累久の日々
見ると、テレジアが聖遺物「鈍白の霹靂」を抱えて逃げようとしている。
「お前はテレジアを追え。私はイレーネを追いかける」
ソマスはそう指示を出すと、モーガンは黙って頷き、聖遺物を追うべく駆け出した。なぜその時、イレーネを追うことにしたのか分からない。聖遺物を取り戻すことは十字軍にとって喫緊の課題であったが、ソマスは何となくイレーネの方を自らの足で追いたかった。
イレーネは既に結構遠くまで走っていた。方角的に、市へと向かっている。人ごみに紛れてソマスらを撒いた後、どこかでテレジアと合流するつもりなのだろう。こういう事態を想定して、予め落ち合う場所など決めているに違いない。イレーネは迷いなく真っすぐに駆けていく。
(こんな追いかけっこをしたのは何年ぶりだろうか……)
戦場から離れて一年半経つとはいえ、ソマスはちゃんと鍛えていたので、簡単に息が上がるということはなかった。しかし、単純に足の速さでイレーネに勝てる気がしなかった。彼女の姿が、だんだんと遠ざかっていく。掴みかけていたものが手から零れ落ちていく。そんな感じがしてソマスは深い絶望感に襲われた。
一方、イレーネの方も、テレジアと過ごした穏やかな日常が失われかけて焦っていた。防衛十字軍を裏切ってまで勝ち取ったこの日々を奪われてなるものか。彼女の脳内には、初めてこの地を訪れた時のことが蘇っていた。
*
一年半前。聖地カナーノキアを脱出したイレーネとテレジアは、ファヤー港の更に南にある小さな漁村で小舟を調達した。防衛十字軍の衣装を身に着けたイレーネが堂々とした態度で命じると、村民は一切疑うことなく舟を用意してくれた。
「ご苦労。代金はカナーノキアの然るべき行政庁まで請求してくれ」
イレーネはそう言い残したが、村民がカナーノキアに訪れた時にはそこの支配者はもうチェルシャラン朝に変わっていた。
定員が五名ほどの小さな舟に二人きりで乗り、広い魁湖を進んでいく。村民たちも、まさかイレーネたちがこれで魁湖横断を試みているなどとは夢にも思うまい。イレーネは櫂を漕ぎながら、不安そうにしているテレジアに優しく笑いかけた。
「大丈夫だよ、何とかなるから。いや、私が何とかするから」
それを聞くと、テレジアは少し微笑んだ。正直なところ、テレジアはとても幸せだった。勿論、自分たちがこれからどうなっていくんだろうという心配はある。だけど、イレーネが自分だけを見ていてくれるこの空間、この広い世界で二人きりでいられる場所が、彼女にとってはこの上なく心地良かった。もう、ここで死んでも構わないと思えるくらいに。
しかし結局、彼女たちは生き残った。イレーネの操る神秘術"ラファエルの戒飭"のお陰で、灯りと暖には常に困らなかった。それと途中、小島に二度ほど遭遇して食べられそうなものを採取できたのが幸いだった。そして積み込んだ食糧もなくなりかけた頃、二人はポッドス地方某所の湖岸に流れ着いた。
「思ったより南に来てしまったね」
できればシルキ港に行きたかった。人がそこそこ多いところの方が身を隠しやすいというのが、イレーネの見立てだった。
「仕方ない。近くに村が無いか、見て回ろう」
湖岸から少し上がったところに細い道があったので、それを辿って歩いてみることにした。すると半日も経たないうちに小さな村が出現した。二人が近づいていくと、すぐさま村民たちが飛び出してきて珍しそうに二人を観察してきた。
ポッドス人はズィーメリー人やシュレーン人より平均的に背が高く、褐色の肌をしている。目の色は宝石のように青く、耳の形はやや尖っていた。そんな彼らからしてみたら、イレーネたちの方が異形なのだろう。好奇心たっぷりといった顔でまじまじとこちらを見つめてくる。だがテレジアは物怖じせず、彼らの前に進み出ると、ものを口の中に入れる動作をしてみせた。ポッドス人らはすぐにその意味を理解し、家の中から果物や干し肉を出してきた。
その親切な村に、イレーネたちは十日ほど滞在した。語学に堪能なイレーネも流石にポッドス地方の言葉までは分からず、言語によるコミュニケーションは不可能だったが、意思疎通は何とか出来た。イレーネはふらっと山に分け入って獣を狩ってきて、村民たちに喜ばれた。テレジアもその獣をさっと調理し、村の人々にも分けてあげたりした。
「もしかしたら、シルキ港まで行く必要は無いかもしれないね」
イレーネがそんなことを言い出すくらいに、二人は村に馴染んでいた、ように見えた。
ある夜、村民に貸し与えられた小屋で二人が寝ていると、急に三人の男が突然小屋の中に押し入ってきた。イレーネたちが小金を持っていると思ったのか、それとも色欲に狂ったのかは分からないが、イレーネはすぐに剣を手に取ると、たちまち三人を斬り伏せた。不埒者の死体を足元に見下ろしながら、彼女はがっくりと肩を落とした。
「……もうここにはいられないな」
その夜のうちに、二人は村を出発した。出ていくついでに食糧をたっぷり持ち出してきたので、道中食べるものに困ることは無かった。
シルキ港へ。今度は村に遭遇しても歩みを止めることは無い。二人はただ北に向かって進んだ。そして、ついに念願のシルキ港へと辿り着いたのだった。
思った通り港町には人が多く、皆ズィーメリー人など見慣れているようでイレーネたちの姿を見ても誰も騒ぎ立てなかった。ただ、不動産を紹介するポッドス人の商人に、ここに住みつきたいと申し出た時は、流石に怪訝な顔をされた。
「商売するわけでもないのにここに住みたいなんておかしな奴だな。まるで犯罪者の逃亡生活みたいだ」
共通語ラティナを喋れるそのポッドス人は、それでも貸せる家を紹介してくれた。「ま、女二人が逃亡犯なわけないか」彼は独りごちた。
案内されたのは、港町からだいぶ坂を上がったところにある、土壁と草葺き屋根で出来た粗末な家だった。
「ここなら、家賃はほぼタダだ。二人揃ってお金がほとんど無いというのだから、まあ貸せる家はここしかない」
テレジアがちょっと嫌そうな顔をしていると、そのポッドス人は
「勿論、対価さえ払えばもっと良いところを紹介してあげられるよ。例えば、その懐に大事そうに抱えているものと引き換えなら」
と言ってイレーネの胸元を指さした。そこには、カナーノキアから持ち出した聖遺物「鈍白の霹靂」が仕舞ってあり、その光が服の中から微かに漏れ出ていた。
「ありがとう。でも、ここで大丈夫です」
イレーネが僅かながら剣の柄に手をかけると、そのポッドス人は怯えてそれ以上詮索してこなくなった。
こうして、二人だけの新しい生活が始まった。相変わらず、イレーネは猟をしてくるのばかりが得意で、農作業やその他家内工業などは全くしなかった。テレジアはイレーネが狩ってきた獣を肉や毛皮に加工して市に売りに行く。そして、得た金で日用品や食糧を買って持って帰るのだった。なるべく人前に姿を晒さないよう、買い物はできるだけ一度に大量に買い込むようにしていた。ポッドス地方とはいえ、いつどこでシュレーン王国やビタリー帝国本領から来た者と遭遇するかも分からない。
テレジアが市から帰ってくると、だいたいイレーネの方が先に業をなし終えて家で待っていた。そこからが、二人の幸せな時間の始まりだった。イレーネが取ってきた肉とテレジアが買ってきたその他の食材を合わせて、二人一緒に調理をする。そして食事をしながら談笑し、食後の時間はまったりと過ごすと、二人は同じ寝床に入った。




