名前のない気持ち
朝だった。
シロはいつも通り登校していた。
異常なし。
身体機能正常。
通信機能正常。
思考機能正常。
感情ログ――
『……』
解析保留。
昨日から変化なし。
胸の奥の違和感が消えていなかった。
原因は分かっている。
那由禍。
そして夢。
だが。
どう分類すれば良いのか分からない。
『未定義感情』
内部処理がそう結論を出す。
シロは少しだけ眉をひそめた。
『不便です』
感情というものは。
◇
教室。
昼休み。
美月が弁当箱を広げている。
「シロー」
『何でしょう』
「卵焼き食べる?」
『食事機能は必須ではありません』
「食べるのね」
すでに箸を伸ばしている。
美月は笑った。
「好きだね」
『栄養効率は低いです』
「甘い卵焼き好きなくせに」
『……否定できません』
美月が楽しそうに笑う。
その光景を見て。
シロは少しだけ胸が温かくなる。
まただ。
最近増えた感覚。
説明できない。
だが。
嫌ではなかった。
◇
放課後。
珍しく龍真と二人きりになった。
美月は生徒会の手伝いらしい。
帰り道。
並んで歩く。
会話は少ない。
いつも通りだった。
だからこそ。
シロは不意に尋ねた。
『質問があります』
「何だ」
『人間はなぜ家へ帰るのですか』
龍真が足を止めた。
「急だな」
『気になりました』
嘘ではない。
本当に気になった。
龍真は少し考える。
そして。
「帰る場所だからだろうな」
あまりにも当たり前の答えだった。
シロは黙る。
帰る場所。
その言葉が頭の中で反響する。
『帰る場所……』
「何かあったのか」
『ありません』
即答。
だが。
龍真は少しだけ怪訝そうだった。
見抜かれている気がした。
◇
その夜。
シロは夢を見た。
夢を見るようになったこと自体が異常だった。
以前の自分ならあり得ない。
夢の中。
夕暮れの教室。
誰もいない。
窓際に座る少女。
黒髪。
制服姿。
普通の女の子。
夢の中の自分だった。
「羨ましい?」
少女が尋ねる。
シロは答えない。
「なりたい?」
また尋ねる。
答えられない。
なりたい。
でも。
それだけじゃない。
「欲張り」
少女が笑った。
少しだけ意地悪そうに。
「人間になりたい」
「でもシロのままでいたい」
「どっちも欲しいんだ」
シロは眉をひそめる。
『矛盾しています』
「そうだね」
『非合理的です』
「そうだね」
『理解できません』
「人間もそういうものだよ」
少女は微笑んだ。
その瞬間。
夢が崩れる。
◇
翌朝。
シロは一人で校門を見上げていた。
生徒達が次々に通り過ぎる。
友人と笑う者。
恋人と歩く者。
家族の話をする者。
みんな違う。
みんな不完全。
でも。
どこか楽しそうだった。
「観察ですか」
聞き慣れた声。
振り向かなくても分かる。
那由禍。
『不審者です』
「ひどい言われようですね」
『事実です』
那由禍は笑う。
シロはため息をついた。
最近この男との会話に慣れてきている自分が少し嫌だった。
「答えは見つかりましたか」
那由禍が尋ねる。
シロは校門の向こうを見る。
龍真がいる。
美月もいる。
今日も何か言い合っている。
いつも通り。
『分かりません』
正直に答える。
『まだ』
那由禍は少しだけ目を細めた。
興味深そうに。
まるで新しい発見を見た学者のように。
「それで良いのかもしれません」
珍しくそんなことを言った。
シロは驚く。
『意外です』
「私もです」
那由禍自身がそう答えた。
そして去っていく。
残されたシロは空を見上げた。
まだ答えは出ない。
けれど。
以前ほど焦ってはいなかった。
分からないままでも。
少しだけ。
歩いてみようと思えたから。




