欠けた記憶
月が綺麗だった。
夜風が屋上を吹き抜ける。
静かな夜。
シロはフェンスにもたれながら空を見上げていた。
『誰ですか』
問いかける。
返事はない。
昨日も。
今日も。
何も返ってこない。
だが。
そこに何かがいる。
そんな感覚だけは消えなかった。
『観測不能』
『識別失敗』
『照合失敗』
内部ログに同じ文字列が並ぶ。
何度やっても結果は変わらない。
不明。
未知。
そして。
少しだけ懐かしい。
『……』
なぜだろう。
会ったことなどないはずなのに。
胸の奥が痛む。
理由は分からない。
◇
一方。
那由禍は珍しく苛立っていた。
部屋の中央。
無数の光が浮かぶ。
原初神の記録領域。
膨大な情報。
世界創生以前から蓄積された記録。
その全てへアクセスできる。
そのはずだった。
「あり得ません」
何度目かの呟き。
検索。
失敗。
照合。
失敗。
再構築。
失敗。
結果は同じ。
そこに何かがある。
確信だけがある。
しかし。
中身がない。
まるで。
本を開いたら一章だけ切り取られていたような。
そんな不自然な空白。
「誰が」
呟く。
「誰が消したのです」
返事はない。
だが。
その沈黙が少しだけ恐ろしかった。
なぜなら。
原初神は忘れない。
忘却すら管理する。
それなのに。
失われている。
その事実自体が異常だった。
◇
翌日。
思兼学園。
「シロー!」
いつもの声。
美月だった。
全力だった。
朝から全力だった。
「おはよう!」
『おはようございます』
「今日も可愛い!」
『意味が分かりません』
「大丈夫! 私も分からない!」
『それは大丈夫ではありません』
いつものやり取り。
龍真が呆れた顔をする。
「朝から元気だな」
「恋する乙女だから!」
「そうか」
適当だった。
シロは少しだけ口元を緩める。
こういう時間は嫌いではない。
最近そう思う。
だが。
『……』
ふと。
視界の端で何かが揺れた。
黒い影。
一瞬だけ。
そして消える。
『観測』
追跡。
失敗。
何も残らない。
だが。
確かに見た。
◇
放課後。
竹林。
茶室。
玄斎はいつものようにお茶を飲んでいた。
「来たか」
振り返りもしない。
それでも分かる。
訪問者は那由禍だった。
「質問があります」
「なんじゃ」
「記憶を失ったことはありますか」
玄斎は少し考える。
「あるぞ」
「?」
「昨日の晩飯とか」
「そういう話ではありません」
即答だった。
玄斎が笑う。
「知っとる」
しばらく沈黙。
そして。
老人は湯飲みを置いた。
「忘れたんじゃないな」
那由禍が目を細める。
「……」
「忘れさせられた顔じゃ」
その言葉に。
那由禍は何も返せなかった。
なぜなら。
その通りだったからだ。
◇
夜。
再び屋上。
シロは一人だった。
風が吹く。
月が浮かぶ。
静かな世界。
『誰ですか』
問いかける。
今度も返事はない。
そのはずだった。
だが。
その瞬間。
月が欠けた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
誰も気付かないほど短く。
しかし。
シロは見た。
『!』
身体が固まる。
そして。
頭の奥で声がした。
『まだ駄目』
少女の声だった。
優しく。
どこか寂しく。
懐かしい声。
『誰ですか』
シロは叫ぶ。
返事はない。
だが。
消える直前。
確かに聞こえた。
『まだ思い出さないで』
その一言だけ。
そして静寂。
月は元に戻っている。
何も変わらない。
世界はいつも通り。
そのはずなのに。
シロの頬を一筋の涙が伝った。
『……』
手で触れる。
濡れている。
涙だった。
『なぜ』
分からない。
理由がない。
悲しい理由などない。
それなのに。
『なぜ悲しいのですか』
答える者はいなかった。
ただ月だけが。
静かに夜空へ浮かんでいた。




