37.悪魔は刻一刻と
それは、カサンドラが教会の伯爵家の墓石に花束を供え終えた帰り道だった。
どうしてだか、周囲が静まり返っている。風も止んでいるようだった。
空を見上げると、少し前まで晴れ渡っていた事が嘘のようにどんよりと曇っている。
日暮れすらまだだというのに、まるで突然夜になってしまったようで不気味だ。
急ぎ足でヒース・コートへと戻っていたのだが、薄っすら積もった雪で隠れていた小川に足を滑らせて転んでしまった。
その時、近くでパァンと音が響き渡った。
___えっ?
カサンドラはドクドクと嫌な音を立てる心臓を落ち着けようと胸に手を当てた。
この音は聞き覚えがある。 正にあの、悪夢のような夜に‥‥‥…
いいえ、そんな筈が無いでしょう?
カサンドラ。しっかりするのよ。
座り込んだまま動けず、呼吸が浅く早くなる。
そんな筈がないわ、絶対に。落ち着くのよ。
必死で自分に言い聞かせて辺りを見渡す。
一体何が起きたのか、カサンドラには知る必要があった。
今はあの舞踏会の夜では無い事を自分に思い出させる必要があった。
そうして周囲を見渡してみると、遠くの方で黒い影が動いた。
あれはいったい何?
目を凝らしてみると、それが黒い服に身を包んだ男だと分かる。
手に銃を持ち、此方へ駆け寄って来る事も。
それに気付いたカサンドラは弾かれたように立ち上がり、反対側にある林へと逃げ込んだ。
このままヒース・コートに駆け込むには遠すぎるし、何より自分を殺そうと企む相手に居場所を教える事は出来ない。
__あの男だわ!此処まで追って来たというの?!
木々を右へ左へ避けながら林の中を駆け抜ける。
何度も木にぶつかりそうになりながらも、走るのを止める事はしなかった。
そしてその時、横から草を踏みつけるような物音がしたかと思うと、カサンドラは細い首を大きな手で掴まれて木の幹に押し付けられていた。
その瞬間、自分の行動がどれ程愚かだったのか悟った。
きっと男には仲間がいて、わざとカサンドラを林の中へと追い込んだのだ。
そんな…!もう一人居たなんて……!
カサンドラは反射的に首に手をやって男の手を爪で引っ掻く。
けれどその哀れな抵抗も、徐々に首を締め付ける力が強くなるに比例して弱々しいものになっていった。
「また会ったな、レディ・ウィリアムズ」
そう情け容赦無く言い放つ男の声は当然ながら、数日前にナイフで襲って来たあの黒髪のサタンだった。
カサンドラは男のブルーグレーの瞳が歓喜の色を湛えるのを見つめた後、男の右太腿辺りを蹴りつけた。
「…ぐっ…!」
男は表情を曇らせ、私の首を掴んでいた手を少し緩める。まだ先日の太腿の傷が癒えていないのだ。
咄嗟にそう判断したカサンドラは今度は男の腹を思い切り膝で蹴り上げ、痛みに蹲った男を両手で後ろに押しやって拘束から抜け出した。
いったい何が狙いなの? 私を殺す事?それとも……
もっと恐ろしい事を想像し、ゾッと背筋が凍る。
何としてでも絶対に逃げ切らなければならない。
やすやすと捕まる訳にはいかない。
再び駆け出そうとしたカサンドラだったが、近くで恐ろしい銃声の音が鳴り響き、カサンドラの近くの木の枝が地面に落ちた。
___やっぱりもう一人居るわ。それも、銃を持っている…!!
銃声に慄いて立ち止まってしまったのが運の尽きだった。
痛みから立ち直った黒髪の男に首の後ろをステッキのような物で強く打たれる。
「かは…っ!!」
肺から空気が漏れ、体は意思に反してガクリと力が抜けていく。
男はそれだけでは飽き足らず、今にも膝をついてしまいそうなカサンドラのドレスの襟を掴むと、近くの木の幹へと投げ飛ばした。
強く背中を打ち付け、視界がぼやけてくる。
殺されるわ……逃げないといけないのに……。
「このふてぶてしい女め! 今すぐ殺してやる!!」
「止めろアーサー! 約束したろ!」
意識が遠のく最中、激昂する黒髪の男の声と、慌てた様子の男の声が聞こえてきた。
やがてカサンドラは、闇の中へと意識を沈めていった




