scene-10 人生は断ることから始まります…きっと…
本作品はフィクションです。
登場する人物、団体、企業、学校、事件等は架空のものであり、実在するものとは関係ありません。
また、作中には実在する神社仏閣、伝承、民話、地域名等を参考にした表現が含まれますが、物語上の演出および独自解釈によるものであり、実際の歴史・信仰・伝承とは異なる場合があります。
「それなら、この資格からですね」
男は迷いなく申込書を引き寄せた。
殴り書きのように書かれた受講スケジュールの紙が隠れた。
「え……でも」
「大丈夫ですよ」
返事を待たない。
パスッとクリップバインダーが閉じられた。
開いていたパンフレットが、その中へ隠れる。
バインダーが起こしたわずかな風が頬を撫でた。
それだけなのに、逃げ道まで塞がれたような息苦しさを覚える。
申込書だけを目の前へと押すようにしておいた。
「一年生は時間がありますから」
「でも」
「大丈夫ですよ。学生ローンという方法もありますので、ご負担は分散できますよ」
「……通るかな」
「まぁ、その辺は」
男は営業用の笑顔を崩さない。
「そうですね。それじゃ、こちらで組んでいきますね」
新しい紙を申し込み書の横に置き、さらさらとペンで日程を書き込んでいく。
「基礎科目は…と」
さらっと書き込む。
「ここは必修」
カチッとペンの色を変える音がする。
その音にドキッとする。
「ここはオンライン」
カチッと音がする。
男は綾乃の反応を見るように動きを止めた。
「ここは空いていますね」
「あの……ぅ」
「大丈夫、全部こちらで組みます」
「でも…」
「学校生活に慣れてきたら、バイトとか始めるでしょ?」
「…それは」
そのつもりだった。
小遣いくらいは自分で稼ぎたい。
勉強に使うお金だけでも親に負担をかけている。
でも、それ以上に、兄の件で、親は落ち着かない。
もう対応不能の病気じゃなくなっているのに。
それでも心配になる。
その気持ちはわかる。
たぶん、娘の綾乃よりも親の方が怖いと思う。
「だったら大丈夫ですよ。」
「え?」
違うことを考えていた。
「いま始める人が一番伸びます。」
「でも……」
「皆さん最初は不安なんですよ。」
「そんなに一杯は…」
「もちろん、一度に全部は大変ですから」
男はふ~と息を吐きながら言う。
「その部分も含めて、1年を通じて計画するのが重要ですね」
「そうですよね」
「ええ。お金もかかりますからね」
「そうですよね」
綾乃の声には落胆の色が混ざっていた。
「高額なわけでもありません。講習だけで資格を得るものもあります」
「…はぁ」
「それに、いまなら、私たちもサポートできますから」
「いま?」
「どうしても、就職のために、と殺到する時期があるので」
「…そうなんですか」
「ええ。だから一年生の今が一番始めやすいんです」
その一言で話が終わってしまった気がした。
獲物を見つけた肉食獣のような笑みに思えた。
舌舐めずりする気配だけが伝わってくる気がした。
ぞわっとする感覚に早く席を立ちたくなった。
金額だけ確認する。
ひとつひとつは高くない。
総額にしても思っていたより高くはない。
受験勉強に明け暮れてたまった小遣いで払える範囲。
それに、ここまで説明してもらって今さら断る勇気はなかった。
「新入学の学生さんなら、このくらいから始める人が多いですよ」
その一言で、断る理由が一つ消えた気がした。
「そうですよね……」
綾乃は、小さく息を吐いて申込書へ名前を書いた。
枦木と新藤が顔を見合わせ溜息をついた。
「少しお待ちください」
男が席を離れる音がする。
「どうしよう」
ポツリと呟く声に、結衣は綾乃の存在を確信する。
「友達なんです。いまのは大丈夫ですか?」
「…大丈夫な範囲です」
枦木の声は残念そうにも聞こえた。
「身内的な問題で恐縮ですが…あまり評判は良くないので」
「………」
「でも、いまのやり方自体には問題提起ができるので」
「でも…私たちは何も言えないよ」
新藤が囁く。
「お友達ですよね? あなたの協力があれば…」
「え、でも…できることですか?」
「もし、お友達が相談に来てくださるなら……」
枦木は言葉を選ぶように一度区切った。
「今日の録音データを、お友達に渡していただけませんか」
「録音を?」
「ええ。最近は皆さん、スマホで録音される方も増えましたよね」
枦木は苦笑した。
誰もが自分を守るために録音はすることが増えている。
もしかしたら、綾乃もしているかもしれない。
いや…たぶん彼女はしていない。
誰かを疑うことに疎い。
「僕たちもしています。でもこれは…」
「使えない?」
「相談スペースは利用者保護を第一に録音をしています」
「ただ、そのデータは神崎さんとの相談記録です」
「彼女の相談内容として、僕たちが勝手に使うことはできません」
「それに録音データは事務局に提出されるから…この人のところね」
新藤が苦笑を添えて言う。
「僕のデータは、神崎さんとの相談記録として保管されます」
「………」
「だから、神崎さんに関係のない部分は記録として残す必要がありません」
結衣は首をかしげる。
「提出する記録には入れません」
「その部分の音声データをくれる?ということ?」
「内緒ですが…」
新藤が口を添えるように言った。
そう考えても組織に対する背任行為になる。
それが犯罪かどうかは別にして、組織人としてはまずい。
だから、枦木に言わせるわけにはいかなかった。
「データはご本人にお渡しできます」
「あ、でも、まって…この後は?」
結衣は慌てて綾乃にメッセージを送る。
『大学合格したよ』その一文が最後になっていた。
「ありがとう」
モニターの内容が見えてしまった新藤が頭を下げる。
「彼女が録っている場合もありますが、おかしいと思わないと」
「それは確かに…」
「もしご本人が『おかしい』と思った時、自分で聞き返せるだけでも」
「うん、冷静になっていたら」
新藤も静かに頷いた。
「でも、良いのですか?」
枦木は苦笑した。
それが良いことじゃないことを教えてくれる。
「僕たちから動くことができません」
「でも、ご本人なら」
「! あ、でも、そんなことしたら」
「見計らって、来れる時間をお知らせするので、ホント、申し訳ない」
枦木は頭を下げた。
その対面で新藤も頭を下げてくる。
「綾乃に…不利益なことはないですよね」
「誓って」
枦木の言葉に新藤が何度も頷く。
スマホの着信音がなる。
綾乃⇒結衣 どうしたの?
結衣⇒綾乃 録音だけしておいて、後で聞きたい
綾乃⇒結衣 いいけど…もう終わりだよ
結衣⇒綾乃 それでも。ダメかな?
綾乃⇒結衣 分かった。いまから録音してみるね
結衣⇒綾乃 ありがとう
事情を説明する時間はなかった。
それでも綾乃は理由を聞かずに頷いてくれる。
それが綾乃の良いところで悪いところでもあった。
「それでは、手続きは終わりました」
男は再び綾乃の前に座った。
申込の控えをテーブルに並べていく。
「あ、説明の部分、録画しても良いですか?」
「構いませんが、どうかしましたか?」
「いえ、受ける順番も含め抑えておく方がいいかな?って」
綾乃は恥ずかしそうに笑みを添えた。
男は一瞬表情を曇らせてから笑顔を見せた。
申込書を自分の方へとむけて、内容を確認していく。
そして順番を並び替えていく。
テーブルの上に2つの山にして重ねていく。
綾乃は首を傾げながら、録画にしてよかったと思った。
アプリが入り過ぎていて、ボイスレコーダーがすぐに見つけられなかっただけだが…
男は、低い山の方を手に取って、綾乃の方へと向けなおした。
「今回は2種類になります」
「はい」
「一定期間、勉強…座学をしてから試験を受けるものと講習資格です」
「はい」
特に何か変なことを言っている感じはなかった。
さっきまでとは違う。
穏やかな声だった。
だからこそ、さっき感じた威圧感が嘘だったのかと思ってしまう。
綾乃の勘違い。
そう思うと何か悪い気がしてしまう。
「こちらの方は…簡単なスケジュール落としまで、できています」
バインダーに挟んでいた表を取り出した。
表にあわせて説明をしてくれる。
その上で、ひとつひとつの料金をもう一度説明していく。
「講習資格の方は、1回だけのものから、3~5日受講するものまであります」
その一つ一つを丁寧に説明していく。
「あ」
「何か?」
「この表はいただけますか?」
「もちろんです。貴女のために作りましたから」
綾乃はテーブルに置かれたスケジュール表を手にして書き込みを始めた。
男の言った日付けをカレンダーになっているスケジュール表に落とし込んでいく。
穏やかな話し方が逆に怖く感じてしまう。
だから視線を落としてしまう。
スマホはモバイルリングホルダーで自立させている。
下から撮っているが、男が1枚1枚をスマホに向けてくれるので内容までくっきり撮れている。
モニター越しに見ると、男は少し印象が違ってみえる。
上から抑えつけてくるような話し方が無くなったせいかもしれない。
ただ説明は丁寧なのに、有無も言わさない雰囲気は残っている。
所々でカメラを睨んでいるかのようにも見える。
自分の思う通りに進めたい人…
そんな気がしてしまう。
よくドラマに出てくる大した能力もないのに偉ぶっているタイプというべきだろうか。
モニター越しに見えるだけで雰囲気が随分と変わった気がした。
一通りの説明を聞いた後、総額が提示された。
さっき暗算したものと同じ金額だった。
少し痛い出費だとは思うが、どれも有っても問題がないと思ってしまう。
「それでですね。支払いの方ですが」
「あ、はい。今回は一括で」
「大丈夫ですか? 少し高くなっているので」
「まぁ、何とか」
「そうですか。振込、カード、現金が使えますが」
「振り込みでお願いしようと」
一応、父親からはカードを預かっている。
勉強にかかる経費は出してくれることになっている。
でも、自分で払えるものは…
それに大学には関係ないし…
「わかりました。では、振込用紙を準備しますね」
男はそういうと席を立った。
綾乃はふ~と長い溜息を吐いた。
何となく長引かされている気がする。
それが気味悪く思える。
でもようやく終わる。
そう思った。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
結衣が立ち上がりそうになるのをブースに戻ってきた新藤が止める。
「でも…」
「変なことは言っていませんので…ただ手際が悪い」
「仕事できない大人?」
「…スバっと言うね」
枦木が呆気にとられながらも苦笑を漏らした。
仕事はできない。
知識も中途半端。
それでも伸し上がれるのは太鼓持ち能力の高さだ。
とはいえ、それも限界がある。
前の学校でも問題を起こしている。
部下の手柄を横取りしただけだが、集団退職届騒ぎで転勤を命じられた。
本人は事務局監事という肩書に栄転のつもりだが…
新藤がスタッフの作ったスケジュール表をテーブルに置いた。
それなりに詰め込まれているものの、スケジュール的にはこなせなくはない。
売り上げを確保するのを目的に講座を売り込んだと言えなくもないが…
実際、サークルもアルバイトも決まっていない一年生には有効なスケジュールだった。
大学をいきなり辞める学生の多くは目的を失っているといわれる。
目指した学部なのに、そこまでの頑張った日々から解放されて起きる消失感。
燃え尽き症候群のようにやる気をなくしてしまう。
入学直後に学生生協に相談に来る学生には意外にもありがちだった。
だから、学部に関係のある資格講座を薦めるという側面もある。
全員が全員じゃない。
それでも思い悩んだときに相談ができるかは大きな問題だった。
監査役として運営を手伝っているという側面で見るのならやっていることは間違えていない。
「?」
「あ、ごめん。仕事は色々な意味でできていそうだ」
枦木は残念そうな苦笑をこぼした。
「お待たせしました」
「いえ」
「こちらが支払伝票になります」
「ありがとうございます」
綾乃は立とうとした。
その瞬間、男が手首をつかんだ。
「!」
「申し訳ない。耳寄りな情報を」
「?」
「どうぞお座りください」
男はそう言って笑う。
表情が笑っているだけで、目は笑っていない。
逃げた方がいい?
そう考えさせられる怖さがあった。
席に座りなおすと男は手首をつかむ手を離した。
「不都合でなければ、現金で持ってきてくだされば少し割引もできますよ」
「え」
「ちょうど学校側の補助が残っていまして」
男は、講座の案内をペラペラとめくりながら、再びテーブルに山を作る。
「こちらは半額に、こちらは無料で受けられます」
「え…でも」
「新入生のいまだけなんですよ」
そう言って男はニヤッと笑った。
お読みいただきありがとうございます。
基本的に 不定期更新の のんびり進んでいきます。
ご意見、ご要望あればうれしいです。
アイデアは随時…物語に加えていければと考えています。
タイアップ企画に挑戦ということで…サクサクとあげていきます。




