夢の中の理想郷
朝。
柔らかな光が窓から差し込んでいた。
「美月」
名前を呼ばれる。
優しい声。
聞き慣れた声。
神楽坂美月はゆっくり顔を上げた。
「おはよう」
目の前には九頭竜龍真がいた。
いつも通りの制服。
いつも通りの顔。
だけど。
何かが違った。
「どうした?」
龍真が首を傾げる。
「え……?」
美月は瞬きを繰り返した。
今。
名前で呼ばれた。
神楽坂ではなく。
美月と。
「体調悪いのか?」
自然だった。
まるで。
それが当たり前みたいに。
「りゅ、龍真……?」
「ん?」
平然としている。
美月だけが混乱していた。
◇
教室へ向かう。
廊下を並んで歩く。
近い。
距離が近い。
というか。
肩が触れそうだ。
心臓がうるさい。
そんな美月を見て。
龍真が笑った。
「緊張してるのか?」
笑った。
笑った!?
九頭竜龍真が!?
美月は思わず立ち止まった。
「ちょっと待って」
「何だ」
「龍真だよね?」
「意味が分からない」
それはそうだった。
◇
教室。
「おはよー」
友人たちが手を振る。
「昨日も一緒だったんでしょ?」
「仲良いよねー」
「ほんと理想のカップル」
美月が固まる。
「か、カップル!?」
しかし。
誰も驚かない。
誰も否定しない。
むしろ当然のような顔をしている。
「今さら何言ってるの?」
「付き合って一年になるじゃん」
世界が止まった。
「……へ?」
一年?
付き合って?
私たちが?
龍真を見る。
龍真は平然としていた。
「昼休み、屋上な」
「え?」
「約束しただろ」
そう言って去っていく。
意味が分からない。
◇
昼休み。
屋上。
風が吹いている。
龍真がフェンスにもたれていた。
美月は恐る恐る近づく。
「龍真……」
「ああ」
そして。
何の前触れもなく。
龍真は言った。
「好きだよ」
世界が停止した。
心臓も。
思考も。
全部。
「え……」
声にならない。
「何度も言ってるだろ」
龍真は不思議そうだった。
「今さら照れるな」
手が伸びる。
頬に触れる。
温かい。
本物みたいだった。
あまりにも。
幸せだった。
だから。
気付いてしまった。
こんなこと。
現実ではあり得ない。
「違う……」
美月は呟く。
「これは……」
龍真の姿が揺れる。
風景が崩れる。
空が裂ける。
「夢だ」
◇
意識が浮上する。
夢。
そう。
夢だった。
だが。
忘れられない。
あまりにも幸せだった。
それが恐ろしかった。
◇
一方。
龍真も夢を見ていた。
放課後。
教室。
チャイムが鳴る。
部活へ向かう生徒達。
友人達の笑い声。
それを眺めながら。
龍真は鞄を肩に掛けた。
「龍真」
声がする。
美月だった。
「帰ろ?」
「ああ」
自然だった。
あまりにも自然だった。
妖魔はいない。
原初神もいない。
九頭竜家の使命もない。
神殺しも存在しない。
ただ。
高校生として生きる毎日。
平穏な日々。
美月も笑っている。
シロもいる。
誰も傷付かない。
誰も泣かない。
そんな世界。
「どうですか」
知らない声。
龍真が振り返る。
那由禍が立っていた。
校庭の真ん中に。
まるで最初からそこにいたように。
「良い世界でしょう」
「……」
龍真は黙る。
否定できなかった。
確かに良い世界だった。
「あなたは疲れている」
那由禍が言う。
「守るものが多すぎる」
「戦う理由が多すぎる」
「責任が多すぎる」
静かな声。
責めるでもなく。
哀れむでもなく。
ただ事実を述べるように。
「ここなら」
「もう戦わなくていい」
龍真は空を見る。
青空。
平和。
穏やかな日常。
確かに悪くない。
だが。
「違うな」
那由禍が首を傾げる。
「何がです?」
「これは俺が守った世界じゃない」
その瞬間。
世界がひび割れた。
「なるほど」
那由禍が微笑む。
「そういう答えですか」
夢が崩壊する。
◇
そして。
シロ。
彼女の夢は。
誰よりも穏やかだった。
朝。
制服に袖を通す。
鏡を見る。
狐耳がない。
尻尾もない。
普通の少女。
神でも端末でもない。
ただの女の子。
教室へ向かう。
「シロちゃん!」
友達がいる。
一緒に笑う。
一緒に昼食を食べる。
一緒に帰る。
そして。
放課後。
校門。
龍真と美月が待っている。
「遅いぞ」
「ごめん」
三人で帰る。
夕日が綺麗だった。
幸せだった。
本当に。
幸せだった。
「どうですか」
那由禍が現れる。
「望んだ世界でしょう」
シロは答えない。
答えられない。
だって。
欲しかった。
その世界が。
心の奥底で。
本当に。
欲しかった。
「こちらへ来ますか?」
那由禍が手を差し出す。
「ここなら」
「あなたも人間になれます」
沈黙。
シロは手を見る。
その時。
不意に。
誰かの声が聞こえた。
『シロ』
龍真の声。
『シロちゃん』
美月の声。
記憶が蘇る。
笑った日。
喧嘩した日。
失敗した日。
褒められた日。
全部。
今の自分だった。
『……違います』
那由禍が目を細める。
『私は』
シロはゆっくり顔を上げる。
『今の私です』
その瞬間。
夢が砕け散った。
◇
三人は同時に目を開く。
保健室。
夕暮れ。
静かな部屋。
そして。
窓際。
那由禍が座っていた。
まるで最初からそこにいたように。
「おはようございます」
柔らかな笑み。
「良い夢でしたか?」
三人は答えない。
答えられない。
確かに。
良い夢だったから。
那由禍は満足そうに微笑む。
「やはり」
「人間は面白い」
その瞳だけが。
底知れなく深かった。




