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思兼学園異聞  作者: 歌麿
第一部 桜の檻編
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桜の下の違和感

 春の朝だった。

 私立思兼学園の正門をくぐる生徒たちの声が、満開の桜の下に広がっている。

 新学期が始まってから二週間。

 緊張はすでに薄れ、校内には穏やかな空気が戻りつつあった。

 ――少なくとも、表面上は。

 九頭竜龍真はその空気の外側にいた。

 長身、無表情。

 そして、隠しきれない鋭い眼光。

 本人にそのつもりはない。

 だが、周囲がそう解釈しないだけだ。

 すれ違う生徒が自然に距離を取り、会話が途切れる。

 廊下に入れば空気がわずかに固まる。

 それはいつものことだった。

 龍真は気にしない。

 気にしたところで、何かが変わるわけでもない。

 彼は自席に向かい、窓際の席に腰を下ろした。

 古びた文庫本を開く。

「おはよーっ、龍真!」

 教室の扉が勢いよく開く。

 空気ごと明るく塗り替えるような声。

 神楽坂美月が入ってくる。

 このクラスの“騒がしさの起点”とも言える少女だった。

「おはよう!」

 もう一度、同じ言葉。

 返事を要求しているわけではない。

 しかし、拒否も想定していない声音だった。

 龍真は本から目を離さずに答える。

「……おはよう」

「うん!」

 満足そうな声。

 それだけで成立してしまう関係だった。

 周囲の女子が小さく笑う。

「また成功してる」

「何が?」

「九頭竜君から挨拶引き出すやつ」

「それ、競技なの?」

 美月は頬を膨らませる。

「失礼だなぁ、普通に挨拶してるだけだよ?」

「普通は二回言わない」

 笑いが広がる。

 いつもの朝。

 いつもの教室。

 少なくとも、そのはずだった。

 龍真の視線が、ふと窓の外へ向いた。

 校庭の端。

 桜の木の下。

 そこに、“何か”が立っていた。

 黒い影。

 人の形をしている。

 だが、人間ではない。

 視線が合った――気がした瞬間。

 影は、最初から存在しなかったかのように消えた。

「龍真?」

 美月の声がする。

「何でもない」

 龍真は窓から視線を外す。

「ああ」

 だが。

 何でもないはずがなかった。

 この学園の結界の内側に、あれが入り込める理由はない。

 もし見間違いでなければ――。

 面倒なことになる。

 その瞬間だった。

 桜の花びらが、一枚だけ逆方向に落ちた。

 風とは逆に。

 重力とも逆に。

 まるで、“世界のルールを一瞬だけ忘れたように”。

 龍真の目がわずかに細くなる。

(今のは……)

 ただの違和感ではない。

 明確な“ずれ”だ。

「ねぇ、今の見てた?」

 美月の声がした。

 龍真は一瞬だけ動きを止める。

「何がだ」

「桜」

 美月は窓の外を見ていた。

 その視線は、偶然ではない。

 まるで最初からそこに“何かがある”と分かっていたように。

「ちょっと変じゃなかった?」

「……さあな」

 龍真はそう答えた。

 だが、視線はすでに同じ方向を追っていた。

 何かが起きている。

 それも、かなり深い場所で。

 そして――。

 それに気づいているのは、たぶん自分だけではない。

 龍真は静かに息を吐いた。

 その瞬間、窓の外の桜が一瞬だけ“止まった”。

 風もないのに。

 時間も流れているのに。

 まるで、世界が一拍だけ呼吸を忘れたように。

(……面倒なことになる)

 そしてその違和感は、まだ誰も“異常”とは呼んでいなかった。

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