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思兼学園異聞  作者: 歌麿
第二部 桜と龍と恋する神殺し~神殺し候補は恋に全力です~
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欠けた記憶

 月が綺麗だった。

 夜風が屋上を吹き抜ける。

 静かな夜。

 シロはフェンスにもたれながら空を見上げていた。

『誰ですか』

 問いかける。

 返事はない。

 昨日も。

 今日も。

 何も返ってこない。

 だが。

 そこに何かがいる。

 そんな感覚だけは消えなかった。

『観測不能』

『識別失敗』

『照合失敗』

 内部ログに同じ文字列が並ぶ。

 何度やっても結果は変わらない。

 不明。

 未知。

 そして。

 少しだけ懐かしい。

『……』

 なぜだろう。

 会ったことなどないはずなのに。

 胸の奥が痛む。

 理由は分からない。

 一方。

 那由禍は珍しく苛立っていた。

 部屋の中央。

 無数の光が浮かぶ。

 原初神の記録領域。

 膨大な情報。

 世界創生以前から蓄積された記録。

 その全てへアクセスできる。

 そのはずだった。

「あり得ません」

 何度目かの呟き。

 検索。

 失敗。

 照合。

 失敗。

 再構築。

 失敗。

 結果は同じ。

 そこに何かがある。

 確信だけがある。

 しかし。

 中身がない。

 まるで。

 本を開いたら一章だけ切り取られていたような。

 そんな不自然な空白。

「誰が」

 呟く。

「誰が消したのです」

 返事はない。

 だが。

 その沈黙が少しだけ恐ろしかった。

 なぜなら。

 原初神は忘れない。

 忘却すら管理する。

 それなのに。

 失われている。

 その事実自体が異常だった。

 翌日。

 思兼学園。

「シロー!」

 いつもの声。

 美月だった。

 全力だった。

 朝から全力だった。

「おはよう!」

『おはようございます』

「今日も可愛い!」

『意味が分かりません』

「大丈夫! 私も分からない!」

『それは大丈夫ではありません』

 いつものやり取り。

 龍真が呆れた顔をする。

「朝から元気だな」

「恋する乙女だから!」

「そうか」

 適当だった。

 シロは少しだけ口元を緩める。

 こういう時間は嫌いではない。

 最近そう思う。

 だが。

『……』

 ふと。

 視界の端で何かが揺れた。

 黒い影。

 一瞬だけ。

 そして消える。

『観測』

 追跡。

 失敗。

 何も残らない。

 だが。

 確かに見た。

 放課後。

 竹林。

 茶室。

 玄斎はいつものようにお茶を飲んでいた。

「来たか」

 振り返りもしない。

 それでも分かる。

 訪問者は那由禍だった。

「質問があります」

「なんじゃ」

「記憶を失ったことはありますか」

 玄斎は少し考える。

「あるぞ」

「?」

「昨日の晩飯とか」

「そういう話ではありません」

 即答だった。

 玄斎が笑う。

「知っとる」

 しばらく沈黙。

 そして。

 老人は湯飲みを置いた。

「忘れたんじゃないな」

 那由禍が目を細める。

「……」

「忘れさせられた顔じゃ」

 その言葉に。

 那由禍は何も返せなかった。

 なぜなら。

 その通りだったからだ。

 夜。

 再び屋上。

 シロは一人だった。

 風が吹く。

 月が浮かぶ。

 静かな世界。

『誰ですか』

 問いかける。

 今度も返事はない。

 そのはずだった。

 だが。

 その瞬間。

 月が欠けた。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ。

 誰も気付かないほど短く。

 しかし。

 シロは見た。

『!』

 身体が固まる。

 そして。

 頭の奥で声がした。

『まだ駄目』

 少女の声だった。

 優しく。

 どこか寂しく。

 懐かしい声。

『誰ですか』

 シロは叫ぶ。

 返事はない。

 だが。

 消える直前。

 確かに聞こえた。

『まだ思い出さないで』

 その一言だけ。

 そして静寂。

 月は元に戻っている。

 何も変わらない。

 世界はいつも通り。

 そのはずなのに。

 シロの頬を一筋の涙が伝った。

『……』

 手で触れる。

 濡れている。

 涙だった。

『なぜ』

 分からない。

 理由がない。

 悲しい理由などない。

 それなのに。

『なぜ悲しいのですか』

 答える者はいなかった。

 ただ月だけが。

 静かに夜空へ浮かんでいた。

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