理解できないもの
夕暮れだった。
保健室の窓から差し込む赤い光が、床を長く染めている。
静かだった。
静かすぎた。
だからこそ異様だった。
窓際の椅子。
そこに男が座っていた。
白い装束。
長い黒髪。
穏やかな笑み。
原初神第一柱。
那由禍。
まるで最初からそこにいたような顔で、本を読んでいる。
「……」
美月は目を瞬かせた。
夢ではない。
現実だ。
なのに。
現実感がない。
「何してるの?」
思わず聞いてしまった。
那由禍は本から目を上げる。
「読書です」
「見れば分かる!」
即座にツッコむ。
那由禍は少しだけ感心したように頷いた。
「なるほど」
「何がなるほどなの!?」
美月が頭を抱える。
敵のはずなのに会話のテンポがおかしい。
すると隣で龍真が立ち上がった。
「何が目的だ」
短い言葉。
空気が少しだけ張り詰める。
那由禍は本を閉じた。
「会話です」
「敵と話す気はない」
「私はあります」
即答だった。
龍真が眉をひそめる。
美月も思った。
話が噛み合わない。
この男は本当に敵なのか。
それとも。
敵という概念そのものが通用しないのか。
「どうしてあんな夢を見せたの?」
今度は美月が尋ねた。
那由禍は少し考える。
本当に考えている。
嘘をつく気配がない。
「見たかったからです」
「は?」
「あなた方を」
美月は固まった。
意味が分からない。
だが。
那由禍の目だけは真剣だった。
「人間は面白い」
静かな声。
「短い時間しか生きない」
「失うことを知っている」
「それでも誰かを愛し」
「誰かを守ろうとする」
まるで研究者だった。
生物を観察する学者のような。
そんな目。
「理解できないのです」
その言葉に。
不思議と嘘は感じなかった。
◇
那由禍の視線が移る。
シロへ。
「残念でした」
シロが顔を上げる。
『何がですか』
「あなたです」
保健室の空気が変わった。
那由禍は微笑んだまま。
「こちらへ来ると思っていました」
美月が息を呑む。
シロの夢。
普通の少女として生きる世界。
龍真も知っている。
那由禍は続けた。
「望んでいたのでしょう?」
『……』
「友人」
「学校生活」
「平穏な日常」
「普通の人生」
優しい声だった。
だからこそ危険だった。
『はい』
シロが答える。
美月が驚く。
だが。
シロは目を逸らさなかった。
『なりたかったです』
その声は小さい。
けれど。
確かな本音だった。
『羨ましかったです』
『普通の人間が』
『ずっと』
保健室が静かになる。
那由禍は頷いた。
「ならば」
手を差し出す。
「今からでも遅くありません」
美月が立ち上がる。
「シロ!」
しかし。
シロは首を振った。
『違います』
那由禍の目が細くなる。
『今は違います』
『私は』
一瞬だけ。
龍真を見る。
次に美月を見る。
そして。
少しだけ微笑んだ。
『今の私が好きです』
沈黙。
那由禍は何も言わなかった。
ただ。
少しだけ驚いたような顔をした。
◇
「あなたはどうですか」
今度は龍真。
「平穏を望んでいる」
那由禍が言う。
「戦いのない日々」
「使命のない人生」
「普通の青春」
「そうでしょう」
龍真は否定しなかった。
「ああ」
美月が振り返る。
「認めるんだ」
「望まない理由がない」
当然のように言う。
それはそうだ。
誰だって平穏は欲しい。
那由禍は満足そうだった。
「ならば」
「だが」
龍真が言葉を重ねる。
その瞬間。
空気が変わった。
「誰かが守らなければならないなら」
「俺が守る」
静かな声。
だが揺るがない。
「それだけだ」
那由禍が黙る。
数秒。
本当に数秒だけ。
初めて言葉を失った。
「……理解できません」
ぽつりと呟く。
龍真は肩をすくめた。
「そうだろうな」
◇
帰り道。
夕焼け。
三人で歩く。
誰も喋らない。
夢の余韻が残っていた。
それぞれ。
見たものがある。
欲しかったものがある。
それでも。
前へ進むと決めた。
「変な奴だったね」
美月が言う。
『はい』
「ああ」
三人は歩いていく。
その背中を。
電柱の影から那由禍が見ていた。
穏やかな笑み。
だがその瞳は深い。
「興味深い」
夕暮れの空を見上げる。
「実に」
「興味深い」
その声だけが。
誰にも届かず風に消えた。




