巨大な角と小さな手
生まれて初めて見る魔物。生まれて初めて見る魔法。
生まれて初めて見る、今まで信じていた既存の常識の外側にある光景を見て、田中の思考は止まっていた。
ニグルの髭の痛みを訴えた時以外に、一言も言葉を発していない。
「田中くん、取り敢えずバイクに乗りたまえ。とにかくスブルに行くのだ。そして宿を取ろう。宿で心と体を休ませよう」
ニグルの言葉に、田中はすぐには反応しない。反応出来ていない。
しかし、今やるべき事がスブル入りだけであるという事は明白であり、他に選択肢などあろうはずもない。
選択肢が一つしかないのであれば、迷わず即行動である。そこに躊躇も猶予も必要無い。
と、思った瞬間、ニグルはイラついた。
「田中!早く乗れ!時間の無駄!無駄!無駄!無駄ぁ!」
タンクとシートの境目に置いた荷物の上にエルを乗せたニグルは、田中の気付けのためにも、大声で怒鳴った。
「状況を理解するのは今じゃなくていい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
田中は無言のまま、ニグルのバイクの後部シートに跨った。
それを確認した後、ニグルはバイクを発進させた。
高原を下りきり、ニグルがふとバックミラーを覗くと、大きな大きな鹿のような魔物が一体、ニグル達を追い掛けて来ていた。
「まだ一匹いやがったか。大きいし強そう。鹿の王様かしら」
ニグルはバックミラーを見ながら呟いた。
バックミラーに映る大きさからして、すぐ間近まで近付いて来ているようだ。
「凄く大きい。戦う?」
ニグルの呟きに反応し、ニグルの肩越しに後方を覗き込みながら、エルが尋ねた。
「面倒だから逃げ切りたい!」
と、ニグルは言ってみたものの、バックミラー越しに見る鹿の王様は、すぐ後ろまで迫っている。
「めんどくせーなー!」
ただでさえ短気な上に、ニグルは現在、気が立っている。
ニグルの眉間は、早くもチリチリしていた。
「俺がやる!ちょっと待ってろ!」
「ニグルさん!任せた!」
「わかっとる!」
「え・・・」
エルは「任せた!」「任された!」の掛け合いが戦闘開始の合図だと思っていたし、その掛け合いを気に入ってもいた。
特に打ち合わせていた訳ではないが、遠征に出てから行った二回の遭遇戦では、この掛け合いをきっかけに戦闘を開始した。
自然発生した掛け合いでありながらしっくり来ていただけに、エルはニグルと意気投合している事を再確認出来たと思い、密かに悦に入っていた。
しかしニグルはそうでもなかったようだ。
エルは、切ない肩透かしを喰らった気分になった。
ニグルはバイクを停め、サイドスタンドを立て、左サイドステップに左足をかけ、右脚を大きく上げて田中の頭をかわして地面に下ろし、仁王立ちになって迫り来る鹿の王に向き合った。
しかし、サイドミラー越しにはすぐ後ろまで迫っているように見えた鹿の王は、実際には向き合うと言える程の距離まで迫ってきてはいなかった。
ニグルは、先入観に拠る鹿のサイズ感と、目の当たりにする鹿の王のサイズ感の不一致に戸惑い、恐怖した。
「大型トラックより大きいのですけれど!」
ニグルは、思わず叫んだ。
「おおがたとらっくって何ですか?」
その大きさを既に確認していたエルは、落ち着いてバイクの側で待機しながら、田中に質問した。
しかし、返事が無い、受け入れ難い現実に混乱した田中は、ただの白痴のようだ。
思っていたより巨大な鹿の王に恐怖したニグルの眉間は、バンゴで悪魔を討伐した時以上に盛大にチリチリしていた。
この世界の人間であれば、冷静に考えれば鹿の王が悪魔以下の存在でしかないと理解するであろう。
しかしニグルは所詮、この世界に転移して数ヶ月の異世界人である。人間サイズの悪魔より、大型トラックサイズの魔獣にこそ恐怖する。
萎縮して身動き出来ないニグルに、鹿の王は容赦無く突進する。
頭を下げ、突き出した大きな角で、ニグルを弾き飛ばそうとしながら。
丸太かと思えるほど太い角の先端が眼前に迫り、ニグルは反射的に手を突き出し防ごうとした。
常識的に考えれば、全く無駄な抵抗である。
しかし、ニグルの手に触れた瞬間、鹿の王の角は呆気なく砕けた。
そのことに気付かない鹿の王は、前進運動を止めようとしない。
鹿の王が進んだ分だけ、鹿の王の角が砕かれ続ける。
鹿の王の角はやがて根本まで砕き尽くされ、ニグルのスキル、気の集中による破壊が鹿の王の頭部に達した。
巨大な鹿の王にとって、ニグルの手は取るに足らないほど小さい。
その手が頭部に達して数秒間、前進を続けた。
やがて、ニグルの手が鹿の王の頭骨を破壊し脳に達するに及んで、鹿の王はようやく前進運動を止めた。
ニグルは決して攻撃していない。ただ恐怖心に促されて手を突き出しただけだ。
その結果、鹿の王が勝手に死んだだけだ。
事実はそうであっても、側から見れば、ニグルが鹿の王を倒したように見える。
愛し愛される男の力を誇りに思っているエルは、明から様に喜ぶのではなく、胸を張り、満面の笑みを浮かべ、静かに高揚した。
これでこそニグルであり、ニグルであれば当然の結果であり、そんな事はわかり切った事であり、それを最も理解しているのはこの自分である、と。




