を見ているのか」
少し間を置く。
「まだ決めきれていないことくらいは、わかる」
その一言のあと、麗華は自分から近づいてきた。
キスできる距離。
でも、すぐには触れない。
「今日は」
低い声。
「このまま抱かれてもいいわ」
心臓が跳ねる。
「でも、たぶんあなたは余計に苦しくなる」
その通りかもしれない。
欲しい。
今この場でも、麗華の首筋や胸元を見れば普通に熱くなる。
抱けばたぶん、体はちゃんと満たされる。
でも、そのあとに来るものまで、今はもう見えてしまう。
「…何でそんな言い方するんだよ」
「大人だから」
あっさり言って、麗華は少しだけ笑った。
「あなたよりはね」
悔しいのに、言い返せない。
麗華はそのまま、朔也の頬へ軽くキスを落とした。
「今日はここまで」
「…」
「欲しい気持ちは、否定しないでいい」
そして、少しだけ距離を取る。
「でも、曖昧なまま抱かれ続けるのは嫌」
前よりはっきりした言葉だった。
「それだけよ」
その静かな拒否が、思った以上に堪える。
抱かれなかったことが、ではない。
自分の最低さを、ちゃんと理解したうえで線を引かれたことが。
それは玲奈のまっすぐさとはまた別の痛みだった。
◇
帰りのエレベーターの中、鏡に映った自分の顔を見て、朔也は少しだけ目を逸らした。
最低だ。
その認識が、前より少しずつ輪郭を持ってくる。
玲奈を傷つけて。
麗華にも見抜かれて。
それでもまだ、澪の静けさを求めている。
何をしたいのか、自分でも全部はわからない。
でもひとつだけわかるのは、前みたいにただ熱へ飛び込んでいればいい段階は、もう終わり始めているということだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




