侵食領域
異変は突然始まった。
昼休み。
窓の外を見ていた生徒が首を傾げた。
「……あれ?」
誰かが呟く。
「桜、散らなくない?」
その一言をきっかけに。
教室の空気が妙に静かになった。
窓の外。
満開の桜。
だが。
風が吹いているのに。
花びらが落ちない。
一本も。
まるで時間が止まっているように。
「龍真」
美月の声。
振り向くと。
珍しく不安そうな顔をしていた。
「なんか変」
「ああ」
龍真も感じていた。
空気が重い。
世界そのものが軋んでいる。
そんな感覚。
その瞬間だった。
校内放送が鳴る。
ノイズ。
ザーッという雑音。
そして。
『同期完了』
誰の声でもない声。
『侵食領域を展開します』
教室中が凍りつく。
しかし。
次の瞬間。
誰も反応しなくなった。
生徒たちは普通に会話を続ける。
教師も気づかない。
聞こえたのは。
龍真。
美月。
白狐。
その三人だけだった。
「始まったか」
白狐が呟く。
「何が始まったんだ」
龍真が問う。
「回収工程です」
空気が重くなる。
「神殺し候補個体の回収」
その言葉と同時に。
窓ガラスにヒビが入った。
いや。
違う。
世界そのものにヒビが入った。
空間が割れている。
空の向こう側が見える。
そこには何もない。
星も。
太陽も。
空気も。
ただ黒い虚無だけが広がっていた。
「結界が……」
龍真が息を呑む。
「食われている」
白狐が頷く。
「侵食領域です」
「原初神側がこの学園を飲み込もうとしています」
美月は言葉を失った。
「なんで私なの?」
小さな声。
「私、何もしてないよ?」
その問いに。
白狐は珍しく沈黙した。
数秒後。
「あなたが神殺しだからです」
教室が揺れた。
美月の顔から血の気が引く。
「……え?」
「正確には神殺し候補」
「まだ未完成です」
しかし。
その瞬間だった。
空間の裂け目が広がる。
黒い腕が現れる。
人間の腕ではない。
巨大な何か。
神話の時代から伸びてきたような異形。
それが。
真っ直ぐ美月へ向かった。
「美月!」
龍真が飛び出す。
だが。
間に合わない。
黒い腕が少女を掴む。
その瞬間。
世界が桜色に染まった。
轟音。
無数の花びら。
桜界。
前回より遥かに強い。
教室が桜の海になる。
黒い腕が焼かれるように崩壊していく。
しかし。
それでも。
完全には消えない。
裂け目の向こうから声が響く。
『確認』
『木花咲耶姫系統』
『神殺し適性上昇』
美月の身体が震える。
頭の中に。
知らない記憶が流れ込む。
桜。
炎。
神々。
そして。
誰かを滅ぼした光景。
「いや……」
美月が頭を抱える。
「これ……何……?」
龍真が駆け寄る。
「美月!」
しかし。
少女の瞳に。
一瞬だけ。
黄金の光が宿った。
それは人間の目ではなかった。
神の瞳だった。
白狐が呟く。
「接続開始」
「まずいですね」
「原初神が直接アクセスしています」
龍真が振り返る。
「どういう意味だ」
白狐の表情が消える。
「精神世界への侵入です」
「このままでは神楽坂美月は内部から乗っ取られます」
その言葉に。
龍真は初めて明確な怒りを覚えた。
教室が揺れる。
世界が崩れる。
だが。
龍真の視線は一人だけを見ていた。
苦しそうに頭を抱える少女。
神楽坂美月。
その瞬間。
龍真は決意する。
たとえ相手が神であろうと。
美月だけは渡さない。
裂け目の向こうで。
黄金の瞳が静かに笑った。
『回収開始』
その声だけが。
世界の奥底から響いていた。




