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「二人の世界を邪魔して悪いんだけど、ニグルさん、いい加減ズボン履いたら?」
返事がない。いつの間にかニグルは、エルの膝の上で眠りに就いたようだ。
褌姿のまま、エルの膝に頭を乗せているニグルを見兼ね、ルルがニグルのズボンを持って近付いた。
「仕方ないなぁ」
ルルは眠っているニグルを起こさないように静々と、仰向けになっているニグルにズボンを履かせた。
ズボンを履かせながら、ルルの目は一点に集中していた。
その視線でエルは、ルルが今でもニグルを性の対象として見ている事を知った。
「お姉ちゃん、ありがとう。あとは私がやるからそこまででいい」
エルは掌の上に小さな火の玉を発生させながら、剣呑な顔をして見せた。
「今日はここで野営しましょ。お姉ちゃん、岩の向こうにテント張って」
「テントは二つでいいよね?」
「二つ?」
「私たちのテントとモリさんのテント」
「また除け者!」
「三つお願い。私とニグルさんのテントとお姉ちゃんのテントとモリさんのテント」
「やだ」
エルは再び掌の上に小さな火の玉を発生させた。
「テント張ったらご飯の準備もお願い」
「任せて!」
「モリさんも解体が終わったらご飯の準備に加わって下さい。夜の見張りは私とニグルさんでやるので」
「はい!」
エルは毅然とした態度で、ルルとモリに指示を出した。
「んふふ。んふふふふ」
「エルさん!解体が終わりました!あっ」
モリが声を掛けながら目にしたのは、一人でほくそ笑みながらニグルの鼻の穴に指を突っ込むエルの姿であった。
「あ」
エルは慌てて、顔を真顔に戻した。
「戦利品を馬車に乗せるの、一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫です!毛皮は硬くてお金にならなそうですし、戦利品は爪と討伐証明用の頭蓋骨だけですから!」
本当は面倒なだけだ。
「ところで、なんでニグルさんの鼻の穴に指突っ込んでたんですか?」
「膝枕してて動けないから暇潰ししていただけです。それだけです」
エルは毅然とした態度で答えた。
しかしその指は、ニグルの鼻の穴の中に入れたままであった。
モリとルルが食事の準備を始めて、少しだけ時間が過ぎた頃、ニグルが目を覚ました。
「なんかこの辺くせーな。ピグミーキングコング糞漏らしてた?」
すっかり回復したニグルは、大きな声で、食事の準備をしているモリとルルに尋ねた。
「漏らしてなかったですよ!余計なものは全部エルさんに燃やしてもらいましたし、臭くないと思うのですけど!」
「そうか?辺り一面臭いけどな。ルルの汗の匂いでもなさそうだしなぁ」
ニグルは腑に落ちない顔で、改めて鼻をきかせた。
「やっぱり臭いけどなぁ」
首を傾げるニグルを見ながら、エルが再びほくそ笑んだ。
エルはこのために、戦闘中にニグルを回復させた右手中指を洗わずにおいた。
洗わないどころか、ニグルを回復させた後、杖を持つ時も掌を合わせる時も、右手中指だけ浮かせる入念さで備えていた。
「そう言えばさっき、エルさんがニグルさんの鼻の穴に指突っ込んでいましたよ!」
「ちょっと待って。エルちゃん、ニグルさんのお尻の穴に指入れて回復魔法使ってたよね・・・」
ルルが顔を青ざめさせた。
ルルの言葉でニグルはハッとなり、後ろをついて来ていたエルの方を振り返った。
「エル!またやりやがったのか!」
「うん!」
エルは満面の笑みで元気良く頷いた。
「その返事のしかた可愛いなぁおい・・・けど許さん!」
ニグルはエルの小さな体を抱き上げた。
「怒ってる?」
エルは眉間に皺を寄せ、唇を尖らせ、首を傾げながら問いかけた。
「エル・・・・いつの間にそんなん覚えたんだよ・・・可愛過ぎて動悸上がるわ。でも許さないんだよー」
凶悪な顔面の中年が、外見美少女の三十路クオーターエルフに釣られた。
「どうしたら許してくれる?」
「水出して鼻の穴洗ってくれたら許してあげる」
「魔法効かないでしょ?」
「鼻の穴に指突っ込んだら?」
「鼻の奥で水出しても意味ないでしょ?」
ニコニコと微笑みながら、鼻が当たりそうな距離で、どうでもいい事を楽しそうに話す二人。
仲間の存在を忘れ、二人の世界に閉じ籠っている。
しかしすぐそばには、空気を読まない男がいる。
「ニグルさん!この布使って下さい!湿ってるからちょうどいいと思いますよ!」
モリはどこで水場を見つけたのか、湿らせた布をニグルに手渡した。
「おう・・・モリ・・・気を遣ってくれて、ありがとうな」
ニグルはエルを解放し、モリから布を受け取り、鼻の穴に突っ込んだ。
「くさっ。これどこで濡らしたの?そこの水腐ってんじゃないの?」
ニグルはそう言いながら布を広げた。
長方形の布の二箇所の角に、長い紐が縫い付けられている。
「あ、それ私の褌」
その布は、ルルの汗などが染み込んだ、褌であった。
「モリ!・・・まぁいいや。さんきゅー」
ニグルは、ルルの褌を鎧の隙間にしまった。
「ところでニグルさん!水場探しませんか!このままでは魔獣ステーキしか作れません!」
「水くらい持ってきてるだろ?」
「飲料用しかないですよ!」
「エルに魔法で水出してもらいなよ」
「僕たちはそれでもいいですけど、ニグルさん摂取出来るんですか?」
「煮込んじゃえば大丈夫なんじゃない?口の中に入っちゃえばこっちのもんだろし。エルもそれでいいだろ?」
「いいよ」
エルは無造作に、大鍋を水で満たした。
「でも体洗いたいし、水場探しするか。エル、バイクで探しに行こう」
「いいよ」
愛車にまたがり、力強くキックペダルを踏み抜く。
キック一発。ニグルの愛車が目を覚ます。
エルの魔力が詰め込まれた魔石が燃料代わりになっているエンジンは、どんな時でもキック一発で始動する。
仮にペダルを踏み損なったとしても、何の問題も無い。
それでも力強くキックペダルを踏み抜くのは、いわば儀式のようなものだ。
「へいへーい」
ニグルが調子良くスロットルを捻る。ニグルの愛車が、快活な咆哮を上げる。
エルは、ニグルとお揃いの亀ヘルメットをかぶり、ニグルの愛車のシートにまたがった。
エルがしっかりと抱きついたのを確認し、ニグルはギアを一速に入れ、愛車をスタートさせた。
単独だから、馬車にペースを合わせる必要が無い。
ニグルは、心地良くなる速度まで一気に加速する。
自然豊かな、人工物の見当たらない美しい景色の中を駆け、清純な空気を全身で受ける。
前の世界で憧れていた非現実が、今ならざらにある現実だ。
水場を探すと言っても当てがない。
そんな事より、見渡す限りの美しい景色の中をエルと二人、タンデムで駆け巡りたい。
そのついでに運良く水場が見つかればそれでいい。
その程度にしか、ニグルは考えていなかった。
「エルー。俺がいた世界ではね、こういう美しい景色があるところはね、真っ黒な道が美しい景色を分断して、雰囲気をぶち壊す景色に不釣り合いな建物が建てられて、金儲けの種にされるんだ」
「それは、残念ね・・・」
「それが無いから、俺はこの世界が好きだよ」
「この世界を好きになってくれたの、嬉しい」
「エルもいるしな」
ニグルの背中に抱き付く腕に力を込めて、エルは返事の代わりにした。
ニグルはなんとなく、西に向かってバイクを走らせた。
目的地の村までの道の下見も兼ねるつもりで。
しかしそれは、討伐依頼対象である悪魔の出没エリアに近付いているという事と同義である。
エルと二人きりの世界に没入しているニグルは、そんな事には気付きもしない。
「ニグルさーん!川があるー!」
エルがニグルの背中から、大声を出し、右手で北を指差した。
エルの右指の向こうの草原の中にひっそりと、水が流れている。
水が、細く長く地表に線を引いている。
進路を北に変え、ニグルは悪路を慎重に進む。
ニグルは、オフロードバイクに乗っていて良かったと、心底思った。
ニグルとエルは小川に辿り着き、その傍にバイクを停めた。
「綺麗な水だね。西の山から流れてきてるのかな」
小川を覗き込むと、透明な水が浅い川底を露わにしている。
ニグルは水を手で掬い、鼻の穴を洗った。
「エル、手、洗いなさい」
エルは、バイクのシートに座りニグルの腰に腕を巻き付けている間も、ご丁寧に右手中指を浮かせていた。
ニグルはその事に気付いていた。
「ちっ」
エルは舌打ちしながら、手を洗った。
手を洗いながら舌打ちしたエルを、ニグルは睨み付けた。
「冷たいっ!」
エルは小川の水の冷たさに驚いて手を引いた。
三十歳の外見美少女のその可憐な姿に、ニグルは思わず微笑んだ。
「冒険者か」
背後から突然、声をかけられた。
ニグルとエルが振り向くと、伸び切った長い髪を束ねもせずに揺らしながら、背の高い痩せた男が立っていた。
とても顔色が悪く、表情が無い。
年甲斐も無い二人の背後にいつの間に忍び寄ったのか、ニグルもエルも、物音にも気配にも全く気付かなかった。
「こんにちは。私たちはキゼトに住む冒険者です」
怪訝に思いながら、エルが答えた。
「どこへ行く」
痩せた男は無表情のまま、重ねて尋ねた。
「この先の村に行くつもりだよ。悪魔討伐にね」
ニグルが、痩せた男の目を覗き込みながら答えた。
「悪魔討伐か。それなら村まで行く必要は無い。今やればいい」
「はい?」
「私がその悪魔だ」
痩せた男が口にした言葉は、余りにも意外なものであった。
「え、悪魔ってそういう登場の仕方するの?」
「誰も通さない。この道を西に向かう者は、全員殺す」
痩せた男は、何の変化も見せずに宣告した。
しかしその宣告を機に、ニグル達と痩せた男の間に漂う空気が、急に冷たく息苦しいものになった。
理屈ではなく、理由も分からず、肌で恐怖を感じた。
ニグルの眉間はピリピリしたが、それでも勝算より恐怖が勝った。
「エル!バイクに乗れ!」
恐怖を感じたのはエルも同じである。
まず、悪魔と名乗った。この世界に生まれ育ったエルにはそれだけで恐怖である。
その上、今までに感じた事のない空気を突然噴出させた。
ニグルとエルは、顔面蒼白になりながらバイクに乗り、慌ててエンジンを始動させ、バイクを走らせた。
震える手でニグルにしがみつきながら、エルは後ろを振り返り、恐怖で大きく見開いた両目で、悪魔の姿を確認した。
悪魔は、さっきまでと同じ場所に立ち尽くしたまま、ニグルとエルを見送っていた。
「エル、あれは駄目だ」
「うん、うん」
とにかくスブルに戻りたい。
早くイフォックに救ってもらいたい。
何を言われてもいいからこの冒険をやめたい。
冒険者として成長したいなんておこがましい考えだったのだ。
魔道具屋の女主人と、その女主人の手伝いをする夫でいいではないか。
たまたま手に入れた過去の栄光なんて手放せばいい。
前の世界でもこの程度の恥なら何度も晒した。
死ぬよりは恥を偲んで生きる方が正しい。
二人で楽しく来た道を恐怖と後悔に囲まれながら戻る。
そのギャップに、ニグルもエルも気付いていない。




