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思兼学園異聞  作者: 歌麿
第二部 桜と龍と恋する神殺し~神殺し候補は恋に全力です~
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名前のない気持ち

 朝だった。

 シロはいつも通り登校していた。

 異常なし。

 身体機能正常。

 通信機能正常。

 思考機能正常。

 感情ログ――

『……』

 解析保留。

 昨日から変化なし。

 胸の奥の違和感が消えていなかった。

 原因は分かっている。

 那由禍。

 そして夢。

 だが。

 どう分類すれば良いのか分からない。

『未定義感情』

 内部処理がそう結論を出す。

 シロは少しだけ眉をひそめた。

『不便です』

 感情というものは。

 教室。

 昼休み。

 美月が弁当箱を広げている。

「シロー」

『何でしょう』

「卵焼き食べる?」

『食事機能は必須ではありません』

「食べるのね」

 すでに箸を伸ばしている。

 美月は笑った。

「好きだね」

『栄養効率は低いです』

「甘い卵焼き好きなくせに」

『……否定できません』

 美月が楽しそうに笑う。

 その光景を見て。

 シロは少しだけ胸が温かくなる。

 まただ。

 最近増えた感覚。

 説明できない。

 だが。

 嫌ではなかった。

 放課後。

 珍しく龍真と二人きりになった。

 美月は生徒会の手伝いらしい。

 帰り道。

 並んで歩く。

 会話は少ない。

 いつも通りだった。

 だからこそ。

 シロは不意に尋ねた。

『質問があります』

「何だ」

『人間はなぜ家へ帰るのですか』

 龍真が足を止めた。

「急だな」

『気になりました』

 嘘ではない。

 本当に気になった。

 龍真は少し考える。

 そして。

「帰る場所だからだろうな」

 あまりにも当たり前の答えだった。

 シロは黙る。

 帰る場所。

 その言葉が頭の中で反響する。

『帰る場所……』

「何かあったのか」

『ありません』

 即答。

 だが。

 龍真は少しだけ怪訝そうだった。

 見抜かれている気がした。

 その夜。

 シロは夢を見た。

 夢を見るようになったこと自体が異常だった。

 以前の自分ならあり得ない。

 夢の中。

 夕暮れの教室。

 誰もいない。

 窓際に座る少女。

 黒髪。

 制服姿。

 普通の女の子。

 夢の中の自分だった。

「羨ましい?」

 少女が尋ねる。

 シロは答えない。

「なりたい?」

 また尋ねる。

 答えられない。

 なりたい。

 でも。

 それだけじゃない。

「欲張り」

 少女が笑った。

 少しだけ意地悪そうに。

「人間になりたい」

「でもシロのままでいたい」

「どっちも欲しいんだ」

 シロは眉をひそめる。

『矛盾しています』

「そうだね」

『非合理的です』

「そうだね」

『理解できません』

「人間もそういうものだよ」

 少女は微笑んだ。

 その瞬間。

 夢が崩れる。

 翌朝。

 シロは一人で校門を見上げていた。

 生徒達が次々に通り過ぎる。

 友人と笑う者。

 恋人と歩く者。

 家族の話をする者。

 みんな違う。

 みんな不完全。

 でも。

 どこか楽しそうだった。

「観察ですか」

 聞き慣れた声。

 振り向かなくても分かる。

 那由禍。

『不審者です』

「ひどい言われようですね」

『事実です』

 那由禍は笑う。

 シロはため息をついた。

 最近この男との会話に慣れてきている自分が少し嫌だった。

「答えは見つかりましたか」

 那由禍が尋ねる。

 シロは校門の向こうを見る。

 龍真がいる。

 美月もいる。

 今日も何か言い合っている。

 いつも通り。

『分かりません』

 正直に答える。

『まだ』

 那由禍は少しだけ目を細めた。

 興味深そうに。

 まるで新しい発見を見た学者のように。

「それで良いのかもしれません」

 珍しくそんなことを言った。

 シロは驚く。

『意外です』

「私もです」

 那由禍自身がそう答えた。

 そして去っていく。

 残されたシロは空を見上げた。

 まだ答えは出ない。

 けれど。

 以前ほど焦ってはいなかった。

 分からないままでも。

 少しだけ。

 歩いてみようと思えたから。

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