白狐の心
放課後だった。
校舎の窓が夕日に染まっている。
部活動へ向かう生徒たちの声。
運動場から聞こえる笛の音。
どこにでもある学園の風景。
シロは一人で歩いていた。
珍しいことだった。
美月はいない。
龍真もいない。
ただ一人。
校舎裏の静かな通路を歩く。
その理由を本人もよく分かっていなかった。
考え事をしていたのかもしれない。
夢のことを。
あの日見た世界を。
普通の少女だった自分を。
『……』
思考ログ整理中。
そう結論付ける。
だが。
胸の奥のざわつきは消えなかった。
「こんにちは」
声がした。
シロは立ち止まる。
振り向く前に分かっていた。
那由禍。
原初神第一柱。
白い装束。
長い黒髪。
穏やかな微笑み。
相変わらず人の良さそうな顔をしている。
だから余計に信用できない。
『敵性個体確認』
即座に警戒態勢。
『警戒レベル上昇』
「悲しいですね」
那由禍が言った。
『事実です』
「そうですか」
本当に残念そうに見えた。
もちろん信用しない。
シロは少し距離を取る。
『用件を要求します』
「会話です」
『却下します』
「即答ですね」
『当然です』
那由禍は少しだけ笑った。
楽しそうだった。
その反応が気に入らない。
◇
「なぜ拒絶したのですか」
那由禍が尋ねる。
シロは首を傾げた。
『何をですか』
「夢です」
その瞬間。
胸が少しだけ痛んだ。
あの世界。
友達がいて。
教室で笑っていて。
放課後に寄り道して。
普通の女の子として生きる世界。
欲しくなかったと言えば嘘になる。
「あなたは幸福そうでした」
那由禍は言う。
「最も幸福そうだった」
否定できなかった。
『はい』
静かに答える。
『幸福でした』
那由禍が頷く。
「ならば」
「なぜ戻ったのです?」
シロは黙った。
分からなかった。
答えはある。
でも。
上手く言葉にならない。
『私は』
空を見る。
夕日。
雲。
校庭の喧騒。
全部現実だ。
『人間になりたいと思いました』
那由禍は黙って聞いている。
『今も思っています』
少しだけ驚いた顔。
『友達が欲しい』
『普通に笑いたい』
『普通に生きたい』
『羨ましいと思います』
全部本音だった。
認めるのは少し怖かった。
でも。
嘘はつきたくなかった。
「ならば」
那由禍が静かに言う。
「なぜ」
シロは小さく息を吐いた。
『でも』
その言葉が出た瞬間。
自分でも驚いた。
『今の私が消えるのは嫌です』
沈黙。
那由禍が動きを止めた。
初めてだった。
彼が本当に考え込んだのは。
『人間になりたい』
『でも』
『今の私も好きです』
『矛盾しています』
『理解できません』
那由禍は答えない。
しばらくして。
「なるほど」
そう呟いた。
だが。
その声はどこか困惑していた。
「理解できません」
今度は那由禍がそう言った。
シロは少しだけ目を丸くする。
『そうですか』
「ええ」
那由禍は苦笑した。
「私は一つを選びます」
「不要なものは捨てます」
「矛盾は排除します」
「その方が合理的です」
『はい』
「ですがあなたは違う」
『そうかもしれません』
「不完全です」
『はい』
「非効率です」
『はい』
「理解不能です」
『はい』
那由禍は数秒黙った。
そして。
ふっと笑った。
「面白い」
『不本意です』
即答だった。
那由禍が少しだけ声を出して笑う。
それは初めて見る表情だった。
◇
「また来ます」
帰り際。
那由禍がそう言った。
『来ないでください』
「それは難しい」
『なぜですか』
「あなたが興味深いからです」
『迷惑です』
「そうですか」
本当に残念そうだった。
そして。
那由禍の姿が夕暮れの光に溶ける。
消えた。
◇
一人残されたシロは空を見上げた。
夕焼け。
綺麗だった。
『感情ログ解析』
内部処理開始。
『原因不明』
胸の奥が落ち着かない。
那由禍と話したからか。
夢を思い出したからか。
それとも。
『……』
ふと。
校門の向こうに二人の姿が見えた。
龍真。
美月。
何か言い合っている。
「だから今度の日曜日!」
「断る」
「即答!?」
いつもの光景。
シロは見つめる。
数秒。
そして。
小さく微笑んだ。
『帰ります』
その一言だけが。
夕暮れの風に溶けていった。




