白狐(シロ)
朝の教室は、昨日と同じ顔をしていた。
同じ机、同じ窓、同じ騒がしさ。
変わっているものは何もない――はずだった。
だが、九頭竜龍真にはわかっていた。
“何も変わっていないように見える”ということ自体が、すでに異常だった。
窓の外では、桜がまだ満開のまま揺れている。
本来なら散り始めていてもおかしくない時期だ。
だが、この一角だけ時間が停滞しているように見える。
(……局所固定)
そんな言葉が、頭のどこかに浮かぶ。
意味は分からない。
しかし“正しい”気がした。
「おはよー、龍真!」
扉が開く音と同時に、教室の空気が変わる。
神楽坂美月が入ってくる。
昨日と同じように、まっすぐに。
「おはよう!」
いつも通りの挨拶。
だが、龍真は一瞬だけ違和感を覚えた。
(……昨日より“迷いがない”)
理由は分からない。
だが、確かに何かが変わっている。
「おはよう」
龍真は短く返す。
「うん!」
それで会話は終わる。
いつも通りのはずだった。
――その机の上に、それはいた。
白い。
小さな狐だった。
一瞬、教室の音が遠のく。
誰も驚いていない。
誰も気づいていない。
まるで最初からそこにいたかのように。
「……おい」
龍真は無意識に声を漏らしていた。
美月が振り向く。
「どうしたの?」
「その……狐」
「狐?」
美月はきょとんとした顔をする。
そして、当然のように言った。
「シロのこと?」
空気が一瞬だけ止まる。
「名前があるのか」
「うん」
美月は何でもないように頷く。
「昔からいるよ?」
龍真の視線が、白狐に戻る。
白い毛並み。
しかし、質感が妙に“現実的ではない”。
輪郭が、わずかに揺れている。
(……情報体か)
そんな言葉が頭に浮かぶ。
そしてすぐに否定する。
そんなもの、現実に存在するはずがない。
「ねぇ」
白狐が、口を開いた。
教室の空気が一段階冷える。
声は小さい。
だが、確かに“人の言葉”だった。
「観測者が増えていますね」
誰も反応しない。
いや、できないのかもしれない。
言葉として認識しているのに、意味が理解できない。
龍真だけが、それを理解していた。
「お前……何だ」
白狐は答えない。
代わりに、美月の方へ視線を向ける。
「契約者:神楽坂美月」
「状態維持。問題なし」
美月は首をかしげる。
「え、なにそれ?」
「いつものやつだよね?」
“いつもの”。
その言葉が、龍真には引っかかった。
(いつから“いつも”になった?)
その疑問に答える者はいない。
白狐は、ゆっくりと視線を龍真へ向けた。
「九頭竜龍真」
名前を呼ばれた瞬間、空気がわずかに歪む。
「あなたはまだ“観測者”ですか?」
意味は分からない。
だが、その言葉だけは確かに“危険”だった。
「意味が分からない」
龍真はそう返す。
白狐は小さく目を細めた。
「それでいい」
その一言だけ残して。
白狐は消えた。
最初から存在しなかったかのように。
「え?」
美月だけがきょとんとしている。
「シロ?」
「どこ行ったの?」
教室はざわつかない。
誰も何も気にしていない。
ただ一人、龍真だけが理解していた。
(消えたんじゃない)
(“認識から外れた”)
窓の外。
桜の花びらが、一枚だけ静かに落ちる。
今度は、正しい方向に。
だが――。
落ちる“速度”だけが、ほんの少し遅かった。
龍真はゆっくりと息を吐いた。
(これは……まずいな)
その隣で、美月はまだ白狐を探していた。
まるで本当に“そこにいたもの”を当然のように。




