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 魔物であろうと人類であろうと、意志を持って生きている生物の命を軽んじるべきではない。ニグルは常に、そう考えている。

 そう考えているニグルではあるが、それはやはり綺麗事で、本音の部分では、魔物の命よりは人類の命の方が幾分尊いと思っている。


 だから、ニグルは人類同士で戦うことを厭う。


「なぁアオエボ。お前の右手は地面に落ちている。エルを盾にしていては残った左手が自由にならない。それにほら、手首から血が噴き出している。早く手当しないと。お前が盾にしているエルは治癒魔法が使えるぞ?」


 平和的解決に向けてのネゴシエーション。

 浅いネゴシエーション。


 ニグルだから、こんなものだ。


「そうか。しかしな、こいつを盾にしていればな、俺は大怪我せずに済みそうな気がしているのだ」


 次の手が浮かばない。

 次の手が浮かぶまで、アオエボには時間が必要だ。


「でもお前、今のままじゃ何も解決しないって。もうやめようぜ」


 確かに、今のままでは何も解決しないし進展もしないであろう。

 しかしあくまでも、アオエボは思考時間を確保しようとしているだけなのだから、進展する必要がない。

 ニグルはそれに気付かない。


「ではまず、血を止めてもらおうか」


 アオエボは、条件を出した。

 何を引き換えにするつもりもない。

 ニグルの足元を見ているだけである。


「よしエル!やってあげて!」

「えー。うん」


 ニグルは思慮が浅く、エルは、ニグルよりは思慮が深い。

 躊躇いながら、エルは魔法でアオエボの手首の断端形成を行った。


 切断されたのであれば再接着も可能であろう。

 しかし、ニグルが掴んだ部分はこの世から消滅している。

 間が消滅しているから、アオエボの手首から先と手首の根元は、再接着させようがない。


「素晴らしい能力だ」


 そう言うと、アオエボはエルを解放した。

 解放したと言うことは、次の手が浮かんだと言うことだ。


「じゃあ、もう終わろうか」


 ホッとして、ニグルは締めに入った。

 ニグルの眉間のピリピリが消えた。


 安心感を顔全体に浮かべながら仄かに微笑むニグルを見て、アオエボは嫌らしく口角を上げた。


「白黒つけずに終わる闘いなどあるわけがない」


 アオエボは、手首から先が欠けた右腕をエルの首に巻きつけた。

 これが、アオエボの考えた次の手なのか・・・。


「ふぐぅぐぁがぁ」


 エルは見苦しく顔を歪めながら、呻き声を上げた。


 惚れた女の見苦しい姿を見せられ、ニグルは不快感を感じた。


 気の集中スキルの発動条件は、強いストレスである。

 それは何も、恐怖を感じた時にだけ発動するスキルではないということである。


 一旦ピリピリが収まったニグルの眉間が、再びピリピリし始めた。


「俺もう飽きてんだよ。腹も減ってるしよ。それにお前、エルが苦しがってんじゃねぇかよ」


 自分のペースで事が進まないことによる苛立ち。空腹感による苛立ち。

 エルの見苦しい姿を見せられていること以外にも、ニグルがストレスを感じる要素は濃厚に存在している。



 明らかに、ニグルの雰囲気が変わった。ベテラン戦闘者であるだけに、アオエボにはそれがわかる。

 嫌な予感がする。現状を演出したことに、アオエボは後悔しかけている。

 だからと言って、アオエボの戦意に翳りは無い。


「怒りに我を忘れたか?素人め」


 そう言うと、アオエボは左手をエルの顔の前まで伸ばした。

 伸ばした手の先、闘い続けてきた男の、逞しく節くれ立った指が、エルの鼻の穴に突き刺された。


「美しい顔が台無しだな。それにな、ある意味お前の女の穴を俺の棒で汚してやったのだぞ。はっはーっ!」


 上手いことを言ったものだと心の中で自画自賛し、アオエボは高笑いした。


 アオエボは、怒りに我を忘れかけているニグルを更に煽り、より冷静さを失わさせ、戦闘における優位性を高めようと考えていた。

 これこそが、アオエボが考えた次の手だ。


 それは、格下の者を相手にする場合の常識としては、正しい考えなのかも知れない。

 しかし、非常識なスキルを使う、少しだけ常識が欠けている男を相手にして、果たしてそれが正しい考えなのかどうか。


 ニグルのことをよく知らないアオエボにそんな迷いがある訳もなく、アオエボの自信に揺らぎは無い。

 アオエボの機嫌は良くなる一方である。


「はっはーっ!どうだ!俺はさっき小便をしたぞ!更にだ!俺は一週間、体を洗っていない!どうだ女!臭かろう!」


 エルには、ある種の匂いフェチの気がある。

 本来その匂いは、エルの嫌いな匂いではない。

 しかしそれは、ニグルのそれの話であって、ニグル以外の男のそれは、ただただ不快である。


 ニグルはそれを察しているから、エルを可哀想に思った。

 それ以上に、自分以外の男がエルにその匂いを嗅がせていることに、ニグルの独占欲が耐えられなくなっている。


 アオエボの目論見通り、ニグルの怒りは増すばかりである。

 アオエボの目論見から外れ、ニグルの戦闘者としての強度は増すばかりである。


 怒りに心身を委ねれば委ねるほど、豪胆になる。

 怒りに心身を支配されれば支配されるほど、冷徹になる。

 怒りに指の先まで塗り潰されれば塗り潰されるほど、殺意が高まる。

 

 ニグルにはもう、迷いが無い。

 今から取る行動は全て、アオエボを殺すと言う目的に繋がる。



 ニグルはゆっくりと、アオエボとエルが立っている場所まで歩き始めた。


 途中でアオエボのカウンターを食う可能性があるのではないか。

 屯田兵の若者がエルの重力魔法によるダメージから回復して襲い掛かってくるのではないか。

 そう言った雑念は、今のニグルの頭の中には無い。

 

 アオエボを殺すためにはアオエボに手が届く場所まで移動しなければならない。

 その移動だけが、現在の目的である。

 次の行動は、アオエボに手が届く場所まで到達してから考えればいい。


 殺意の靄に色を付けたらニグルの形になるのではないかと思える程、ニグルが纏う殺意は濃厚である。

 アオエボはもちろんそう感じたし、常にニグルと行動を共にするエルでさえも、そう感した。

 ここまで殺意に満ちたニグルを見るのは、エルも初めてなのである。


 自分が受けている仕打ちにここまで怒ってくれるほど、自分へのニグルの愛が強いのだと、エルは理解した。

 しかし、ニグルのこれほどまでの殺意の中には、ニグル以外の男がエルにあの匂いを嗅がせていることへの不満が含まれている。

 エルが思っている以上に、ニグルはそんな男だ。



「どうやって殺そう」


 エルとアオエボの目の前に立ち、ニグルは随分と低い声を出した。

 大きな声ではない。どちらかと言えば小さな声だ。なのにやたらと空気を震わせる、よく通る声だ。


 その独特の声を聞いたアオエボは、ニグルの声が脳に直接響くような錯覚を覚えた。

 自覚は無いが、動揺しているのかも知れない。アオエボはそう思った。

 自分は冷静だ。自分の動揺を客観視出来ている。アオエボにはそうとも思えた。


 アオエボがそんなことばかり考えている間に、ニグルの右手は、今にもアオエボの左肩に触れそうな位置まで迫っていた。

 それに気付いたアオエボは、咄嗟に左肩を後ろに引いた。


 アオエボが左肩を引けば、アオエボの左手の指を突き刺されたエルの鼻が引っ張られる。

 エルの鼻が醜く歪みながら引っ張られれば、エルの頭部も引っ張られる。


 ニグルは、エルの頭部が自分のスキルの巻き添えにならないように左肘で押さえた。

 それによりエルの鼻の穴からアオエボの指が抜けた。

 その指先には、エルの鼻血が付着している。

 

 それに気付いたニグルは、意識が飛びそうなほどの怒りを覚えた。


「てめぇこの野郎!」


 ニグルその声はとてつもなく大きく、目に見えそうなほど空気を震わせ、辺り一面に強く響いた。


 エルの重力魔法の圧力で気を失っていた商人たちが、その声で意識を取り戻した。

 意識を取り戻した商人たちが最初に目にしたのは、左肩から右脇腹まで引き裂かれたアオエボの姿であった。




「エル、証拠隠滅だ。この辺り一体を焼き払え。あいつらも全員焼き払え」

「え」

「あいつらがラズヴェルに駆け込んだら、その後で国一つ相手にしなきゃならなくなるだろう。流石にそれはしんどいぞ」

「でも」

「でもじゃない。やれ」


 ニグルは未だに、よく響く低い声を発している。

 これ以上逆らうことが躊躇われるほど、恐ろしい声だ。

 エルは青ざめながら、柏手を打つように掌を合わせて魔力を集中させ、掌を宙に向けた。


「ホムラタテ ホムラタテ ホムラタテ」


 エルは掌に、今までに無いほど大きな炎を発し、商人たちが座り込んでいる方に向かって放った。

 炎が立てる轟音で、悲鳴すら聞こえない。

 そこに人が居たことなど記憶違いだったのではないかと思えるほど、生物の気配を感じさせない。


 ニグルは、踵を返して大炎に背中を向けて、黙って愛車に向かって歩き始めた。

 エルは慌ててニグルの背中を追って、小走りした。


 炎を見て冷静さを取り戻し、ニグルは後悔し始めていた。

 証拠隠滅のために商人たちを焼き殺したことへの後悔ではない。

 それをエルにやらせたことへの後悔だ。脅すように強要したことへの後悔だ。


 ニグルは黙ったまま、キックスターターを踏み込んでエンジンを始動させて、エルが後ろに座るのを待った。

 エルも黙ったまま、タンデムステップに足をかけ、車体を跨いで腰を落とした。


 エルはいつも以上に、ニグルの腹部に回す腕に力を込めた。

 今のニグルに感じる恐怖から逃れるために、本来のニグルに縋るかのように。


 エルのその想いが伝わったのか、ニグルはエルの手を優しくさすった。

 既にいつもの自分に戻っているのだと、知らしめるために。


 言葉はかけられない。

 今声を出せば、エルを再び怯えさせるかも知れない。

 今はただ、何度も優しく、エルの手をさする事しか出来ない。



 広い農地で延焼し続ける炎が、どんどん近付いて来る。

 ニグルは慌ててクラッチレバーを引き、シフトペダルを左足の先で押し込み、スロットルレバーを捻り愛車を発進させた。


 しばらくの間、黙って走り続けた。

 しばらくしてから、ニグルはエルに声をかけた。


「エル、ごめんね」


 いつも通りのニグルの声が聞こえて、エルは安心した。

 しかし、何かしら文句を言うべきなのか、何かしら気を使うべきなのかがわからず、ニグルの腹部に回す腕の力を更に強くして、返事に代えた。


「俺、恐かった?」

「恐かった」


 ようやく、エルはそれだけ言えた。

 

「ごめんね」


 ニグルは再び謝った。


「それにしても、大火事だな。ラズヴェル市民の食生活に重大な危機が迫るな。これは大問題になるぞ」

「ヒロくんが悪い」

「実行犯はエルだけどな」

「はぁ!?」

「ふははははははははは」


 ニグルは高笑いした。

 空元気だろう。



 ニグルは、空元気ついでにスロットルを捻り愛車を加速させた。

 ラズヴェルの外周を一周して、西門の北側に向おうとしていた。


 この世界の住人達はバイクの速さを知らない。

 急いで一周して、何食わぬ顔をして、大火事の現場とは反対方向からから帰ってきた風を装うつもりであった。


「エル!しっかり掴まってなよ!」

「うん!」

「エル!」

「何?」

「エルは俺のこと、ずっと信じてればいいからな!」


 ニグルが何のことを言っているのか、エルにはよくわからなかった。


 ニグルの声と顔を怖いと思ったのは、ほんの一時のことでしかなく、何かしらニグルを疑ったわけではない。

 それだけに、エルにはニグルの言葉が何を意味するのかわからなかった。

 

「わかった!」


 エルは取り敢えず、ニグルに必死にしがみつきながら、大きな声で答えた。


 馬車が移動しやすいように整備された広い農道と言えど、ニグルが愛車を走らせているのはあくまでも未舗装路である。

 ニグルが何のことを言っているのか問い質そうとすれば、たちまち舌を噛んでしまうのではないかと思うほど、時に地面に突き上げられながら、エルはニグルの愛車の上で大きく揺られていた。

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