理解できない老人
夕暮れだった。
思兼学園の裏山。
竹林の奥。
そこには古い茶室がある。
学園の生徒でも知る者は少ない。
さらに。
その場所へ自分から足を運ぶ者はほとんどいない。
静かすぎるからだ。
風しかいない。
鳥しかいない。
時間だけがゆっくり流れている。
そして今日も。
老人が一人いた。
玄斎。
思兼学園理事長。
湯飲みを手に縁側へ座っている。
目の前には碁盤。
そして。
向かいの席には誰もいない。
普通なら。
「来たなら座れ」
老人は言った。
独り言のように。
風へ話しかけるように。
数秒。
沈黙。
そして。
「気付いていましたか」
声だけが現れる。
次の瞬間。
一人の男がそこにいた。
白い装束。
長い黒髪。
穏やかな微笑み。
原初神第一柱。
那由禍。
「気付かん方が問題じゃ」
玄斎は湯飲みを一つ押し出した。
「飲むか」
「毒は?」
「入っとらん」
「残念です」
「何がじゃ」
玄斎は思わず笑った。
那由禍は本気だった。
本当に少し残念そうだった。
「変な奴じゃのう」
「よく言われます」
「誰にじゃ」
「シロに」
玄斎は吹き出した。
「それは褒め言葉ではないぞ」
「そうなのですか」
「そうじゃ」
那由禍は少し考えた。
本当に少しだけ。
「では訂正します」
「せんでよい」
玄斎は即答した。
◇
しばらく二人は黙っていた。
茶を飲む。
風が竹を揺らす。
カラン。
どこかで鹿威しが鳴る。
静かだった。
世界を滅ぼしかねない存在同士とは思えないほど。
「目的は何じゃ」
玄斎が聞く。
「観察です」
「誰を」
「人間を」
「飽きんのか」
「飽きません」
即答だった。
「なぜじゃ」
「理解できないので」
玄斎は少しだけ目を細める。
面白そうに。
「ほう」
「特に最近は」
「シロですか」
「シロです」
断言した。
迷いゼロだった。
玄斎が笑う。
「難儀じゃのう」
「非常に」
真顔だった。
本当に困っているらしい。
「理解できないのです」
「どの辺がじゃ」
「全部です」
玄斎はもう一度笑った。
老人の笑い声が竹林へ消えていく。
◇
「打つか」
玄斎が碁笥を開く。
白石。
黒石。
碁盤。
那由禍はそれを見た。
「囲碁ですか」
「嫌か?」
「いえ」
「座れ」
那由禍は向かいへ腰を下ろした。
黒石を取る。
盤へ置く。
カチリ。
静かな音。
それだけなのに。
なぜか空気が変わる。
会話ではなく。
盤上で話す時間が始まった。
◇
「その手は損です」
数十分後。
那由禍が言った。
玄斎は石を置く。
カチリ。
「そうじゃろうな」
「勝率が下がっています」
「じゃろうな」
「ならばなぜ」
玄斎は笑った。
「面白いからじゃ」
那由禍が止まる。
本当に止まる。
思考している。
解析している。
だが。
答えが出ない。
「面白い」
「そうじゃ」
「勝率より重要ですか」
「時と場合による」
「曖昧です」
「人生はそんなもんじゃ」
那由禍は黙った。
理解できない。
そのはずだった。
なのに。
なぜか席を立とうとは思わなかった。
◇
日が沈み始める。
竹林が赤く染まる。
囲碁は続いていた。
その途中。
玄斎がふと尋ねる。
「おぬし」
「はい」
「寂しいか」
那由禍の手が止まる。
初めてだった。
その問いを受けたのは。
「……」
数秒。
沈黙。
そして。
「分かりません」
正直な答えだった。
玄斎は頷く。
「そうか」
それ以上聞かない。
答えを強要しない。
ただ受け止める。
それだけだった。
那由禍には。
その方が理解できなかった。
夕暮れの茶室。
老人と神。
碁盤の上には白と黒。
だが。
本当に交わされていたのは石ではない。
言葉でもない。
もっと曖昧で。
もっと人間らしい何かだった。
那由禍はまだ理解できない。
そして。
玄斎もまた、
理解させるつもりはなかった。




