観測者の誤算
夢を見ない神はいない。
少なくとも那由禍はそう考えていた。
夢とは可能性。
夢とは願望。
夢とは心の投影。
人間も。
神も。
世界さえも。
すべて夢を見る。
だから観察できる。
だから理解できる。
そのはずだった。
「理解できません」
白い空間の中で那由禍は呟いた。
誰もいない。
何もない。
ただ思考だけが存在する場所。
その中で。
一つの言葉だけが繰り返される。
ただいま
おかえり
理解できない。
なぜ。
あの短い言葉に価値がある。
なぜ。
あの白狐は幸福そうだった。
なぜ。
帰る場所という概念が存在する。
「……」
沈黙。
初めてだった。
観察対象が。
自分の思考を乱したのは。
◇
翌日。
思兼学園。
「シロー!」
元気な声が響く。
神楽坂美月だった。
シロは反射的に嫌な予感を覚える。
『警告』
『高確率で接触されます』
「逃げるなー!」
『予測通りです』
抱きつかれた。
『離れてください』
「断る!」
『理不尽です』
いつもの光景。
龍真はそれを見ながらため息をついた。
「朝から騒がしい」
「龍真も何か言って!」
「知らん」
平和だった。
少なくとも。
その瞬間までは。
◇
放課後。
風が吹いていた。
校庭では運動部の声が響いている。
帰宅する生徒達。
いつも通りの学園。
そのはずだった。
突然。
音が消えた。
「え?」
美月が立ち止まる。
風が止まっている。
木の葉が空中で静止していた。
運動場のボールも。
飛び上がった鳥も。
すべて。
止まっている。
『異常確認』
シロが即座に警戒する。
『時間系干渉』
『発生源特定完了』
振り返る。
校庭の中央。
一人の男が立っていた。
白装束。
黒髪。
穏やかな笑み。
那由禍。
原初神第一柱。
◇
「何したの!」
美月が叫ぶ。
那由禍は少し考えた。
「確認です」
「何の!?」
「私が間違っているのか」
沈黙。
今度は美月が固まる。
「は?」
「は?」
シロも同じ反応だった。
龍真だけが静かに見ている。
「何を確認する」
那由禍は空を見上げた。
「私は合理性を選びます」
「不要なものは捨てます」
「矛盾は排除します」
「それが正しい」
そこで言葉が止まる。
「そのはずでした」
初めてだった。
那由禍の声に迷いが混じったのは。
◇
視線がシロへ向く。
「あなたは理解できません」
『光栄ではありません』
「でしょうね」
少しだけ笑う。
「人間になりたい」
「でも今の自分も好き」
「矛盾しています」
『はい』
「非合理です」
『はい』
「正しくありません」
『そうかもしれません』
那由禍が眉をひそめる。
「ではなぜ」
「それを選ぶのです」
シロは考える。
本当に考える。
難しい質問だった。
論理だけでは答えられない。
けれど。
答えはあった。
『好きだからです』
沈黙。
那由禍が動きを止める。
『龍真が好きです』
美月が反応する。
「えっ」
『美月も好きです』
「えっ」
『今の生活も好きです』
『だからです』
静かだった。
あまりにも単純な答え。
理論もない。
証明もない。
合理性もない。
ただ。
好きだから。
それだけ。
◇
那由禍は黙っていた。
長い沈黙。
やがて。
「なるほど」
そう呟く。
だが。
理解した顔ではない。
むしろ逆。
さらに分からなくなった顔だった。
「危険です」
ぽつりと言う。
『何がですか』
「あなたです」
シロが首を傾げる。
「あなたは私を混乱させる」
『意味不明です』
「同感です」
那由禍自身もそう答えた。
そして。
少しだけ笑った。
初めて見せる。
本当に楽しそうな笑顔だった。
◇
次の瞬間。
風が戻る。
音が戻る。
世界が動き出す。
時間停止解除。
生徒達は何も気付いていない。
那由禍の姿も消えていた。
ただ。
最後に残った声だけが。
「シロ」
どこからともなく響く。
『何でしょう』
「また会いましょう」
『拒否します』
「残念です」
声は消える。
静寂。
美月がぽつりと言った。
「ねえ」
「今のって告白された?」
『違います』
「違うの?」
『たぶん』
「たぶんなんだ」
龍真が空を見上げる。
そして小さく呟いた。
「厄介なことになったな」
その言葉だけが。
やけに現実味を持っていた。




