72.私、あなたを信じてる
カサンドラは全速力で長い廊下を駆けたが、濃いブロンドの髪の青年セオドアは巧みに彼女を翻弄してきた。
私が玄関ホールの階段を降りようと速度を緩めたのを見計らって一気に距離を縮め、驚いた彼女は階段を降りそびれてしまった。
頭の良い彼の策略とも知らずにまんまと屋敷の端へと追い詰められていく。
とうとう一番端にある屋根裏部屋へ上がる唯一の階段まで来てしまい、私には選択肢が無くなって暗い屋根裏部屋へと逃げ込んだ。
ヒース・コートに来た翌日に此処も見に来たが、不要な家具や置物が白い布を掛けられて埃を被っている様子は何だかそら恐ろしく感じ、それきり見向きもしなかった。
カサンドラは部屋の端にある古いクローゼットの後ろに隠れて身を潜めた。埃っぽくて噎せてしまいそうになるが、両手で口を塞いで咳き込まないように必死で堪える。
暫くすると屋根裏部屋の入り口の方で僅かに足音がした。
もう……私ったら、どうしてこう大間抜けなの!!
こんなにも簡単に自分からピンチに飛び込むなんて才能だわ!
まだセオドアの気配は遠いものの、着実にカサンドラの隠れている場所へと近付いて来ている。
このままでは見つかるのも時間の問題だった。
落ち着こうとしても体がガタガタと震えて止められない。
あぁ、なんて事……全て私が悪いのよ。
フレデリック卿の言い付けに大人しく従っていれば良かった……!!
素直にリュクス・ガーデンに帰っていれば、こんな事にはならなかったのに!
このままでは、きっと殺されてしまう……。私も、フレデリックも。
カサンドラは余りの恐ろしさにキツく目を閉じ、何度も自分を責め続けた。
その時、再び強い風が窓ガラスを破って屋根裏部屋へと吹き込む。
突風はセオドアの近くにあった古いキャビネットを直撃して傾かせ、それに気付いたセオドアが咄嗟に避けようとする間もなく、彼を下敷きにして倒れた。
カサンドラは一連の出来事がロイスの手助けである事を悟り、隠れていた古いクローゼットの後ろから抜け出して屋根裏部屋から逃げ出そうとする。
けれどセオドアがキャビネットの下敷きになっている場所は、屋根裏から降りる唯一の階段の近くだと気付いて思わず足を止めてしまった。
心を打ち砕かれているカサンドラには、セオドアの側を走って通り抜ける勇気が無い。
咄嗟に側にあるフランス窓を開け放つと窓の縁に片足を掛け、グイと身を乗り出して屋根の上へと逃げ出た。
もしかすると屋敷の外観に敷き詰められた石の僅かな隙間に指先や爪先を差し込んで、庭に降りられるかもしれないと考えたから。
結果的に言うと、そう簡単には事は運ばなかった。凍りついた屋根の上は滑りやすく、とても滑り落ちずに移動できる状態ではなかったからだ。
カサンドラは屋根の上の飾りにしがみつき、出来るだけ遠い地面を見ないようにしながら必死で考えを巡らせる。
どうしよう? どうすれば良い?
このままでは滑り落ちてしまうし、屋根裏部屋に戻ればセオドアが待ち構えているかも。
私は今日ここで死ぬしか道はないの?
「カサンドラ」
唇をきつく噛み締めながら何か打開策は無いだろうかと考えていると、何処からか声が聞こえてきた。
必死で屋根の上をぐるりと見渡してみるが誰もいない。
屋根裏部屋でセオドアを足止めしているロイスの姿も、今だ屋根裏から出てこないセオドアの姿も見え無い。
とうとう幻聴が聞こえてくる程、私は頭がどうかしてしまったというの?
ヒステリックに泣き喚きたくなったカサンドラの耳に、再び彼女を呼ぶ声が届いた。
「カサンドラ、下だよ。 こっちを見てくれ!」
こんなにも地面から高くて恐ろしいのに、下を見ろと言うの……?
暫し躊躇した後、屋根の飾りにしがみつきながら恐る恐る身を乗り出して下の庭を見てみた。
するとーーー
「ロビー」
「助けに来たよ、カサンドラ。
僕が必ず君を受け止めてみせる。だからそこから飛び降りるんだ」
ロバートはそう言って腕を広げる。
彼のエメラルドのようなグリーンの瞳は、この距離からでも決意と勇気が満ちて煌めいているのが分かる。
屋根から飛び降りるですって? 正気?
屋敷は屋根裏部屋を含めて3階建てなうえ、一階一階の天井が高い造りなので実際には5階以上の高さがある。
こんな高さから地面に落ちたりしたら、私は無事では済まない。
カサンドラは尻込みせずには居られなかった。
もし、ロビーが私を受け止めてくれなかったら?
彼は私を破滅させようと、わざと私が無防備に屋根から飛ぶよう誘導しているのかも……!!
そこまで考えると突然カサンドラは飾りにしがみついていた腕を解き、躊躇せずに屋根の上から飛び降りた。
ロビーの腕の中へと向かって。
何故ならカサンドラは、ロビーを信じているから。
彼はどんな時も自分の味方だと、心からそう信頼できるから。
ロビーは落ちてきたカサンドラをしっかりと抱き止めてくれた。
彼の温もりに包まれたその時、カサンドラは瞬時に理解する。
私、ロビーを愛しているわ。
それはもう、抗いきれないほど深く愛してる。
ロイスが言うように、カサンドラは今まで身内以外の人間を信頼した事が無い。
けれどロビーの事は信じてる。
下で彼が腕を広げて受け止めると言ってくれれば、それを信じて身を投げ出してしまう程に。
その前兆はずっと前からあった筈なのに、分からず屋な私は抗おうと必死だった。でもそういう事なのだ。
カサンドラは愛を悟り、不思議ともう愛する気持ちを拒みたいとは思わない。
彼の硬くて厚い胸に収まって安心したのも束の間、落ちてくる人間を受け止めた反動によりロビーの体は後ろへと傾き、二人とも地面へと激しく倒れ込んでしまった。
ロビーが抱き締めて庇ってくれたので私は無傷だったが、彼は背中を地面に酷く打ち付けている。
慌てて起き上がったカサンドラはロビーを抱き起こし、自分の方へ凭れ掛かけるようにした。
「ロビー……?」
彼に何かあったらどうしよう?
そんな恐ろしい考えが頭に過り、不安で彼を呼ぶ声が掠れてしまう。
ロビーの頬にそっと手を添えて撫でると彼の睫毛が僅かに震え、カサンドラが世界で一番美しいと思っているグリーンの瞳が現れた。
ロビーは冬の冷たい空気のせいで白くなった息を吐き出し、絞り出すような掠れた声で話す。
「カサンドラ……、怪我は…?」
きっと彼の方が辛いだろう。
何しろ背中から激しく地面に倒れ込んだのだから、しばらくは息をするのも一苦労な筈なのだ。
それなのに彼は真っ直ぐ私を見つめ、私の心配ばかりする。
カサンドラは気付かぬ内に頬を涙で濡らしていた。
それに気付いたロビーはゆっくりと手を伸ばし、彼女の涙を指で拭う。
「カサンドラ……?」
「えぇ、大丈夫。ロビーが受け止めてくれたから」
「君を守れて良かった」
彼にそう言われ、どうしてだかカサンドラは腹が立った。
今心配するべきは私の事ではなく、貴方自身の事でしょう!
どうしてロビーは眩しくなる程優しいの?
彼の優しさが凄く腹立たしくて、凄く嬉しい。
相反する感情に戸惑ったせいで、つい口調が厳しくなってしまった。
「私の心配をしている場合じゃないでしょう!
怪我は? 息は出来る? ねぇロビー、痛い所があったら言って」
空いている方の手で彼の体にあちこち手をやって怪我が無いか調べ、その手がちょうど腰辺りに差し掛かった時、ロビーに手首を掴まれて阻まれた。
弾かれたようにパッと顔を上げ、ロビーと正面から目を見交わす。
顔を蒼白にするカサンドラを気遣わしげに見つめたロビーは、彼女を宥めるように掴んでいる手首の骨の出っ張りを親指で優しく撫でた。
「大丈夫だよ、カサンドラ。心配しなくても骨は折れてない。
倒れた拍子にちょっと背中をぶつけただけさ。そんなに怯えなくても大した事じゃないよ。
小さい頃にフランシスと喧嘩して、頬を殴られた時の方がよっぽど痛いくらいだ」
「……ミスター・ルベルが?」
驚いて瞳を丸める私を見たロビーは、蕩けるほどに甘くて優しい笑みを浮かべる。
「そう。だから君が罪悪感に駆られる必要はないんだ」
ロビーの甘い笑顔に心を握り込まれたような錯覚を起こし、どきどきと胸が高鳴る。
初めての感覚に戸惑いながらも、今は恋のときめきを噛み締めている場合ではない。先ずは彼の誤解を解かなければ。
カサンドラは首を横に振ってから、ロビーを真っ直ぐ見つめて口を開いた。
「罪悪感に駆られて心配していた訳じゃないのよ。
ロビー、貴方だから心配していたの。
私の人生から貴方を奪われてしまったら、この先……私はどうやって生きていけば良いというの……?」
「………カサンドラ?」
「ロビーの居ない人生なんて考えられない。
貴方を失ってしまったら、もう二度と私の未来に太陽が差すことは無いわ」
一歩間違えて居れば。打ち所が悪ければ、私はロビーを永遠に失っていた。
想像するだけで濃いブルーの瞳が揺らぎ、大粒の涙が頬を伝ってしまう。
ロビーは私が涙ながらに言わんとしている事を理解したらしく、呆然とした表情で私を見つめている。
涙で濡れたカサンドラの頬に手を添えた彼は、親指の腹でそっと彼女の唇に触れる。
まるで求愛のようだ、とカサンドラは思った。
「ロビー、私の太陽。
貴方が私を愛しているのと同じように、私もロビーを心から愛しているわ。
遅くなってしまったけれど、漸く気が付く事が出来たの」
ロビーは何も言わなかった。
けれど彼のグリーンの瞳は雄弁にカサンドラへの熱情を語っている。
きっと私のブルーの瞳も同じだろう。
彼は我慢出来ないというように私に顔を近付け、私も瞳を閉じた、その時ーー
ガシャン
窓ガラスが割れる音が聞こえてきて、カサンドラは今自分達の置かれている状況を思い出した。
ロビーと愛を交わすのは、問題が解決してからにしなくては




