神殺し候補、恋愛モードに移行します
春の朝だった。
私立思兼学園。
新学期特有の慌ただしさも落ち着き、生徒たちはそれぞれの日常へ戻っている。
そして。
九頭竜龍真もまた、いつも通りの朝を迎えていた。
窓際の席。
文庫本。
静かな時間。
実に平和だった。
だからこそ。
教室の扉が勢いよく開いた瞬間、龍真は小さくため息をついた。
「おはよう龍真!」
聞き慣れた声。
神楽坂美月だった。
いつも通り元気で。
いつも通り笑顔で。
――そして何かがおかしかった。
美月は迷いなく龍真の席まで歩いてくる。
そのまま。
隣の席を引いた。
ガタン。
座った。
当然のように。
まだホームルーム前なので誰も文句は言わない。
だが。
龍真は本から顔を上げた。
「何をしている」
「一緒にいる」
「そうか」
「うん」
満面の笑顔だった。
意味が分からない。
周囲の女子たちは既に察していた。
「あ」
「あー」
「あれだ」
「隠すのやめたね」
ひそひそ声が飛ぶ。
美月は聞こえているはずなのに気にしない。
龍真だけが気付いていない。
いや。
気付いているが理解したくないのかもしれない。
「龍真」
「何だ」
「今日お弁当作った」
「そうか」
「食べる?」
「食べない」
「じゃあ一緒に食べる」
「話を聞け」
教室が笑いに包まれる。
美月はご機嫌だった。
以前なら女子たちにからかわれると赤くなっていた。
だが今日は違う。
むしろ堂々としている。
何か吹っ切れた人間の顔だった。
その時だった。
窓際から声がした。
『観測します』
白い狐。
シロである。
窓枠に座り、じっと二人を見ていた。
『神楽坂美月の行動パターンに異常を確認』
「異常じゃないもん」
『異常です』
「違うもん」
『通常時比二百七十三パーセントの接近行動を確認』
女子たちが吹き出した。
美月の顔が少し赤くなる。
「シロ!」
『事実です』
「ううう……」
反論できなかった。
龍真は文庫本のページをめくる。
平和だった。
本当に平和だった。
だから。
その次の言葉には少しだけ驚いた。
「龍真」
「何だ」
「放課後空いてる?」
「空いていない」
「聞く前から断られた!」
教室中が笑う。
龍真は本を閉じた。
「用件を言え」
「一緒に帰りたい」
静かになった。
一瞬だけ。
女子たちの視線が集まる。
龍真も少しだけ固まった。
だが。
美月は真剣だった。
冗談ではない。
逃げない。
誤魔化さない。
真っ直ぐ龍真を見ている。
その瞳を見て。
龍真はふと思い出した。
桜の世界。
帰りたいと泣いていた少女。
そして。
帰ることを選んだ少女。
だから。
龍真は小さく息を吐いた。
「……好きにしろ」
「やった!」
美月が立ち上がる。
周囲から歓声が上がった。
「おめでとう!」
「まだ付き合ってないからね!?」
「時間の問題でしょ」
「違うもん!」
全然違って聞こえなかった。
その様子を。
シロはじっと見ていた。
そして誰にも聞こえない声で呟く。
『感情ログ更新』
『安心を確認』
『理由不明』
小さな尻尾が一度だけ揺れた。
春の風が吹く。
窓の外では桜が舞っていた。
平和な日常。
だが誰も知らない。
遠いどこかで。
原初神が再び動き始めていることを。
そして。
神殺し候補の恋が。
誰よりも全力で始まってしまったことを。




