理解できない人生
竹林は静かだった。
風が吹く。
葉が擦れる。
遠くで鳥が鳴く。
それだけ。
世界は何も変わらない。
だが。
その静けさの中へ。
一人の来訪者がいた。
「来たか」
茶室の縁側。
玄斎は湯飲みを手に笑った。
まるで昨日の続きのように。
まるで昔からの知人のように。
そこにいた。
那由禍は少し考える。
理解できない。
敵である。
原初神第一柱である。
警戒するべきである。
そのはずなのに。
老人は何も変わらない。
「来ました」
そう答えると、
玄斎は頷いた。
「座れ」
それだけだった。
◇
碁盤が置かれる。
黒石。
白石。
昨日と同じ。
いや。
少し違う。
今日は那由禍の方から来た。
理由は分からない。
理解したいと思ったのか。
観察を続けたいと思ったのか。
それとも。
別の何かか。
本人にも分からない。
石が置かれる。
カチリ。
静かな音。
それが会話の始まりだった。
◇
「質問があります」
しばらくして、
那由禍が言った。
「ほう」
玄斎は盤を見たまま答える。
「あなたは多くを失った」
石を置く手が止まる。
ほんの一瞬だけ。
だが。
止まった。
「そうじゃな」
否定しない。
言い訳もしない。
ただ認める。
「仲間も」
「そうじゃ」
「家族も」
玄斎は空を見る。
夕暮れだった。
少しだけ。
本当に少しだけ。
昔を思い出すような顔をした。
「そうじゃな」
静かな声だった。
◇
「なぜ」
那由禍が問う。
「なぜ絶望しないのです」
風が吹く。
竹が鳴る。
玄斎は笑わなかった。
茶化さなかった。
しばらく黙る。
そして。
「したぞ」
那由禍が止まる。
思考が止まる。
予想外だった。
「……」
「何度ものう」
玄斎は笑う。
だが。
その笑顔は少しだけ寂しかった。
「全部投げ出したくなったこともある」
「逃げたくなったこともある」
「後悔したこともある」
石を置く。
カチリ。
「人間じゃからな」
その声には。
長い時間があった。
言葉にできないほど長い時間が。
◇
那由禍は黙って聞いている。
理解できない。
原初神は絶望しない。
苦悩しないわけではない。
だが。
折れない。
揺らがない。
変わらない。
それが神だ。
しかし。
目の前の老人は違う。
何度も折れたと言う。
何度も絶望したと言う。
それなのに。
なぜここにいる。
「なぜ立ち上がるのです」
今度は本当に楽しそうに。
「立ち上がっとらん」
「?」
「転び慣れただけじゃ」
那由禍は黙る。
また理解できない。
しかし。
なぜか忘れられない言葉だった。
◇
囲碁は続く。
白と黒。
陣地を取り合う。
勝敗は少しずつ見え始めていた。
那由禍が優勢。
合理的に考えれば。
勝つ。
そのはずだった。
だが。
玄斎は妙な手を打つ。
損な手。
危険な手。
普通なら選ばない手。
「その手は悪手です」
「そうかもしれん」
「勝率が下がります」
「そうじゃろうな」
「ならばなぜ」
玄斎は石を置く。
カチリ。
「打ちたいからじゃ」
那由禍は額を押さえた。
本当に押さえた。
初めてだった。
神が頭を抱えたのは。
「理解できません」
「そうか」
「理解できるようになる気もしません」
「それでええ」
即答だった。
◇
日が沈む。
空が赤く染まる。
囲碁も終盤。
そして。
玄斎がぽつりと言った。
「生きる理由なんぞ後から見つかる」
那由禍が顔を上げる。
「理由なく生きるのですか」
「皆そうじゃ」
「非合理です」
「そうじゃろうな」
「危険です」
「そうじゃろうな」
玄斎は笑った。
いつものように。
穏やかに。
「理由があるから生きるんじゃない」
一拍。
「生きとるうちに理由ができるんじゃ」
風が吹いた。
竹林が揺れる。
その言葉は。
なぜか。
那由禍の中に残った。
理解できない。
理解できないはずなのに。
消えなかった。
◇
やがて対局が終わる。
玄斎が石を片付ける。
那由禍は盤を見る。
負けていた。
いつの間にか。
静かに。
自然に。
「負けました」
玄斎は頷く。
「そうか」
それだけ。
勝ち誇らない。
自慢しない。
ただ受け入れる。
それが妙に印象に残った。
那由禍は立ち上がる。
帰るために。
そして。
少しだけ振り返った。
「玄斎」
「なんじゃ」
「あなたも興味深い」
玄斎が笑う。
「そうか」
数秒。
沈黙。
そして那由禍は付け加える。
「シロほどではありませんが」
玄斎は盛大に吹き出した。
「比較対象がおかしいわ!」
竹林に笑い声が響く。
那由禍は首を傾げた。
本気で分からないという顔で。
その姿を見て。
玄斎はまた笑った。
そして。
那由禍も。
ほんの少しだけ。
笑った気がした。




