桜界
影が動いた。
黒い輪郭が廊下を滑るように広がる。
まるで光を喰らう染みだった。
「龍神因子確認」
「優先排除対象へ変更」
感情のない声。
人の言葉を模しているだけの何か。
龍真は静かに前へ出る。
背後には美月。
逃がす時間を稼ぐ。
それだけなら十分だった。
「龍真!」
「下がっていろ」
影が襲いかかる。
床を這うように伸びた黒が足元へ迫った。
その瞬間。
龍真の身体が消えた。
正確には。
常人には見えない速度で移動した。
影が床を貫く。
しかしそこに龍真はいない。
数メートル離れた場所に立っていた。
美月が目を見開く。
「え……?」
龍真は答えない。
右手を軽く前へ出す。
「散れ」
短い言葉。
空気が震えた。
目に見えない衝撃が放たれる。
黒い影が吹き飛ぶ。
壁へ叩きつけられた影は苦しむように歪んだ。
「神格干渉確認」
「龍神系統」
影の声に初めて動揺が混じる。
龍真は表情を変えない。
(弱い)
だが。
数が増えている。
廊下の奥。
教室の影。
窓の反射。
至る所から黒い輪郭が現れ始めていた。
「まずいですね」
白狐が呟く。
いつの間にか美月の肩に乗っている。
「侵食体が結界内に固定されました」
「固定?」
「消しても再生します」
美月が青ざめる。
「それってどうするの?」
白狐は珍しく即答しなかった。
代わりに。
黄金色の瞳を美月へ向ける。
「契約者が拒絶するしかありません」
「え?」
意味が分からない。
だが。
その時だった。
一体の影が美月へ飛びかかる。
「美月!」
龍真が動く。
しかし間に合わない。
黒い腕が美月へ届く。
触れた。
その瞬間。
世界が白く染まった。
桜だった。
無数の花びら。
春の嵐のような桜吹雪。
校舎の中であるはずなのに。
季節外れの花びらが空間を埋め尽くす。
影が悲鳴を上げた。
「認識不能」
「解析不能」
「拒絶反応――」
声が途切れる。
影の身体が崩れていく。
燃えるのではない。
消えるのでもない。
桜へ還元されていく。
花びらとなって散っていく。
龍真は息を呑んだ。
(これが……)
白狐が静かに告げる。
「桜界」
「木花咲耶姫因子の初期発現です」
美月自身が一番驚いていた。
「私が……やったの?」
白狐が頷く。
「はい」
「あなたが拒絶した結果です」
「拒絶?」
「存在そのものを」
美月は理解できなかった。
ただ一つだけ分かった。
自分の中で何かが目覚めた。
そして。
それは決して普通の力ではない。
龍真が美月を見る。
桜吹雪の中心。
そこに立つ少女は。
一瞬だけ。
神話の中の存在のように見えた。
だが。
次の瞬間には。
「え、えええええっ!?」
本人が一番混乱していた。
龍真は小さく息を吐く。
(……いつもの美月か)
少しだけ安心した。
しかし。
誰も気づいていなかった。
校舎の最上階。
誰もいないはずの窓から。
何かがこちらを見ている。
人の形をした影。
だが先ほどの侵食体とは違う。
それは静かに呟いた。
「発見」
「神殺し候補個体」
黄金の瞳が細くなる。
「回収対象へ指定」
その声は誰にも届かない。
ただ。
桜が一枚だけ逆方向へ舞った。




