ミュルクル(3)
世界は陽の差さない冬至。
ミュルクルはきりりと凍みついている。
空はどこまでも透き通った黒で塗りつぶされていて、星空を闇の氷に閉ざしているようにも見える。
フェオドットの鼻や頬など、防寒具に包まれていない肌がしもやけて、ぱりぱりとした痛みすら感じる。
凍ったまつ毛がもたつく。
でも、と彼は思った。
冬はこうじゃなくっちゃ、グロッキが美味しくないもんな。
「な、なんと……!」
リュスラーナがソフィを見送りに行ったそばから、今度は枯れたバリトンが聴こえた。
彼はミトンを脱いで恭しくランプに触れた。
「あっ! やめてよ! 壊れちゃうだろ!」
ルドゥーシュカの厳しい注意に、男は一瞬怯み、詫びた。
「これは失敬。しかし触れても熱くない。これが〈色彩炎〉の輝き。本当に〈煌めき屋〉か!」
一時の店番を頼まれたフェオドットだったが、感動に震える老人への対処はすぐに思いつかなかった。
「あなたは――?」
魔女と連れだって友人を見送ってきたエイノが、老人に気付いて店先まで走ってきた。
「レイフ!」
少年は白い息を枯らしながら、老人の手を取った。二人は固く握手を交わした。
「おお、エイノ! 手紙を読んだよ。まさかとは思ったが本当だったんだな!」
「はい。レイフの言うとおりでした」
そこまで又聞きして、フェオドットは理解した。このレイフという男がエイノの師らしい。
全身を真っ黒の毛皮で覆ったレイフは、顔を皺くちゃにして喜んだ。
「うむ。旅はしてみるものだろう。しかし本当にリュスラーナがランダメリからやってくるとは。長生きはしてみるものだな。死期は間もなくか」
「レイフはまだボケてないので、大丈夫です」
「おまえがいうんなら大丈夫だな! それにしても、こりゃ、改訂版を出さんといけないなあ。『〈ヨウル〉にリュスラーナ現る』と……」
そう言いながら老人は凍った夜空の下でメモと万年筆を取り出して何かを書きとりだした。
その背中に、遅れて戻ってきた魔女が気さくに声をかける。
「あら、レイフ。しばらくぶりね。少し老けたんじゃない?」
「やあ、リュスラーナ。君は変わらないね」
「時間に揉まれていないからかしらね」
「僕はこのとおり、もみくちゃさ」
この二人も、固い握手で親交を温め合った。
どうやら既知の仲らしい。
凍みついた空の下、魔女の桃色の毛先が凍って固まり、笑っても動かない。
「何か本に書いてくれたらしいじゃない。知らなかったわよ。水臭い」
「ああ。うちの姫さまに新しい童話をと頼まれてな。そうしたら、意外と好評で」
「ふうん。でも、あんまり恐ろしく書かないでちょうだいね。エイノったら、私のことを悪い魔女だと思っていたんだから」
「それは……!」
ちらと赤い瞳に見咎められてむきになった少年をレイフは笑い飛ばした。
「深読みしすぎたな、エイノ。おまえもまだまだ、自分の言葉でしか本を読めていないということだ。素直にそのまま読めばいいものを。姫さまのほうが、その点は上手なものだよ」
彼が言うのを聞いて、少年は口を真っ直ぐにして噤んだ。
どことなく、そわそわしている。
エイノが赤面するのをフェオドットは初めて目の当たりにした。
「レイフ! ……その、ピーリャは……?」
「待っとるよ」
少年の瞳が、はっとして輝いた。
彼の胡桃色の瞳は、フェオドットのいる角度からはなぜだか碧く見えた。
「リュスラーナ。あなたのランプが欲しい。僕の〈きらきら〉を渡そう」
エイノはぐっとこぶしを握り直して、さほど身長の変わらない魔女を見上げた。
「僕が誰かに誇れるもの、大切なものを〈きらきら〉と呼んでいいのなら。僕の知性の源、僕の瞳をあげる」
「本当に、いいの?」
「リュスラーナ!」
フェオドットがたまらず声を上げると、魔女はそれを目で黙らせた。
「この眼鏡は伊達だ。病弱なピーリャを安心させるために、僕が不完全であることを装うための道具でしかない」
エイノの真剣な眼差しに、リュスラーナは一つも身じろぎしない。
「あなたの好きな本も、世界の色も、知れなくなるのよ」
「何かを得るには対価が必要だ」
「そう……。なら、仕方ないわね。ルドゥーシュカ」
「わかった」
フェオドットが焦りに視線や手を泳がせていると、黒ずくめのレイフの視線が彼に向けられていることに気付いた。
体躯のしっかりした老人は、堀の深い眼窩からじっと見つめてきた。
それは、遠景にある冬山のようにどっしりと落ち着き払っていた。
青年が右往左往していたのが馬鹿らしく思えるほどだ。
レイフの銀色の瞳は、フェオドットにも同じことを求めていた。
見守るに任せろと。
「はい、これがおまえのだよ。エイノ」
ルドゥーシュカが少年の目の前にランプを取り出した。
青や紫、結晶化した植物が不格好に巻きついたものだ。
何かの瓶を再利用しているようにしか見えない。
リュスラーナが作るランプと比べれば見劣りするそれを見て、なぜだかエイノの顔が明るくなった。
けれどそれは一瞬で濁った。
「でも、どうして……? 僕の〈きらきら〉は……?」
魔女はもっと不思議そうにした。
「子どもから未来を奪うなんて、するわけないじゃない。あなたの〈きらきら〉が形になるのは、これからなんだから。わかるわね?」
少年はきょとんとしたがすぐに理解したようだった。
その証拠に明るい笑顔が咲いた。
「まだ、子どもだから。だな」
フェオドットは彼とその師が去ってから、その意味にようやく気付いた。
「学院を飛び級で卒業した、天才少年、だもんな」
きっと、類まれな学者か何かになるんだろう。
もしかして、王立図書館で働く、大臣にも匹敵する地位を持った栄えある司書になったりして。
魔女がそんな未来を見てもおかしくはないなと青年は思いながら、暖かいグロッキをすすった。
***
大聖堂の鐘が鳴った。形式として、夜を告げる鐘だ。これは夏至の時期にも等しく鳴り響く。
「九時か……。俺も、家に戻らないとな。弟には、今夜帰ると手紙に書いたし」
青年は椅子代わりにしていた木箱から立ち上がった。そのついでに、つい足踏みをしてしまうのは、寒さに血が凍ってしまわないようにだ。
リュスラーナは、七色のステンドグラスが美しいランプを用意してくれた。
それは、正確にはランタンだった。しかも、ルドゥーシュカを連れて歩いたあのランタンだ。魔女はいつの間にガラスを付け替えたのだろう?
「ええ。今回はありがとう、フェオ。おかげで私の大切なルドゥーシュカが成体になれたわ。でも、まさかこんなタイミングになるとは思ってもみなかったけれど」
だが、それに光は宿っていない。彼の支払うべき対価―〈きらきら〉は、リュオスですでに支払われたはずだった。
「ルドゥーシュカ、〈色彩炎〉(コロルドゥール)は?」
炎の娘は、ランタンを持ったまま俯き、しばらくだんまりを決め込んでいた。
青年の瞼どうしが凍って張り付いてしまいそうになったころ、彼女は顔を上げた。
「……また、来る?」
「うん。明日にでも」
「そうじゃ、なくって……」
彼女の赤いくちびるから、白い呼気がふわふわと立ち上る。青い瞳が泳いでいる。彼女らしくない。
「あのな……。小さいときの契約は、仮なんだ」
「うん」
「だから……、また、来て……」
「うん?」
気の強い彼女にしては、珍しくしどろもどろになっている。
心なしか、頬が赤いような気がした。
「ルドゥーシュカ?」
「ボク、フェオのこと、ランダメリで待ってるから!」
フェオドットが不思議に思い覗き込むのと、少女が顔を上げたのは同時だった。
炎の精霊は、どこか悔しそうに瞳を潤ませている。
青年は、ああそうか、と府に落ちた。
「わかった。必ず行くよ。ミュルクルの始まりに」
精霊と言えど、心の成長には時間が必要なんだ。そう思うと、急にかわいらしく見えてくるから不思議だった。そう思った瞬間に、彼の手は少女の頭を帽子越しに撫でていた。
炎の精霊は、そうっとランプに吐息を吹き込んだ。
彼女が細く長く吐きだした息は凍みついた空気に固まりながら、きらきらと渦を巻いて燃えるように輝く結晶になった。触れても熱くないけれど、蝋燭のように暖かな光を持ち、角度を変えれば七色に変わった。
「まるで、旅の思い出が詰まったランプだな」
フェオドットはそれを受け取ると、軽く手を振って魔女たちと別れた。
吹きつける夜風が冷たくて体を芯から凍らせようとしてくる。だが、手にしたランプの橙色と、その中に込められた思い出がフェオドットの心の中できらきらと輝いていたので、それは不可能だった。
「ただいま」
帰宅したフェオドットが玄関のマットで、靴についた雪をひとしきり踏んで払っていると、弟が飛びついてきた。青年は、ほっと息をついた。彼からの手荒い歓迎を予想していたので、大切なランプは靴箱の上に置いたばかりだったのだ。
「おかえんなさい、兄ちゃん!」
「ただいま、ユッシ」
「やった! 母ちゃん! 兄ちゃん、約束通り〈ヨウル〉までに帰ってきたよ!」
「よかったわね。ジンジャーブレッド、我慢したかいがあって」
「うん!」
母親の声に喜び、兄と同じ黒い髪をぴんぴんにはねさせた少年は、その髪が盛大に上下するほど飛び跳ねた。彼の足もとで、つい最近拾ったばかりの子猫も一緒になって跳ねている。先輩猫は、暖炉の前から一歩も動かないに違いない。
「ねえねえ! これが魔女のランプ? すごいな! 兄ちゃんはやっぱり勇者なんだ!」
「そんな……!」
フェオドットは、一瞬言葉に詰まった。
これまでの彼なら、弟の称賛を即座に否定してしまったかもしれない。
でも、どうだろう。この不思議な旅路の途中、どれだけの人が、精霊が、彼を認めたことか。
フェオドットの口元が、にやりと不敵に持ち上がった。
「ありがとうな、ユッシ。勇者の冒険がそんなに聞きたいか?」
「うん!」
十二歳にしてはまだ小さなユッシを肩にのせて遊びながら、フェオドットは一瞬で朗々たる語り部になった。
「そう、それはながい旅の果てのこと。故郷を旅立ったフェオドット青年が、あの高名なランプ職人リュスラーナ・ドラコナヴァの工房にたどり着けたのは、緑も色を失くす秋の中ごろだった――」




